夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

今日も雨  アネモネ

2009年02月25日 12時50分57秒 | 日記


今日も雨が降っています。
今週は、雨、曇りの予報が続きますね。
今年は雨が少ないと思っていましたので、雨も恵みになるのでしょうね~
ということで、今日も代わりばえのしない手近な材料でお許しください。

今日はベランダのアネモネを選びました。
1月26日に最初のアネモネをアップしていますね。そのときの花はもう枯れてしまい、茎から切り取ってしまいました。
そして2月13日には2回。その後も2月15日に再三再四ってことで、またまたアップしていますね。野山の花や、鳥以外で、ベランダの鉢ものを短い期間内に、こんなに撮ったことはたぶんなかたことですね。
これは2番咲きのもの、これがず~っと開いては閉じてがんばっています。
ラナンキュラスは一度開くとあっという間に散ってしまいますけど、アネモネは昼間開いて夜は閉じる、ずいぶんと長い間楽しませてくれます。
特に今日のような曇りの日には半分開いた形で終わります。むしろこの方が綺麗かもしれませんね。



話は関係のないほうへと飛びますけど、散歩をしていて、よく何を撮っていますかって聞かれます。
それに対しては、目に付いたものを何でも撮っています、散歩の記録ですって答えます。
自分でも特に何を撮ると決めたことはないし、専門を持つ気持ちはありませんので。
何度も書いていますけど、私にとっての写真は散歩を続けるための、付加価値でしか過ぎません。
ちょっと足を延ばせば、あんな花が咲いている、こんな鳥がいるとなっても、まず散歩としてそれが歩ける範囲内であるのかが一番先に考えること。それを超えていれば、私の対象から外れてしまいます。

よく花を撮る人たちは、その被写体の特徴を捕まえることを大切にします。花弁の形や、葉っぱ、茎の状態、そしてできれば周りの状態など、それらを取り入れた写真を大切にする。
鳥を撮る人もまったく同じです。要するに私が言う図鑑の写真、証明写真ですね。

でも、写真には別な用途もあっていいと思います。ただ綺麗と感動したときにそれを写しこむ写真。私のようにシベだけを撮っていたり、光を透かした花弁の重なりなんてのを撮ると、わざわざこれがアネモネですって言う必要もないような、つまりたんなる造形としての写真。当初は花や鳥の名前などを入れておりませんでした。知らなかったということも大きいのですけど、大げさに言えば造形、アートとしての写真もあっていいはずですね。

図鑑の写真に走る人が多いのは分かります。最初は綺麗で撮っていても、だんだんと撮り進んでいくと、また同じものかってことになって、いろいろ別な観点から撮り始める。そして別な種類のものを撮りたいと思いはじめる。こんな鳥、あんな花が咲いているって聞けば、機材一式を抱え込んで走っていく。
そうこうしていくうちにだんだんとお仲間も増えていくと、これはこの点が特徴だからこれを抑えなければこの花、この鳥の写真とはいえないって知識も増えてくる。図鑑の写真には、そのような対象の持っている特長などの知識も必要なのですね。

私はアートなんて大げさではないけど、自分が綺麗だと思えばそれでいいのだという気持ちがありますので、毎回毎回、同じアネモネを撮っていても、それでいいとおもっています。
被写体もそうなら、構図も、撮り方も、ただ綺麗、ただ可愛いだけ。
撮っているときに、被写体に向かって、綺麗だよ、、、可愛いよ、、、って言ってあげている、その瞬間が好きなんです。
そこには、技術や、知識のかけらもない。
でも、それが私にとっての写真。
それが私があの重い薪を背負って、歩き回る目的で、楽しみなんですね。

鳥の人なら見向きもしない、ヒヨドリや、烏や、鷺、カモメでも綺麗だ、可愛いと思えばそれを写したいと思います。
いえ、私にはむしろ、風景も含めて、そのようななんでもないものの中に綺麗なもの、かわいいものを見つけたときに嬉しさがたまらなく貴重に思えます。

でも図鑑の写真は、特徴を捕まえて、シャープに撮れればそれでいいという、ある程度の目安がありますけど、自分が綺麗だと思うものを撮影しようと思うと、実は終わりがないのですね。
そんなことはかってありませんでしたけど、仮に百人の人が綺麗だ、すばらしいと言ってくださっても、おそらく自分は、どこかで満足していない。ここはこうすべきだった、あのときに受けた感動がこれを見ただけでは感じられない、、、、、
終わったあとは、鬱になってしまうのですね~
まあ、いつも次回は、、、、ってことにしてしまいますけど。 
いつまで次回があるのか、、、だんだんおぼつかなくなってきて、初めて次回の持つ意味が分かってきたのかな、、、

もちろん、図鑑の写真も100%満足いく写真を撮ることは困難なのでしょうけど、

私はアーティストではない。油や、版画を扱うときにはそれなりに自分でも作ってみたりしたことはあります。でもそれはあくまで技術的な限界を知ることが目的でした。
少し自分なりのイメージを再現してみようと思い出してから、彼らがしょんぼりしていても多少は理屈ではなく共感できる地ができてきたのかなって、思ったりしています。
でも、今やもう遅すぎるのですけどね。