誰にも会えない、何も開かれないさびしさを書いてきたが、人の世が続く限り全ての営みが閉じられているわけではない。甲子園では高校野球が行われているし、プロ野球もサッカーも熱戦が繰り広げられている。ただ、全てが無観客や大幅な入場制限の下に行われているのが淋しいのだ。
大相撲も当初の無観客からようやく一部の入場がゆるされてきたが、それでも飲食は禁止され応援も声援はだめで拍手だけとなっている。異常ではないか? 私が最後に観戦したのは2014年の9月場所であったから既に7年前のなるが、マス席でチビチビやりながら「旭天鵬!」などと声をかけながらの観戦は、何とも言えない雰囲気だった。力士の奮闘もさることながら、お目当ての力士に送る多彩な声援に包まれた会場全体の高揚感こそが大相撲というものだと思った。
無観客の寂しさを最も強く感じたのはオリンピックであった。全世界のアスリートは、4年に一度(今回は5年目であったが)のオリンピックを目指して技を磨き、磨き詰めてその日に臨む。その技の展開は、それをすぐそばで見つめるキラキラと輝く観衆の眼(まなこ)と共にあるのではないか? 無観客までしてオリンピックを開く意味があったのか? 延期も出来なかったのか?
しかし、出場選手のインタビューなどでは、殆どの選手が先ず「このような状況で開催して頂いたことに感謝する」と発言していた。アスリートにとっては、先ず開催されること、技を披露する戦いの場が提供されることが一番なのだ。それだけ苦しい準備を積み重ねてきたのであろう。
とはいえ無観客は、2021年のさびしい夏を象徴する言葉であることに相違あるまい。