富岡『世界』を読む会・22年1月例会の報告
富岡『世界』を読む会・1月例会は1月19日、5人が参加して開かれた。
テーマは『世界』1月号から、「特集1.ケア - 人を支え、社会を変える」の岡野千代『ケア/ジェンダー/民主主義』と村上靖彦『ケアから社会を組み立てる』の2論考、そして「特集2.気候危機と民主主義 - COP26からの出発」の飯田哲也『複合危機とエネルギーの未来』と小西雅子『COP26はどこまで到達したか?』の2論考、計4つの論考を対象に意見交換した。
1.「ケア」について
「ケア」については身近な問題であるのにかかわらず、これまで学習や議論の機会は少なく、認識度は低い。岡野論文はケアについて、わかりよく包括的に問題点が整理され、ケアの重要性と必要性を学ぶいい機会だった。これが参加者一同の共通の感想。
ケアの現状と問題点について、岡野氏の提示する三つのキーワードから考える。
最初のキーワードは、「ケア関係は開放的」であるということについて。岡野氏は言う。ケア関係は常に、ケアの受け手だけでなく与え手の生計と福祉の資源を供給する外部を必要とする。しかし現実は、家父長的な家族規範と責任を家族へ閉じ込めようとする制度的・社会的圧力が、ケア関係を閉鎖的にしている。こうして、社会的弱者としての女性に、ケアが押し付けられる。
二つ目は、「ケア・ペナルティ」。岡野氏はケアの自己責任を強いる新自由主義の下、ケアの不当な価値の切り下げとケアを担う人たちの政治的交渉力のなさを、ケア・ペナルティと呼ぶ。「経済的・時間的に貧困な女性の多くは、ケアを担うことで/担わされることで、ペナルティを科せられている、踏んだり蹴ったりの状態だ」。
三つ目は、「ケア・パラドクス」。①すべての人間はケアの受け手。しかし、ケアを一部の者に押し付けてきた。②ケアは社会の根幹で個人の人格に関わる不可欠の実践。しかし、ケアの社会的評価は低い。③ケア関係は開放的。しかし、ケア関係を支えるのは、閉じられた社会的弱者としての家族。
岡野氏は、このパラドクスを解く鍵は民主主義にあるとし、「ケアを政治の中心へと移動させ、開放的なケア関係を社会全体で支える仕組みを作るべき」と提起した。
話し合いでは、ケア労働の対する社会の無関心や政治の不作為について、怒りの声が上がった。また、ケア労働者の低賃金に拘わらず、地元の医療法人が次々と、高齢者施設を設立し医療施設も増設していることから、病院経営者は「ケアは儲かる」と考えているのではないか、という指摘があった。自分の身の回りでは、「ケアはただ」「家庭内での女の仕事」という常識がまかり通っている、という感想があった。「ケアの報酬は公的に決定すべき」との岡野氏の主張に賛成し、行政の取り組みが重要だとの発言があった。外国人、とくにフィリピン女性が、ケアの重要な担い手になっていることについて話題となり、彼女たちはひたすら他人(ひと)を支えるばかりで、自分たちを支える手立てを持っていないのではないか、と懸念する声が挙げられた。
話し合いの後半は、参加者が直面したり心配している「自分事のケア」が、話題となった。90代の義母の世話をしているが、自分の心身の弱体化を痛感し、自らのケアの必要性を感じている。自分が病気で倒れたら、息子によって一方的に施設に送られるかと思うと、涙が出てきた。母親の終末医療を自宅でしそのまま看取ったが、そのことが母にとって本当に良かったのかどうか、いまだわからない、などなど。「ケア」を対象化して論ずるには、あまりに身近な問題であるためか、ケアの社会的・政治的議論よりも自分事の話題に関心が集まった。
2.気候危機について
『世界』は、気候危機について最も積極的に取り上げてきた論壇誌といえる。そのオピニオン・リーダーの一人が、飯田哲也氏だ。飯田論文からエコモダニスト対エコラディカル(脱成長論)の「気候危機論争」をみる。
エコモダニストは、技術革新による気候危機回避と経済成長をデカップリング(切り離す)ことで、環境悪化を抑えつつ経済成長を続けることは可能だとする。原発、炭素回収、ジオエンジニアリングなどテクノロジー万能論。一方、エコラディカル(脱成長論)は、気候危機の深因は際限なき経済成長にあるとし、資本主義の格差・貧困とともに、無限の経済成長に終止符を打つべきと主張する。しかし、短期間の劇的なテクノロジーの新機軸を求めるエコモダニストも、脱成長と社会経済的変化を求めるエコラディカルも、COP26の目標「2050年世界の温室効果ガス排出量実質ゼロ」のための時間的実現性に疑問がある。日本政府の立場は、ほぼエコモダニストの立場だといえる。斎藤幸平やナオミ・クラインがエコラディテカル。飯田氏は、脱成長論を排し飛躍的技術革新に依存する意味で、エコモダニストの立場に近い。彼は、太陽光・風力発電、EV、AIなどのイノベーションが文明史的大転換を引き起こし、無尽蔵で永続的な太陽エネルギー文明へ移行していく、と高らかに歌い上げている。飯田氏のエコモダニストとの違いは、原発や炭素回収などへのネガティブな評価だ。また、際限なき欲望と無限成長から「低エネルギー社会」への転換を訴え、社会・経済的変化をも求めている。
気候危機はケアとは逆に、必ずしも身近な問題ではなく、自分事としての意識は薄い。参加者の一人は「外では山が燃え盛っているのに、家の中で平然と生活している状態」と気候危機下の自分を表現した。気候危機・脱炭素を自分の問題として何ができ
るか。群馬という地方で生活し、自動車のない生活は考えられない。EV車への期待があるが、高価過ぎて手が出ない。太陽光のあたる昼間、脱炭素タイムを設けノーストーブ、ノーデンキで、縁側で日向ぼっこしている。
議論の中で、飯田氏のいう太陽光等の「文明史的大転換」「三つの破壊的変化」について、本当にそうなのか、過大評価ではないか、といった疑問が出された。一方、北欧やドイツなどの再生エネルギーの拡大・浸透ぶりから、飯田氏の見解に賛成する意見もあった。「気候変動対策でも日本は世界から取り残される」ことの文脈で出てきた森嶋通夫「日本沈没論」の話題。森嶋氏は、90年代に2050年の日本社会を予言し、「非常に長い不況時代を経験する」「現在よりずっと低い国のひとつになる」「中国、南北朝鮮、台湾とともに東アジア共同体形成に成功すれば、生活水準は高いが国際的には重要でない国になるが、それほど不幸なことではないだろう」。森嶋予言から四半世紀たち、彼のネガティブな予言ばかりが実現し、ポジティブな予言については真逆の東アジア情勢だ。
生活水準は下がり、国際的地位も下がり、近隣諸国とは醜くいがみ合っている。なんという国だと、ただ溜息が漏れるばかり。
話し合いは、COP26の成果を積極的に評価した小西雅子論文に移る。小西氏は、COP26成功の背景を、①世界中で洪水・猛暑・森林火災が猛威を振るい、人々が気候危機の脅威を共有したこと、②再生可能エネルギーの顕著な普及拡大などエネルギ―革命で脱炭素化の実現が現実的になってきた、ことの二点を挙げた。しかし参加者からは、各国は高い目標を掲げたが具体策に乏しく、中ロ首脳の欠席、インドの消極性など国際的足並みも乱れ、楽観的になれない要素が多い、という指摘があった。そして、COP26の成果報告とともに、マイナス面、克服すべき問題点等の掘り下げをすべきだと提起された。
3.富岡『世界』を読む会・2月例会の予定
(1)2月16日(水)9.30-12.30時、西部コミュニティ・センターにて
①ダニエル・リード『Fun to Drive? トヨタと気候変動』
②飯田哲也『テスラ・ショック ― モビリティ大変革と持続可能性』
③鶴原吉郎『電動化が引き起こす自動車産業の「解体」と「再構築」』
『日本の法曹養成制度は社会の変化に対応できているか』
(3)その他:会場は相変わらず寒いので、暖かい格好で参加してください。