狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

毎日コラムのGJ  沖縄戦で散った本土出身県知事

2008-01-01 14:26:39 | 未分類

 

新年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

平成20年1月1日

狼魔人

 

                     ◇

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去年はほぼ一年を通して沖縄のマスコミをにぎわせたのは、沖縄慶良間島の「集団自決」に絡む、高校歴史教科書検定問題、と「沖縄戦冤罪訴訟」だろう。

教科書問題と裁判問題は「集団自決」の「強制の有無」について左翼勢力が一貫して糾弾してしてきたのは「残虐非道な日本軍」 であり、天皇を中心とした「侵略国家日本」である。

このような左翼勢力の印象操作の結果、沖縄戦は日本対米国の戦いと言うより、「日本軍対沖縄住民の戦い」といったイメージの新聞見出しが何度も地元紙面のトップを飾った。

明治どころか昭和も遠くなってしまった現在、日本がアメリカと戦争をしたことさえ知らない若者が出てきているとも聞く。

彼らの沖縄戦に対する心象風景が「日本軍に侵略された沖縄住民を解放に来た米軍」といったイメージに成っていれば左翼勢力の心理作戦は一応の成果を上げたことになるのだろう。

ちなみに大田元県知事は「日本=侵略軍、アメリカ軍=解放軍」の歴史観で多くの沖縄戦史を著している。

以下に引用する大田前沖縄県知事の著書「沖縄の決断」の紹介文にこの左翼政治家の歴史観が凝縮されている。

まぎれもなく、沖縄はかつて日本国の植民地であった。

古くは薩摩の過酷な搾取に支配され、太平洋戦争で沖縄県民は軍務に活用され、やがて切り捨てられ、そして卑劣にも虐待された歴史がある。

その意味では、沖縄戦のあとに上陸してきたアメリカ軍は沖縄にとって解放軍のはずだった。≫
(大田昌秀著「沖縄の決断」朝日新聞社刊)http://www.kamiura.com/chuu18.htm

沖縄戦が「日本対沖縄の戦い」である以上、沖縄戦でマスコミに登場する本土出身は役人であれ、軍人であれ侵略国家の先兵として全て悪役でなければならないはずだ。

今朝の毎日新聞コラムが珍しく、沖縄戦当時の本土出身知事に賛辞を送っている。

そう、沖縄戦では多くの沖縄県民が犠牲になったのは事実だが、多くの本土出身者も犠牲になった。

全国から沖縄に集結した20数万人の日本兵の中には、不届きな行為に走るものもいただろう。

現在の平和な日本でさえ残虐非道の事件は連日後を絶えないではないか。

圧倒的物量に勝る米軍の上陸で日本兵がパニックになり、一部に不届きな行為が有ったからとしても、それで「残虐非道な日本軍」と断定することは出来ないはずだ。

戦前最後の沖縄県知事島田叡は兵庫県出身であった。

カレは1944年10月10日の沖縄空爆の後,沖縄が激戦地になることを承知しながら新しく沖縄に赴任した。

そして去年教科問題で大騒ぎした慶良間島「集団自決」のおよそ2ヶ月後の6月27日頃壮絶な戦死をしている。

島田知事の命日が27日頃、とあやふやなのはそれだけ米軍の「鉄の暴風」が壮絶を極めた証左である。

1951年、県民からの寄付により、島田知事をはじめ戦死した県職員の慰霊碑として、「島守の塔」が建立された。

島田知事と同じく県民に慕われる本土出身の軍人大田実中将のことは沖縄のマスコミはあまり取り上げない。

その点毎日新聞の下記コラムは元日を飾るに相応しいGJである。

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正月の空の下で=玉木研二(論説室)


 1921(大正10)年正月6日、旧制一高対三高の野球試合が京都の三高校庭であった。延長十一回裏、三高二塁走者が短打で長駆生還、サヨナラの本塁を踏む。「一高三高野球戦史」という古い本に乱舞する応援団の写真がある。

 勝利の走者は中堅手の島田叡(あきら)、19歳。ラグビー選手でもあった。東京帝大から内務省に入り、戦争末期の45(昭和20)年正月、沖縄に官選知事として赴任する。

 沖縄が戦場になる気配が強まると、本土出身の官僚らは出張名目で島を離れた。44年末には前任の知事が上京したまま戻らず、別の県へ転任辞令を受けるという異常事が発生した。大阪府内政部長だった島田は後任を打診され、即諾する。周囲が心配すると「死にたくないから代わりに誰か行って死んでくれとは言えない」と語ったという。

 着任した島田新知事は食糧確保のため命がけで台湾に交渉に行くなど公務に走る。地上戦下でも部下たちと住民保護に腐心し、軍壊滅の南部で栃木出身の荒井退造警察部長と消息を絶った。元読売新聞記者、田村洋三氏の委曲を尽くしたノンフィクション「沖縄の島守-内務官僚かく戦えり」(中公文庫)に詳しい。

 沖縄戦の教科書記述で世論波立った昨今だからか、中央官庁の不始末が相次ぐ今だからか、島田知事や最後まで県民を裏切らなかった公職者たちの存在に思いがめぐる。

 そして思う。大正の正月の空の下、三塁をけり、本塁へ疾駆する一人の若者。その果敢な心持ちと24年後の正月に死地赴任を即諾した心持ちは同じに違いない。つまり、彼はスポーツマンだったのだ。

毎日新聞 発信箱 2008年1月1日 0時04分

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そして思う。大正の正月の空の下、三塁をけり、本塁へ疾駆する一人の若者。その果敢な心持ちと24年後の正月に死地赴任を即諾した心持ちは同じに違いない。つまり、彼はスポーツマンだったのだ。

この最後のくだりには思わず涙がにじんだ。

沖縄マスコミが本土出身の官僚・軍人をいかに悪し様に言おうとも、沖縄県民は島田県知事への敬愛の気持ちを忘れてはいない。

沖縄県の高校野球で夏の県大会を制した高校に「島田杯」が授与されるが、これが野球を愛した島田知事に対する県民の敬慕の念の何よりの証拠である。

島田県知事は1945年1月31日沖縄に赴任し、同じ年の6月27日頃戦死している。

僅か半年足らずの短い期間、

いや、県政史上最短命の沖縄県知事であった。

 

【追記】1月2日 13:40

島田知事のことを県政史上最短命の県知事と書いたが、官選知事として任命されていながら一度も赴任しなかった沖縄県知事がいた。

ちなみに戦前は日本全国全て官選知事。

だが、この男は問題外でしょう。

<8代 小田切磐太郎 : 1916年(大正5年)4月28日 - 1916年(大正5年)5月4日(赴任せず) (ウィキより)>


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