旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

トルコ紀行⑳ ・・・ 旅と買い物(つづき)

2009-11-12 22:25:26 | 

 前回の皮屋(厠ではありませんぞ)の買い物風景(と言うよりトルコ商人の売り込み風景)につき、若干補足しておく。
 
われらが敬愛するフラットガイドの言うように、トルコの誇る子羊のジャケット、コートの類は確かに高品質のようであるが、それを売り込むトルコ商人も上手い。先ず柔らかい子羊の皮を触らせながら、「この品をシャネルのブランドでパリで販売すると30万円以上する。日本の銀座なら40万円だ。しかし今日は、みなさんわざわざトルコにいらして頂いたので15万円でお分けする。それに消費税分を差し引き127千円、なお10%値引きして115千でどうだ」とくる。パリや銀座の三分の一打というわけけだ。
 
若しこの説明が、「良質の子羊の皮を使い優秀な技術で作っているので原価は3、4万円、それに少しばかりの儲けと税金をかけて国内では7、8万円で売っているが、お金持ちの日本のお客様には15万円で買っていただきたい」とくれば、誰も買わないだろうが、シャネルの30万円が先に出て半値の15万円に始まるので、先ず買い気が動き、少々値切り10万から12万ぐらいで買うことになるのだ。

     

 もっと面白いのは絨毯屋だ。先ず絨毯を織る生糸を、怪しい髭の男が紡いでみせ、その糸で織姫が織り込む様をじっくり見せる。解説の男が流暢な日本語と日本の諺を駆使してトルコ絨毯の良さを語り尽くす。次に広間に通し、チャイを振る舞いワインを飲ませて客の神経を緩ませた上で品物を広げて行く。そのうち各人を個室に連れて行き商談に入る。

 勝負あり、である。私はこれを買うつもりは無かった。六畳や八畳のものはすぐ数十万円から百万円する。小さい中途半端なものを買っても仕方がないからだ。ところが、ワインで神経を緩められることは計算に入れてなかった。広間に座らされて「まあ、ごゆっくりしてください」とか言われて差し出されたワインを、酒好きの私は断れない。そのワインが、時を置いて商談の時刻に効いてくる敵の計算どおり、「買っても仕方の無い中途半端なもの」を買う羽目になるのである。

 しかし、旅の買い物はその使用価値を買うのではなく“旅の思い出”を買うのである。子羊のコートは妻の誕生祝(旅の最終日が妻69回目の誕生日)という目的が少しはあったが、これとて私は思い出を買ったつもりだ。そして思い出には値段は無いのである。金には絶対に代えられないものがあるのである。
 もっとも、最後の宝石屋で娘に買ったトルコ石のブローチには、いつ面倒を見てもらうことになるか分からない娘の機嫌を伺っておくか、という老人の醜い性根があったかもしれない。しかしそれとて“トルコの思い出”に他ならない。


                           


トルコ紀行⑲ ・・・ 旅と買い物

2009-11-08 14:27:55 | 

 買い物は旅の重要な要素であろう。なんと言っても見知らぬ土地に行くのであるから、何か珍しいものを買おう、その地でなければ無い物を買おう、と心ははやる。加えて、短期間のツアーなどでは、それに異常心理が加わる。そもそも、①二度と来るかどうか分からないのだからとにかく買っておこう(隣の町へ移動すればもうこの品は無いのだ!)、②時間が無いのだから良し悪しは別に買っておこう、という心理の下にあり、その上、③同僚を含めみんな買いあさっているのを見て、自分も買わなければ損をしているような気分になり、加えて、④旅行会社やガイドが、そのような心理をくすぐるのにピッタシの店に案内するのである。

 今回のトルコでは、それにガイドフラット氏の愛国的熱弁が大きく作用した。彼は長いバス旅の中で、トルコの歴史、文化、産業を語りながら、産品の質の良さを強調した。
 
「トルコの地中海地方は暖かく、そこで育つ羊の皮は薄く柔らかい。しかもその子羊の皮で作ったジャケットやコートは絶品だ。是非買いなさい。」
 
「トルコ絨毯は世界一だ。ダブルノット織りは緻密で柔らかく丈夫だ。シルクロードの終点で、絹の絨毯を是非とも買ってください」
 
「トルコ石については言を俟たない。」(買わないなんて信じられない、ってな言い草)
 
そしてその通り、われわれは「皮屋」、「絨毯屋」、「宝石屋」の順に案内されたのである。
 
そこにおける物風景(前回「狂乱の買い物風景」などと書いたが、その言葉は訂正する)について詳細は別稿に譲るが、いずれにせよ相当な“大商い”が演じられたことだけは確かだろう。何よりも驚いたのはトルコ商人の商売根性だ。

       

 まず最初の皮屋・・・、最初に見せられたのは美男美女によるファッションショー、しかも続いてわれわれツアー客の中から三人が舞台に引き上げられ(幸か不幸か、わがワイフもその1人であったのだが)、お似合いのコートなどを着せられ先ほどのファッションモデルに連れられて登場する。「日本人にもこんなに似合いますよ」と言うところを見せて、やっと店に案内して強烈な売込みを始める。
 
流暢な日本語と豊富なことわざ(日本の諺)を駆使しての商いに、前述したような心理状態にある客は次々と落とされていく・・・というしくもである。

 豊富なことわざといえば、フラットさんのシャレを一つ。
 
「これからバスの長旅です。ここでトイレを済ましておいてください。なんたってここは皮屋(かわや・・・厠)ですから。」
 
隣席のワイフがすかさず「座布団一枚!」と叫んだが、革張りのVIPバスには座布団は無かった。(日本の三菱自動車製バスであったが)
                                      
          


24節気の酒 ・・・ 立冬

2009-11-07 13:33:47 | 

 今日は立冬、暦の上ではもう冬が始まったのである。『暦便覧』によれば「冬の気立ち始めて いよいよ冷ゆれば也」とあるので、本格的に寒くなる頃に入ったというのであろう。

 前の節気「霜降」に際して、「とても霜の降る気配など無く、季節感としてはピッタリこない」というようなことを書いたところ、その直後から寒くなり、前週の前半はまさに冬そのものという寒さであった。北海道はもちろん日本海側は雪が降り、東京も最低気温が5度ぐらいとになり霜降という感じがピッタリであった。あわててセーターを着込み、部屋のエアコンを暖房に切り替えた。季節の動きとは実によくできているものだ。
 ところが立冬の今日は、また10月の陽気に逆戻りのようだが。

 季節の変化が激しいように、この時節の酒もにぎやかだ。海の向こうからはボージョレ・ヌーボー(ワインの新酒)解禁の月で、今年はかってない良い出来との触れ込みで、第一陣到着のニュースがにぎやかに流れている。私は、何年か寝かして、落ち着いて丸みを帯びたワインが好きであるので、ボージョレ・ヌーボーをあまり美味しいと思わないが、日本人にはとかく人気があるようだ。

 日本酒は、9月ごろから出始めた「ひやおろし」のシーズンが終わり、それこそ熟成、火入れを経た落ち着いた酒が美味しい時節だ。
 今年は9月下旬にトルコなどに行って、ひやおろしに触れる機会が無かった。酒は一般に冬季に造り、絞ったあと一回目の火入れ(60度ぐらいの低音殺菌)をして夏の間タンクで寝かし、秋に2回目の火入れをして出荷される。その2回目の火入れをしないで、出来るだけ生のままで、熟成した風味、日本酒の風味を生かしたまま飲もうというのがひやおろし。ボージョレ・ヌーボーは今年のブドウで造ったばかりのワインであるので、これは“生生(なまなま)酒”と言うべきものだが。

 ひやおろしは、日本酒の通が秋口の酒として最も喜ぶ酒である。しかし前述したようにそのシーズンは過ぎて、今や、じっくり熟成した火入れ酒の落ち着いた丸みのある味が、天麩羅、すき焼き、鍋物などの日本料理と合う時節になってきた。

 今月は焼酎も黙っていない。111日は「焼酎・泡盛の日」と定められており、今月を焼酎月間として同業界は宣伝これ努めている。
 
11月は、酒にとっては意外ににぎやかな月なのである。
                           


松井選手のMVPを称える!

2009-11-05 20:22:01 | スポーツ

 毎日それほどのニュースもないのでトルコ旅行のことばかり書いてきたが、これほどの事件が起こると、日記の性格も持つブログには書きとめておかねばならないだろう。
 松井秀喜選手の「ワールドシリーズMVP」についてである。

 ワールドシリーズの優勝を決める試合で、4打数3安打(1ホームラン)6打点をたたき出して優勝に導く、というのは通常では難しいことであろう。世界の野球人とファンが最も注目しているときにそのような成績を出すというのは「普通の人間には出来ない」ことと考えていいだろう。
 それが出来る人間を、どう考えたらいいのだろう。

 川上、中西、王、長島・・・、金田、稲尾、それから江夏・・・、彼らが去って最近の野球は小粒になったなどと思っていた。しかし、野茂はメジャーでノーヒット・ノーランを何回もやったし、イチローは何百年ぶりの記録をいくつも塗り替えた。そして松井は、ついにワールドシリーズのMVPに輝いた。
 これだけをもって「日本人の野球水準が高い」と断ずることはできないかもしれないが、「最近の野球は小粒になった」という前言は訂正する必要があるのかもしれない。

 折りしも今日の日経新聞スポーツ欄コラム『テェンジアップ』に豊田泰光氏が「鑑賞にたえる空振り」と称して面白いことを書いていた。
 最近、実務派の四番打者が増えてきたが「鑑賞にたえる空振り」がなくなったと言うのだ。自分を含めて昔は一発に賭けての空振りがあったが、清原あたりで終わりだと言う。
 「清原に『直球で来い』と言われ、素直に投げ込んだ近鉄・野茂、ロッテ・伊良部。打たれて悪びれない投手、三振してすがすがしい表情の清原とも、監督とすれば迷惑だったろう。だが、その勝負は球場をどよめかした」
とそのコラムは書いている。

 恐らく、三振覚悟で振りきらなければ、ワールドシリーズで勝負をかけた投手の投げ込む球を3安打することは難しいだろう。まかり間違えば松井は4三振であったかもしれない。たとえ三振でも「鑑賞にたえうる空振り」なら彼の値打ちを下げることはなかったのであるが、それを「3安打6打点」とするところに、彼の並々ならぬ才能と幸運があったのであろう。

                            
       


トルコ紀行⑱ ・・・ 「グランド・バザール」、旅と買い物

2009-11-03 19:08:45 | 

 トルコの旅もアッと言う間に最終日を迎えた。ボスフォラス・クルージングを終えて「グランド・バザール」を垣間見て、その近くで昼食を終え飛行場に向かう。午後5時フライトで日本へ帰る・・・。最初の訪問地「エフェソスの遺跡」などまだ6日前のことだが、一ヶ月ぐらい前のように思える。毎日がそれだけ充実していたのであろう。
 
どこについても言えることだが、グランド・バザールなど少なくとも半日ぐらいかけないと「見た」ことにならないのではないか。われわれはほんの一時間、まさに垣間見ただけであった。もっとも、疲れはたまってきたし、それまで各地でかなり高額の買い物をしてきたので、イスタンブールには悪いが垣間見る程度にさせてもらった方が良かったのかもしれない。

 
KAPA
LI CARSI(カパル・チャルシ屋根つき市場)の入口門

 それにしてもこの市場は立派なものだ。トルコ語でカパル・チャルシュ(屋根つき市場)と呼ぶように、立派な屋根が付き、入り口など堂々たる門構えである。澁澤幸子著『イスタンブール歴史散歩』によれば、「屋内面積30平方キロメートル余、迷路のような屋内に、三千三百軒の店舗のほか、アンティークや貴金属が売買されるベデステン、モスク、泉、レストラン、郵便局等々がひしめきあっている。帝政時代は騎馬での通行が許され、巨大なオイル・ランプで照らされていたという」(同43頁)とある。
 
私とワイフは、ほんの2、3百メートルも歩いただろいうか、目指す「エブルアートのネクタイ」も探し当て得ず、もちろん、モスクも泉も郵便局も見ていない。エブルではないが自分と弟にネクタイを、他にスカーフとオリーブオイルをお土産に買った程度だ。しかし、これも行かなければ絶対にわからない雰囲気の市場(いちば)であった。

 市場の原型はビザンティン時代にさかのぼるようであるが、今のように立派な市場にしたのはオスマン帝国を築いたメフメットⅡ世(征服王)という。彼は「商人たちが安全公正に商売が出来るためにつくった」(前著42頁)というから、やはり民のことを思う指導者としての器(うつわ)を持っていたのであろう。織田信長が楽市・楽座の政策で商人の自由な活動により経済を活性化させたことなどと、一脈通じるのではないか。民の発展なくして国の発展が無いことは、洋の東西を問わない大原則であっただろう。

 そんなことを思いながらバザールを歩いただけで大した買い物もしなかったが、実はこの旅に関わる買い物は、その前の各地にあったのだ。エフェソス・パムッカレ間の「皮屋」、カッパドキア周辺の「絨毯屋」と「トルコ石屋」がそれである。そこにおける“狂乱の買い物風景"については次回に譲る。
                         

最後の食事をした場所の町並み


                                     


トルコ紀行⑰ ・・・ ボスフォラス海峡、ルメリ・ヒサール

2009-11-01 15:29:49 | 

 正味6日のトルコツアーの最終日は、ボスフォラス・クルージングとグランドバザールの買い物。この日も好天に恵まれ、紺碧の空に白雲の浮かぶもとで快適なクルージングを楽しんだ。何百人も乗れそうな船をわが23人で借り切り、広い甲板から船室、船首から船尾まで、みんなはしゃぎまわって楽しんだ。
 
ボスフォラス海峡とかダーダネルス海峡とか、世界史や地理の時間に聞いてはいたが正確な位置すら覚えていなかった。アジアとヨーロッパにまたがるイスタンブールの町が、そのボスフォラス海峡で分けられていると知った後も、せいぜい数キロの長さの海峡かと思っていたが、黒海とマルマラ海をつなぐ実に30キロに及ぶ海峡である。イスタンブールは、そのほんの南端に位置するだけで、われわれのクルージングも南の三分の一を往復したに過ぎない。
          

 この海峡には、日本の技術と技術員、それに円借款などが多大な貢献をしたと伝えられる二つの大橋が架けられている。その第二ボスフォラス(ファティフ・メフメット)大橋の西側の袂に、あの「ルメリ・ヒサール(要塞)」が聳えている。

   

 ルメリ・ヒサール!
 
塩野七生の『コンスタンティノープルの陥落』を読んで、トルコに行ったらこれだけは見よう、と思った。それは、コンスタンティノープル陥落を決定付けたのはこの要塞にあった、と思われたからである。
 
オスマントルコの若き皇帝メフメットⅡ世は、コンスタンティノープル攻略の野望を胸にこの要塞を築く。攻略開始のちょうど一年前、14523月のこと。それからわずか139日で完成したと伝えられる。ビザンティン帝国が生き延びるためには、要塞着工を阻止して直ちにオスマンとルコを叩くべきであったろう。しかしその力は既に無く、何がしかの交渉はするが結局は座視するしかなかった。勝負はここに決まり、オスマン側はボスフォラス海峡の統治権を手にする。小麦をはじめ黒海沿岸の膨大な資源を運ぶ船は、全て砦に止められ高い交通料を取り上げられ、従わない船には容赦なく砲弾が打ち込まれた。

 歴史は新しい扉を開いた。1453年5月29日コンスタンティノープル陥落、オスマントルコ帝国が誕生したのである。
                          
   


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