狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

バンザイクリフの投身自殺も軍の命令?

2009-05-24 10:28:55 | ★集団自決

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沖縄の出版物には蝿のように左翼文士が集まってくる。

過去の『うらそ文藝』もその例外ではなかった。

同誌のバックナンバーをめくると、「タイムス史観」で毒された文化人の名前が続出する。

古い号には『鉄の暴風』の執筆者の太田良博氏の名前も見られるくらいだ。

「集団自決軍命説」を唱えるお馴染みの面々をザット拾ってもこのようになるー石原昌家、嶋津与志(大城将保)、目取真俊、石川為丸の各氏、そしてこれに元琉球新報社長の宮里昭也氏や福地曠昭氏を加えると『うらそえ文藝』は「集団自決論争」に限ってみても左翼文士の巣窟と見られても仕方ないだろう。

その『うらそえ文藝』が発売されて既に2週間経過するが、予想通り沖縄二紙は黙殺でこれに答えている。

一方ネット上では当日記が火付け役になった感はあるが、『うらそえ文藝』の衝撃が駆け巡っているようだ。

だが、揶揄するものはあっても、まともに反論するものはいない。

沖縄タイムスは「米軍流弾事件」でもすっトボケているが、トボケついでのつもりか、次のような記事を平然と書いている。

空襲が途切れ、壕から出て海を見ると、島の周囲を埋め尽くすような黒い艦船の群れ。「遊軍が来たぞー」。バンザイしたのもつかの間、地鳴りのような艦砲射撃が始まった。日本軍ではなく、米軍の艦船だった。自宅のある○○○の街を見ると、天を突くような炎に包まれていた。

 途中で合流した父親は、戦車砲の破片で左足をえぐられ動けなくなった。もう家族みんなで死のう―。覚悟を決めたが、父親から「君らは逃げられるだけ逃げなさい」としかられた。父親を壕に残し、最北端の○○○岬を目指して歩き始めた。それが父親との別れとなった。>( 2009年05月24日 社会  )

わざと地名は伏せたが、これは沖縄戦の「集団自決」の記事ではない。

沖縄タイムス  2009年05月24日 社会 

わが祈り 海越えて/南洋墓参・最後の旅/名護市の仲村さん 深い心の傷 同行できず【社会】 画像あり


県人1万3000が戦没


 太平洋戦争中、日本の統治領だった旧南洋群島で亡くなった県出身者らを供養する南洋群島慰霊墓参団(主催・南洋群島帰還者会)が26日、サイパンに向け、沖縄を出発する。帰還者の高齢化などで、40回目の今年で打ち切りとなる。「もうひとつの沖縄戦」といわれ、1万3000人ものウチナーンチュが命を落とした戦い。多くの帰還者が高齢の身をおして参加する一方、過酷な記憶からいまも再訪に踏み切れない人も少なくない。「どうか自分の分まで手を合わせてほしい」。さまざまな思いを背負い、墓参団は最後の旅に向かう。(鈴木実)

 銃を手に、木にもたれかかった姿で息絶えた日本兵。うつろな目で空を見上げたまま、何の反応も示さなくなった友人。累々たる死傷者をかき分けるように、「鉄の暴風」の中を北へ北へと逃げた。

 サイパンへの米軍の攻撃が本格化した1944年6月。名護市の仲村繁一さん(78)は、現地の国民学校高等科1年生だった。

 空襲が途切れ、壕から出て海を見ると、島の周囲を埋め尽くすような黒い艦船の群れ。「遊軍が来たぞー」。バンザイしたのもつかの間、地鳴りのような艦砲射撃が始まった。日本軍ではなく、米軍の艦船だった。自宅のあるガラパンの街を見ると、天を突くような炎に包まれていた。

 途中で合流した父親は、戦車砲の破片で左足をえぐられ動けなくなった。もう家族みんなで死のう―。覚悟を決めたが、父親から「君らは逃げられるだけ逃げなさい」としかられた。父親を壕に残し、最北端のマッピー岬を目指して歩き始めた。それが父親との別れとなった。

 多くの避難民が海に身を投げたバンザイクリフの近くで、繁一さんも右足を撃ち抜かれた。唇や左手も被弾し、いまも傷あとが残る。近くにいたいとこの女の子は足の甲をえぐられ、みるみるうちに血の気がなくなり、息を引き取った。

 その後、捕虜になり、収容所に送られた。再会した乳飲み子の妹は、栄養失調と疲労でまもなく力尽きた。墓地の一角に穴を掘って埋め、「照子の墓」と書いた角材を立てた。写真はすべて焼け、父や妹の顔も、もう思い出せない。

 終戦後、仲村さんは当時の記録を書きつづった。だがあまりにもつらく、記憶を消し去るようにすべてを捨てた。墓参団にも参加せず、人に話すことを避けてきた。「後世に語り継がねば」と、少しずつ体験を口にするようになったのは、定年を迎えてからだ。

 だが、胃の全摘出や糖尿病の合併症で体力はなく、もはや現地行きはかなわない。「行きたい気持ちもあるが、どうしても勇気がなく、年も取りすぎた。せめて代わりに祈りをささげてほしい」と思いを託す。

                    ◇

このところ慶良間島の「集団自決」の記事を沖縄二紙の紙面で見ることはないが、それに代わって南洋群島慰霊墓参団の記事が続いている

いきなり冒頭引用の文を読んだら渡嘉敷、座間味両島の「集団自決」の記事と錯覚した人も多いだろう。

だが、サイパン玉砕時の県出身住民の「集団自決」とその翌年続いて沖縄で起きた「集団自決」は同じ状況で起きている。

両者の関連性を無視して沖縄戦を語ることは出来ない。

そう、サイパンの集団自決も慶良間島の集団自決も犠牲者のほとんどは沖縄県人という共通点があり、

圧倒的多数の米戦艦に島を包囲され、逃げ場を失った住民がパニック状態になって「集団自決」に走った状況はサイパンも沖縄も同じであった。

ところが沖縄戦・慶良間島の集団自決では戦後60数年も経っているのに、

集団自決は「軍の命令だった」として、自分が親兄弟を殺害したことを軍の命令に責任転嫁する一団がいる。

その一方、ほとんど同じ状況で起きたサイパンの「集団自決」では「軍の命令だった」といった責任転嫁の声は聞かれない。

その理由は「援護法」の集団自決に対する被害者適用の有無にあると書いた。

沖縄戦「集団自決」とサイパン玉砕ーその根本的相違

この事実だけ見ても「集団自決軍命論」がいかにこじつけであり、後付けの責任転嫁であることが自明である。

沖縄タイムスはサイパン玉砕の生存者たちが「集団自決は軍の命令だった」といわない事実に何の疑問も持たないのだろうか。

事実を報道するのが新聞記者なら当然疑問を持つだろうし、疑問を持てば必然的に『鉄の暴風』のいかがわしさ、すなわち「集団自決軍命説」のいかがわしさにも気がつくはずなのに。

さもなくば、バンザイクリフの投身自殺も満州での集団自決も「軍の命令だった」と主張すべきではないのか。

                   ◇

 

沖縄タイムスは報じていないが珍しく琉球新報が小野田さんの講演会を報じている。

教育者としての小野田さんの講演会なら黙殺も出来ないのだろうか。

「助け合いが大切」 元日本兵、小野田さん講演(2009.5.24) カメラ

生徒らを前に講演する小野田寛郎さん=23日、伊良部高校
小野田さんの話に聞き入る生徒ら=23日、伊良部高校体育館

 【伊良部島=宮古島】伊良部高校PTCAは23日、太平洋戦争の終結を知らないままフィリピンのルバング島で1974年までの約30年間生活していた旧日本軍の元陸軍少尉・小野田寛郎さん(87)を同校へ招き、講演会を開いた。同校の生徒らを前に小野田さんは「戦争は一番、人間がやってはいけないこと。人は一人では生きていけない。助け合いが大切だ」と呼び掛けた。
 講演会は小野田さんの妻・町枝さん(71)が、テレビ番組で離島で少人数ながら全国大会にも出場する伊良部高校バレー部について知り「励ましたい」と提案したことで実現した。
 講演会の冒頭、小野田さんが74年に帰国した際のニュースや、75年にブラジルへ移住し牧場を開発した様子、84年に再び帰国し、キャンプ体験を通し青少年育成を図る「財団法人小野田自然塾」を開いた経緯などを映像で紹介した
 小野田さんはルバング島での生活を「残って何年でも戦えとの命令だった。殺すか殺されるかが続いた。しかし一人で生きていたわけではない。仲間を亡くし最後の1年半の後に日本へ帰れた」と明かした。
 「皆さんが生きる中で自分だけ良ければ良いというのは駄目。伊良部高校がバレーボールで優勝したのも各選手が力を発揮する目的意識があるからだ」と語った。

                    ◇

 

田母神沖縄講演会告知前航空幕僚長田母神俊雄氏 沖縄講演会

 

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コメント (2)

沖縄県警vs米軍調査団 「理解はするが訂正はしない」???

2009-05-24 06:40:51 | 金武町流弾事件

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刑事ドラマよくあるシーンにこんなのがある。

主人公の敏腕刑事が綿密な聞き込み調査の結果、犯人の鉄壁のアリバイを崩し、いよいよ逮捕を目前にして課長に呼ばれる。

捜査課長:「アリバイはそのままにして、これ以上この事件を追及するな」

敏腕刑事:「何故ですか。 理由を言ってください!」

課長:「俺にもわからん。 上からの命令だ!」

刑事:「ここで事件がウヤムヤになるのは悔しくないですか!」

課長:「俺も悔しいが、ここは我慢してくれ、上には逆らえん!」

夕暮れの屋台でコップ酒をあおりなが悔しがる二人を背景に、ここで物語りは・・・・[完]

 

事件が、現場の捜査を無視して政治的に決着することはドラマや小説の世界だけと思っていたら、沖縄の米軍がらみの事件では珍しくないケースだ。 

沖縄では「県民感情」が法律に優先するものらしい。

「米兵女史中学生暴行事件」、「米兵比女性暴行事件」と事件性はなくとも新聞が騒げば「県民感情」に配慮して「政治的決着」で終わっている。

昨年12月以来沖縄紙が号外まで出して大騒ぎした金武町伊芸区の「米軍流弾事件」は、米軍側のアリバイ調査にもかかわらず、上記ドラマの逆バージョンで終わりそうだ。

米軍の調査団はこう言って悔しがっているだろう。

「事件は現場で起きている。日本の国会で起きているわけではない」と。

まさに事実は小説より奇なり、である。

沖縄タイムス 2009年05月23日 政治 

12月10日で米軍認識/伊芸流弾発生 警察庁説明「理解を得た」【政治】
 【東京】金武町伊芸区の流弾事件で、発生日が県警と米軍で異なっていることについて、警察庁の西村泰彦審議官は22日の衆院外務委員会で「4月中旬の(日米)協議の場などにおいて、県警が12月10日と説明し、米軍側の理解を得たと承知している」と述べ、発生日の認識が一致したとの見解を示した。赤嶺政賢氏(共産)に答えた。

 これまで、県警は12月10日として米側に再三伝えていたが、米軍側は同月11日との考えを示し、食い違いがあった。米軍の最終報告書でも「事件発生は訓練終了以降の11日」と書かれていた。

 赤嶺氏は報告書撤回を米側に求めるよう促したが、中曽根弘文外相は「継続中の日本側捜査の結果を見ながら適切に対応する。現時点で調査結果の見直しを求めることは考えていない」と述べるにとどめた。

 一方、県警が米側に要請していた基地内への立ち入り調査について、西村審議官は「米側の同意が得られていない。現在まで実現に至っていない」と説明。「(県警は)米軍と協議を重ねて、関係者からの事情聴取やさまざまな情報収集に努めている」とした。

                    ◇

読めば読むほど奇怪な記事だ。

事件の検証を現場で行うシーンはテレビでもよく見るが、それを国会で行う不可解さはさておくとしても、

県警と米軍では事件発生日に1日の違いがあったはずだ。

県警の主張を米軍が「理解した」というのなら当然米軍の最終報告書が間違っているわけで、直ちに報告書を書き変えるのが筋だろう。

更に不思議なことに、米軍が「流弾は第三者が細工した」として米軍の関与を否定していたわけだから、それを翻して「県警の主張=米軍犯人説」を認めたのなら、

沖縄タイムスは号外はともかく、一面と社会面のトップで大きく報道しているはずだが、報道されたのは二面の政治面である。 

通常だったら社説やコラムもこの「朗報」を見逃すはずはないが、これもない。

目立たない「政治面」で報道したことが事件の政治決着を暗示する。

米軍が県警の主張を認めたのなら「卑劣な米軍に抗議する県民大会」を開催するのがいつものパターンではなかったのか。

県警が米側に要請していた基地内への立ち入り調査について、西村審議官は「米側の同意が得られていない。現在まで実現に至っていない」と説明

基地内に立ち入り出来ないのが調査の妨げになっているような印象操作記事だが、

事件は民間住宅街で起きており、県警が調査するまでもなく沖縄タイムスの機動力を持ってすれば簡単に聞き取り調査できる極めて単純な事件だ。

何もここでわざわざ基地内に立ち入り調査するほどの事件ではない。

琉球新報を読むと謎は更に深まる。

県警の主張は認めながら、「発生日変更求めず」?

琉球新報

伊芸被弾事件、発生日変更求めずl2009年5月23日
 【東京】2008年12月、金武町伊芸区の住宅地で発生した民間乗用車のナンバープレートへの被弾事件で、事件発生日時に関し米軍と沖縄県警察で認識が異なっている件について、警察庁の西村泰彦長官官房審議官は22日、衆院外務委員会で「発生日時について米軍は4月中旬の協議の場などにおいて、県警察が12月10日である旨を説明し、米軍側の理解を得たものと承知している」と述べ、これまで日本側が主張する事件発生日を否定していた米側の姿勢に変化が生じていることを明らかにした。
 赤嶺政賢氏(共産)の「事件の発生日に関し、米軍は認識を改めたのか」との質問に答えた。
 米側が11日を事件発生日とする当初の主張を撤回した場合、米軍と被弾事故とは無関係とした米軍の3月の最終報告書の信ぴょう性が問われることになる。
 委員会での質問に先立ち、警察庁から説明を受けた赤嶺氏によると、4月中旬に行われた県警と米捜査当局との協議で日本側が事件発生日を12月10日と説明した際、従来の協議では「10日発生説」に異論を唱えていた米軍が同日は反論しなかった。
 発生日について米側の姿勢に変化が生じているものの、22日の衆院外務委で中曽根弘文外相は「現時点で米側に調査結果の見直しを求めることは考えていない。引き続き日本側への捜査への協力を要請していく」と述べるにとどめた
 県警によると、9日と10日には発見現場に隣接する米軍キャンプ・ハンセン内で、被弾事件と同型の実弾を使った射撃訓練が実施されており、被害者の聞き取り調査などを基に10日が発生日だとしている。米側はこれまで、事件発生日は11日とし、3月に発表した最終報告書でも米軍と被弾事件は無関係としている。

                   

さすがに新報は「米軍基地への立ち入り調査云々」は報じていないが、国会で追及したのは沖縄県選出の共産党・赤嶺議員。

米軍と被弾事故とは無関係とした米軍の3月の最終報告書の信ぴょう性が問われることになる」というのなら、もっと大騒ぎして米軍の最終報告書の訂正まで追及すべきではないのか。 少なくとも「しんぶん赤旗」に「米軍の捏造報告書」くらいの記事が出るのが通常だが、今回は赤嶺議員が国会で追及したことさえ報じていない。

沖縄タイムス、琉球新報は昨日の記事で自分が点けた火を消火したつもりなのか。

以後沈黙を守るつもりならとんだ考え違いである。

事件のあった日は県警の主張と米軍の主張どちらが正しいのか、はっきり読者に知らせる義務がある。

ん?

国会で「県警の主張を米軍が理解した」って?

だったら、米軍の最終報告書を捏造報告書だとして、訂正するまで大キャンぺーンをする責任があるだろう。

それでもダメなら「抗議の県議会決議」⇒「抗議の県民大会」といった一連の得意技があるではないか。

関連エントリー:

 どんなことがあっても、真相を突き止めるよ!金武被弾事件

金武被弾事件一覧、 琉球新報記事

 

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