夏の甲子園で沖縄代表興南高校が明日の第二戦の第四試合で二勝目を狙う。
興南―文星付 あす激突/足絡め確実に1点狙う(沖縄タイムス)
「名選手必ずしも名監督ならず」の例は多いが西日本新聞は興南高校の我喜屋監督のことを「かつての主将が名将に 」と書いた。
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興南の活躍を地元紙が騒ぐのは当然として、
全国紙の毎日新聞が我喜屋新監督をコラムで取り上げた。
以下に全文紹介する。
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余録
我喜屋優監督
沖縄県勢で初めて夏の甲子園に出場したのは1958(昭和33)年の首里高校だ。初戦で敗れたナインが持ち帰ろうとした甲子園の土は、植物検疫法に触れるため、那覇港で海に捨てられた。米国の統治下だった時代の悲話だ▲その10年後、沖縄代表の興南高校が甲子園でベスト4に入る旋風を起こした。このときの主将で4番打者が今年、24年ぶりに興南高校を甲子園に導いた我喜屋優監督だ。我喜屋さんは高校を卒業後、静岡の社会人野球の強豪、大昭和製紙に入社し、72年に転勤で北海道白老町に移った▲沖縄育ちの我喜屋さんには経験のない寒さが待ち受けていた。だが、その地で34年も野球漬けの日々を過ごした。栄光と挫折も味わった。74年に大昭和製紙北海道は都市対抗で優勝、北海道に初の黒獅子旗をもたらした。一方で、不況のためチームは何度も休廃部の危機に見舞われた▲監督就任3年後の93年、ついに廃部が決定した。だが、野球好きの白老の住民は我喜屋さんや選手たちを見捨てなかった。地元企業や自治体が資金を集め、クラブチーム「ヴィガしらおい」として復活。結成2年目の95年に念願の都市対抗に出場した。地元への何よりの恩返しだった▲我喜屋さんは97年のチーム解散後も北海道に残り、野球指導や講演に走り回った。こんな縁も生まれた。隣接する苫小牧市の駒大苫小牧の監督に佐賀出身の香田誉士史監督が就任すると、慣れない雪上トレーニングを手ほどきしたのは我喜屋さんだ▲昨年夏、母校からの監督就任要請に「体力的にも最後のチャンス」と決断した。就任4カ月で沖縄代表となり、甲子園の初戦も突破した。広陵に負けた駒大苫小牧の借りは自分たちが返す。我喜屋さんはそう思っているに違いない。
毎日新聞 2007年8月12日 0時40分
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かつての勤務地北海道の白老の皆さんも我喜屋監督率いる興南高校の活躍に北の空から声援を送っているという。
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