夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

今日の多摩川散歩

2010年02月24日 15時13分09秒 |  姥捨て山は大騒ぎ

昔、仕事をしていたとき。作家、作品を取り上げる最初は、自分の気持ちに響いてくるものかどうかだった。
特に現代作品の場合、できればその作家と直に会ってその作家がなぜそんな作品を作ったのか、どんな風にその気持ちを展開し、作品に込めたのか、、、、そんなことを話し合ったりした。

芸術作品は、新しい価値を生み出すもの。今までにない価値観の上にあるものを評価するため、自分が追いついているためには、常に自分の気持ちを白紙に出来る努力が必要だった。

もちろん、まったく自分の個人的な好き嫌いであれば、そんなことは必要ない。
ただ作品の前に立ち、これ好き、これ嫌いって思っていればいいことだけど、
展覧会やステージや、コンサートを企画し、人を集め、金を集めるためには、それだけでは駄目なんですよね。
自分の感動を、その人たちにも伝え、その人たちを引きづりこまなければならないられなければならないから。

友人の美術史家たちは、それをあまりに個人的なこととして、客観的に受け入れられるためには芸術、文化の中でのその作家、作品の評価すべきだと述べていたけど、それなら、今までの価値で判断することとあまり違わない。
まったく新しい価値を生み出している人、そしてその価値の評価には繋がりにくい。
素人の感慨、考えで仕事が出来てきたというのは、他には稀なる幸運に恵まれたというべきなのでしょうね。

でも、仕事を離れて、芸術に触れるということからも離れてしまった。
私の周りにあるものは自然の作り出したものだけ。

芸術作品と違い、自然の作り出す美というのは、そこにあるもの。
だから、なぜとか、どういう風にとかってことは一切関係がない。
ただただ、その折々に、自分がそれを受け入れられるかどうかなのですね。
最初の自分の感動、それだけが重要。

でも、どこにでも綺麗なもの、美しいもの、感動的なものってあるんですよ、なんて暢気に書いているけど、今となっては、そこにあるものの美しさに感動することもだんだん少なくなってきている。


今日の散歩。
何も撮るものがないって、バッグにしまいこみぱなしだったカメラを、散歩の終わりに、これじゃだめだと、強迫観念に追われて、とにかく、何か撮らなければって、しかたなく撮ったもの。
感動も何もないところからの産物。
どうころんでも、いい写真が出来るような状況じゃないね。

歳をとると、柔らかな心で物を見て、感動する、そんな気持ちを持ち続けるって大変なことなのだな~って、身に沁みている。