人はいさ心も知らずふる里は
花ぞ昔の香ににほひける
貫之
古今集 1-42
これには詞書がついていまして
長谷寺に参詣するためにいつも宿にしていたうちを訪ねるとそこの主が「家はず~っと、ちゃ~んとありますのに」って言いだしたので、そばに咲いていた梅の枝を折って詠んだとなっています。
人の心はわかりませんけど、故郷では、梅の花は昔どおりに香っていますね~
主人のほうは疎遠になったことに対しての皮肉な言い方。
それに対して貫之が、あなたの心は変わったかもしれないけど、梅の花はほれこの通り昔のままに香っていますよって答えたもの。
それに対して、主人はすぐに、
花だにもおなじ香ながら咲くものを
植ゑたる人の心しらなむ
って、返しているんです。
花は植えた人の気持ちが分からないから同じように香っているんですよ、、、
ってね。
ま~、ストレートな物言いですけど、それでもこれだけのものを即興で受け答えできるってすごいですよね。
ちなみに、このあとすぐに二人は仲直りしたそうです。
よかったですね~

でも、面白いです。
花が咲いたとか、散ったとかって、世の人の心のはかなさを大騒ぎしているのに、反面、花は変わらないのに、人の心は移ろいやすいって気持ちもあるのですよね。上の詩もそれが基本にあるのですね。
漢詩を長崎弁でには劉希夷の白頭吟の最初の一部を紹介していました
洛陽城東桃李花 飛來飛去落誰家
洛陽女兒惜顏色 行逢落花長歎息
今年花落顏色改 明年花開復誰在
訳は、上のリンクをクリックして前の日記を見てくださいね。
このときには、この詩の有名な部分は省いていました。
年年歳歳花相似
歳歳年年人不同
来る年も、来る年も、花は同じように咲いているけど
年、そしてまた年、人は同じではない。。。
梅の花を見ながら、ああまた新しい一年が始まったって思い、梅の花を頼りに時の流れを見られるけど、人や人の心は頼りにはできませんものね~
ところでここで使った花、この前の桜と同じ場所に咲いていた梅を撮ったつもりだったけど、ごちゃごちゃになっちゃった。花だけのクローズアップではよく分からないのです。梅でよかったんでしょうね~