夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

大和は国のまほろば    そして上総

2010年01月24日 11時10分17秒 |  気になる詩、言葉


いすみ市がある房総半島の南は上総と呼ばれていますね。そして千葉の北側が下総。今の感覚からすれば反対のように思われます。
なぜかな?

先日の日記「果たて」でもちょっと紹介していましたけど、弟橘媛の

さねさし相模の小野に燃ゆる火の
火中に立ちて 問いし君はも
         (火中=ほなか)

(夫の倭健命は)相模の国の戦では、燃え盛る火の中でも(自分のことよりも)私のことを気にしてくださった。(そのあなたのためですもの)

彼女はこの後、荒れ狂う海の神を鎮めるために海に身を投じます。

ちなみにこの詩の小野はそれ以降焼津と呼ばれましたって。
ただし、確認は取ってないので、気になる人は調べてね。

そこから上総に向かった倭健命は走り水(今の横須賀あたり)で、荒れ狂う海にぶつかったのです。弟橘媛の入水で鎮められた海を渡ってやっと上総に到着します。

上総からの帰りに、四阿嶺というところで、自分が征服した東国を一望しながら、「吾妻はや」(我が妻や~)って三回嘆いたってことになっています。
これから関東を「あずま」と呼ぶようになったのだそうです。
知ってた?
(ただし、日本書紀だと、倭健命は上総から東北の北上川まで遠征し、その帰路、群馬の上野で「吾妻はや」って叫んだとなっています。
どちらにしろ、土地の名前を天皇家の人々の功績と絡めるのは、日本書紀、古事記いずれにしろ、お役目ですので。
今の、週刊誌編纂も大して変わらない。

どうにも役に立たない、ごみを追加すると、
この前に、甲斐で、「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」という詩を詠み、これが連歌の始まりなのだそうです、、、

そして、帰国途中、三重県の亀山で亡くなってしまうのですが、そのときの詩とされるのが、国偲びの詩。(日本書紀では父親の景行天皇の詩としている)
彼の魂は白鳥になって大和に戻ります。




あの時代、上総は東海道の国のひとつ。今から考えると下総のほうが上総って呼ばれてもおかしくないのですけど、なぜでしょうか?

実は、東海道とは海の道。奈良から東に向かって来ると、焼津あたりで、船を仕立てなければなりませんでした。
現在の東京あたりは湿地で歩ける状態じゃなかったのですね。
だから、東の「海」の道って呼ばれていたのです。

九州への道も、陸路よりも、瀬戸内海を通る海路が多く使われていました。
九州は鉄の産地でもありましたし、古くから開けた一帯、
(邪馬台国が九州だったとか、天孫降臨がどこだったとかって話は、面白いけど、武蔵の湿地に足を踏み入れるようなもの、抜きさきならなくなって、先にも後にもいけなくなります。だから、ここではしませんね。
でも、最近の考古学の発見って、目を見張るものがありますね~ もう少し長く生きられると、完全にあの時代のことが日の目を見るのでしょうけど、、、、
そうなったらロマンがなくなる?
じゃ、別に無理して長生きする必要もないのですね。よかったよかった)
なんてことは別にして、だから、瀬戸内の水軍が発達したのですね。
伊豆にも、房総にも、瀬戸内やその水軍のゆかりの地名が今でもたくさんのこっていますよね。
日本は国の成り立ちから海の国だったんですよ。

ところで、東の海の道の終着が上総の国だったんです。
この国はいろんな地方を合併してどんどん大きくなっていきます。
国の格は大国。
首都は今の市原。
奈良から下総へは上総経由でしか入れなかったのです。
ということで、今の東京に近い下総が当時の地理から言うとむしろ遠国。
下になってしまったのですね。


なんて、書くことないから、ごみみたいなことを書いてました。
写真も昨日撮ったもの。

先ほど、出版企画、コンテンツの作成なんかをやっている、ものすごく博識の、そしてものすごくネットワークを持っている方から、写真と、文章をほめられましたんですよ。こんなことは私の一生の中で何度でもないだろうけど、でも、こんな文章を書いていたんじゃ、嫌われちゃうよね、、、、
次から、もっとちゃんと気合を入れなきゃ、、、、、
って、ブログをはじめたときから思ってはいるのだけど、、、、