週が明けて、ウェブサイトで見る限り地元新聞の「集団自決」関連記事は大人しくなったと思ったが、
手元の琉球新報をめくると次のような見出しが目に飛び込んだ.
<識者評論 歴史のねつ造> 長山靖生(評論家)
事実のわい曲は死者の冒涜
「集団自決」強要否定は強引
御馴染みの「ねつ造」と「わい曲」の二文字の勢ぞろいである。
この「識者」の評論家先生、どのようなご高説を垂れるかと斜め読みしてみたら、
結局は、陳腐な「一億総玉砕」、「生きて虜囚の辱めを受けず」というスローガンを持ち出して、軍命令の根拠にしている。
この先生「問題の本質」は理解していない「識者」のようだ。
スルーしようかとも思ったが、典型的な「識者」の評論として煩雑を省t利で、サワリの部分を引用する。
<・・・近年、歴史教科書から、沖縄戦の際に軍部による自決の強制があったという記述が削除された。 沖縄の民間日本人は勝手に死んだ、というのだろうか。
軍隊の中のどの、人物が命令を出したのか、という詮議(せんぎ)はこの際措(お)こう。>
ここまで読んで、おっと、現在論議の的の肝心な部分を「この際措いて」もらっちゃ困る、と思わず呟いた。
論点を摩り替えるサヨクの常套手段だ。
後は読まずと内容は予測できる、が念のため引用する。
<・・・しかし当時、日本政府は「一億玉砕」、「生きて虜囚の辱めを受けず」とも教えた。 そして沖縄では軍人が民間人に残った手りゅう弾や銃を渡したのだ。 これで自決の強要はなかったというのは。あまりに強引だ。
当時、小学生だった私の両親は「本土決戦になったときに、ちゃんと死ねるかどうかが不安だった」といった。>
「一億玉砕」、はともかく「生きて虜囚の辱めを受けず」については、異論がある。
「生きて虜囚の辱めを受けず」は「戦陣訓」の一節である。
戦時中、一兵卒だった司馬遼太郎氏の述懐では、「戦陣訓という訓令があるとは知っていたが、どんな内容であるかは全く知らなかった。その程度のものだった」としているし、同じく著名作家の安岡章太郎氏も同じようなことをなにかの本で書いていた。
と言うことは「生きて虜囚の云々」についても戦時中でも兵隊にさえ良く知られておらず、戦後有名になったと言うこと。
それは、グアム島から帰った横井正一氏の口を介して戦後の後付として誇大に語られるようになった。
「軍人勅諭」はともかく、軍人さえうろ覚えの「戦陣訓」の「生きて虜囚云々」に民間人が縛られて命まで自ら絶った、
と言う決まり文句はサヨク「識者」の戦後の後から付け足した屁理屈である。
>当時、小学生だった私の両親は「本土決戦になったときに、ちゃんと死ねるかどうかが不安だった」といった。
いざと言う時に「死ねるかどうかが不安だ」と言う気持ちは敗色濃厚だった当時の日本人が持つ共通の不安感であり、
実際に地上戦の経験をした沖縄住民が死ぬ手段を求めて彷徨ったとしても無理はない。
死ぬ手段を求めて「ネズミ殺し剤」(殺ソ剤)を捜し求めたと言う証言もある。
「鬼畜米英」は女子供を強姦し八つ裂きにして殺されると信じていた。
圧倒的戦力の米艦船に小さな島を取り囲まれ、艦砲射撃を受けて村民はパニックに陥っていたのではないか。
その結果逃げ回っている最中に日本兵に遭遇し、手りゅう弾を渡されたのは、その日本兵の思いやりではなかったのか。
沖縄タイムスが捏造した上洲さんの記事でも、自分で命を絶つ手段が無く、切羽詰って殺ソ剤(ネズミ殺し剤)で死のうと思ったと証言している。。
このような状況で逃亡中、手りゅう弾をもらったら少なくとも「軍命令」というより「渡りに舟」の心境ではなかったのか。
《上洲幸子さん(84)は母ら4人と壕に避難。母は殺ソ剤での自死を主張したが、上洲さんが「逃げられるうちは逃げよう」と訴え、島内を歩き回った。ため池近くに村民や日本兵がおり、梅沢裕部隊長の姿もあった。梅沢部隊長は村民を集め「米軍は上陸して、どこにでも入り込んでくるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」と話したという。》(沖縄タイムス 7月7日)
(注):沖縄タイムスは、後段の「梅沢部隊長・・・」以下のくだりは誤報として訂正記事を出している。 |
◇
圧倒的物量を誇る米軍の上陸に沖縄戦の守備隊はなす術もなく、
出来ることは残り少ない手りゅう弾を分け与えることが
せめてもの親切だったとは考えられないのだろうか。
歴史を現在の基準で判断すると大きな過ちの穴に陥ってしまう。
現在の平和な時代、「手りゅう弾」などと聞くと「悪魔的」な印象を持つのもやむを得ない。
だが、米軍の攻撃を受けてパニック状態の住民にとって手りゅう弾は「悪魔」ではなくより楽に死ねる「天使」にも思えたとしても可笑しくないだろう。
当時の沖縄住民が、手りゅう弾の方が「ネズミ殺し」や「舌を噛み切る」より楽だと考えたとしもおかしくはない。
満州ではソ連軍の侵攻直前、日本人住民は残り少ない毒薬を奪い合って、それを、もしもの時のお護りにしたという証言も有るのだ。 |