人権と思いやり、共感について
12月のzoomの『世界』を読む会の、阿久澤麻理子『ジェンダー平等へ教育に何ができるか』の議論で、巻君が最後に〔p.231〕で、「不具合の感覚から」マイノリティに共感するというところから、やはりそれは弱者への「思いやり」が入り口になっていることじゃないかと言ったことに、皆は「思いやり」と「共感」は違うんだ。「思いやり」は上下関係で見下しているもの。「共感」は人としての対等な関係だ。別物だと言って終わったが。
(巻君は、「不具合の感覚から」マイノリティに共感するというのは、人権を「思いやり」と理解して、対国、対自治体での人権を考えないことと変わらないじゃないか、と言ったみたいだが)
その後、少々考えてしまった。
「思いやり」はダメで、「共感」は良い、ということについて。
人間は他人の支え(ケア)無しには生きられない存在だ、ということは、弱き者は、助けることが出来る者(強き者)の助けようとする思いに囲まれていないと生きていけないということで、常に支える者と支えられる者があるということだ。助ける・助けられるという非対称な立場があるということだ。
肝心なことは、誰もが(自身も)支える誰かに支えられる者だということだ。今支える側に立つ者も、自分の中に(かつてあり、また将来訪れる)脆弱性を意識していることだ。大人になって「自立」したら健忘症になって、何も出来ない存在から育まれた自分だったことを忘れ去ってしまわないということだ。自身の脆弱性に対する自覚を持つ、か弱い存在として、弱い者に対して「思いやり」の感情を抱くのであって、相手の弱さを弱さと見ないで、ダイレクトに「共感」を抱くのではない。「優しさ」「思いやり」「利他」は唾棄すべき奢りではない。むしろ、賞賛すべき、追い求めるべき人間的な本質・美徳なのだ。
自らの弱さを忘れない者こそが、弱き者ヘの「思いやり」(「共感」を背景に持つ)の持ち主である。
自らの弱さを忘れている愚かな強者(自己認識を欠いている・人間観が単純で粗雑な者)は、弱者を憐れんだり、弄んだり、施したり、自らの慰みの自己満足の対象にする。そして、偽善に溺れて、相手ヘの無遠慮な施しの押し付けを反省することがない。助けているつもりで深く傷つけている。
「後ろめたさ」の感覚は、繊細さを必要とする感覚だ。自分の「思いやり」に忍び込む奢りへの「後ろめたさ」に対する繊細な感度が要請される。
鈍感な親父面の森喜朗会長の、とことん善意は、その粗雑さの罪深さを表現している。
他者の苦しみに同情し心を砕き涙することは、人としてよりよきを求めて生きる上で、根幹に座る大切な構えである。弱き者を守ろうと自らを奮い立たせることは、自己に向かう真摯な態度である。
自らの幸運が、見えていない誰かの不幸の上に立つものでないか気を配り、他者の目に恥じないものであろうと「足るを知る」自制心を持とうとすることは、大切なことだ。
確かに、筆者の言うように、「権利を学ぶことから始める」こと(西欧では成り立っている)が重要だろうが、日本をそういう方向に持って行くことには、皆さん絶望的だった。
その時、いやいつでも、「思いやり」や「共感」を入り口にして、対国、対自治体に、一義的な人権の責務の保持者としての人権の保護を要求する行為へと進み出るという道は、大いにあって良いのではと思う。