狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「ハーバービューホテルの決闘」第七章 メディアの驕りが雲仙・普賢岳災害をもたらした

2009-05-01 07:15:36 | 未分類

 

 






 

 

 

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■豚インフルエンザが日本に上陸!
・・・・・メディアの驕りが雲仙・普賢岳災害をもたらした■

作家の五木寛之さんが一時休筆して仏教を勉強するため京都の龍谷大学へ通っていたときの話をラジオで聞いた。

下駄を鳴らして街を闊歩して学生気分を味わったそうだ。 作家としてではなく一般市民の目線で見ると理不尽なことも多く体験したが、そんな時、「書いてやるぞ(告発するぞ)」といった筆を持つ者の「メディアの権力」みたいなものが頭をもたげて、反省したという。

流行作家の五木さんにして然りなので、報道に携わるマスコミがどれだけ「メディアの驕り」を持っているか想像に難くはない。

カメラを持つと怖いもの知らずになると誇らしげに語る報道カメラマンをよく見る。

「メディアの権力」を抱えたカメラマンにはさすがの暴力団も一瞬ひるむという。

だが、豚インフルエンザはカメラにひるむことなく、近づくものに襲い掛かる。

メキシコで取材する日本のマスコミは一部の大手を除いて殆ど撤退したと聞く。

功名心に駆られて豚インフルエンザの発生国にノコノコ出かけて罹患患者をカメラで激写とか、あるいは感染国を巡礼して「特報!豚インフルエンザ現地情報」なんてバカなことで、行ったり来たりは止めて欲しい。

ビールスの伝播に協力するバカマスコミは麻薬患者並に、再入国を禁止すべきだろう。

 

マスコミは「メデイアの驕り」が多くの被害者を出した「雲仙・普賢岳の悲劇」を忘れるべきではない。

「メディアの特権」も自然の猛威には無力であるあることをを示す好例が雲仙・普賢岳災害だ。

古いエントリーだが、毎日継続的アクセスがあり、毎年特にこの時期になるとアクセスが増えるのがこのエントリー。

マスコミが報じない「雲仙・普賢岳噴火災害の真相」

危険な火砕流で立ち入り禁止になった地域に「メディアの驕り」でバカマスコミが多数踏み込んだ。

バカを救出するため多くの消防団員、警察官それに民間人が尊い命を犠牲にしたことを忘れるべきではない。

                  ◆

 

■「ハーバービューホテルの決闘」第七章■

那覇市内の最高級ホテルで行われた沖縄の「識者」たちが集う大宴会場で大乱闘を演じた二人の怪人がいた。 

そのうちの一人、それも先制攻撃をかけた側の人物が、元琉球大学教授の現役県知事であり、そして後には参議院議員となる沖縄の「識者」だったことに驚き、そして同時に大爆笑してしまった。

その乱闘の原因を追っていたら、止め処もなく話は脱線していく。

さて、乱闘の原因の最大の理由である沖縄メモリアル構想に話を戻そう。

世界各国に戦没者を顕彰する慰霊の碑があるが、例えばベトナム・メモリアルはベトナム戦で戦死したアメリカ兵だけを刻んだ碑であり、ベトナム戦の生き残りが建立したもの。 

そこには米兵の戦没者より多いはずのベトナム兵やベトナム住民の戦没者の名は刻まれていない。

ところが、上原氏が構想する沖縄戦メモリアルは、敵も味方ない「すべての戦没者」、つまり沖縄戦でなくなった沖縄住民、日本兵、アメリカ兵、そのすべてを集め、1995年の沖縄戦五十周年の年に巨大な碑にその名を刻むという前代未聞のものである。

問題は沖縄の住民の戦没者数であった。

上原氏は、沖縄県が発表している12万2000人という数字や太田昌秀氏が自著で発表している17万8000人という数字が、統計的にデタラメであることを自著『沖縄トップシークレット』(沖縄タイムス刊)で発表した。

上原氏は、実際の住民の戦没者数の調査は、各字単位で中学、高校、大学生など若者たちを中心に改めて調査する予定だった。 この調査を機会に沖縄の若者たちが戦争を知るようになるという副次的効果も期待した。

建立する場所には1990年秋、激戦地であった具志頭村(現・八重瀬町)が村有地を提供すると名乗り出てきた。

実は具志頭村の上原文一氏は「平和の壁」構想を既に県に提出していたのだが、戦没者の名を刻むという構想にかけていた。 しかも上原氏の構想は、戦没者と言っても、敵味方に関係なくすべての戦没者名を刻名するという世界でも類を見ない壮大なもの。

具志頭村が上原氏の構想に渡りに船と村有地を提供したのも当然であった。

そこで具志頭村の屋宜村長が太田知事への協力要請を提案してきた。

太田知事の本性を知らない村長なら県の協力を仰ぐということは当然の提案であり、村有地を提供してもらうこともあって、上原氏が村長の提案を拒否する理由はない。

上原氏は自分さえ「1フィート運動」の轍を踏まないように気をつければよいと考えた。

そう判断した上原氏は、村長と同道で知事に面会すべく約束を取り付けた。

 

上原氏は村長と一緒に知事に面会することになるのだが、そこで再び太田氏の正体を知らされることになる。

その上、又しても結果的に煮え湯を飲まされることになる。

そのときの場面を上原氏自身の文章を引用して紹介する。

ぼくは自信満々だった。 だが、屋宜村長は「太田知事の協力を得たら、もっと順調に行くのではないか」と言ってきた。 ぼくは91年3月下旬、太田知事との面会を取り付けた。 4月5日、屋宜村長、上原文一、ぼくのアメリカの美人秘書の4人で知事室へ向かった。 桑高知事室長がでてきて、知事は屋宜村長らを外して、ぼくだけで会いたいと言ってきた。 様子がおかしい。 ぼくは構わず、屋宜村長らと一緒に知事室に入った。 ぼくが、沖縄戦メモリアル建立の趣意書を知事に手渡し、ピノー先生が送ってくれたアメリカ兵戦没者のリストを示しながら、知事に協力を要請した。 意外なことに、知事はこう言ったのだ。 
「沖縄戦メモリアルは私も昔から考えていて、これは県でやることになっている。 具志頭村は金がないからできないだろう。 具志頭村と君は蝋人形の戦争資料館をつくったらいいではないか」 これには一同、ぎょっとし、憤慨した。 ぼくはその時、太田昌秀の正体を見た。 何という偽善者だろう。 最後に知事は言った。 「具志頭村に沖縄戦メモリアルを建てることは新聞に発表しないでくれ」 ぼくらは憤然として知事室を出た。

勿論、上原氏と屋宜村長が太田氏の「提案」に同意するはずはなく、太田氏の協力は除いて当初の計画通り、上原氏と具志頭村だけで実行することになるが、結局名誉欲の塊の太田氏にトンビに油揚げで又しても盗作されてしまう。

現在「平和の礎」と名を変えた沖縄戦メモリアルの概要を、太田氏が「君は蝋人形資料館云々」した沖縄県平和祈念資料館のHPから抜粋し以下に引用する。

 

平和の礎概要

建設の趣旨
沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などでなくなられたすべての人々の氏名を刻んだ祈念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建設する。

刻銘対象者
国籍問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人々とする。この場合、沖縄戦の期間は、米軍が慶良間諸島に上陸した1945年3月26日から降状文書に調印した同年9月7日までとし、戦没場所は沖縄県の区域内とする。ただし、次に掲げる戦没者についても刻銘対象者とする。

○沖縄県出身の戦没者
・ア 満州事変に始まる15年戦争の期間中に、県内外において戦争が原因で死亡した者
・イ 1945年9月7日後、県内外において戦争が原因でおおむね1年以内に死亡した者(ただし、被爆被害者については、その限りはない。)

○他都道府県及び外国出身の戦没者
・ア 沖縄守備軍第32軍が創設された1944年3月22日から1945年3月25日までの間に、南西諸島周辺において、沖縄戦に関連する作戦や戦闘が原因で死亡した者
・イ 1945年3月26日から同年9月7日までの間に、沖縄県の区域を除く南西諸島周辺において、沖縄戦に関する作戦や戦闘が原因で死亡した者
・ウ 1945年9月7日後、沖縄戦の区域内において戦争が原因でおおむね1年以内に死亡した者

基本理念
■戦没者の追悼と平和祈念 去る沖縄戦などで亡くなられた国内外の20万人余のすべての人々に追悼の意を表し、 御霊を慰めるとともに、今日、平和を享受できる幸せと平和の尊さを再確認し、世界の恒久平和を祈念する。

 

このように「平和」の文言を数多くちりばめた趣旨や基本理念を読めば、これを建立した太田県知事の業績を評価するものは多いだろう。

だが、その「平和の礎」の裏に潜む名誉欲の塊と化した県知事、そして彼に擦り寄って名誉のおこぼれを頂こうとする沖縄の識者たちのドロドロとした権謀術策を知る県民は少ない。

すべてを知るはずのメディアがこれを報道しないからである。

続く

 

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