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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄戦「集団自決」とサイパン玉砕ーその根本的相違

2009-05-13 07:50:38 | ★集団自決

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慰霊へ参加者続々 南洋群島帰還者会(2009.5.9) カメラ

今月下旬の慰霊墓参に参加する南洋群島帰還者会の(前列左から)宜野座朝憲会長、平良善一副会長(後列左から)安里嗣淳事務局長、宜野座朝美幹事=琉球新報社

 今月26日にサイパン島へ向けて出発する南洋群島帰還者会(宜野座朝憲会長)の慰霊墓参団への参加者が例年以上に増えている。40回の節目となる今年が最後の慰霊墓参団となるためで、当初はチャーター機1機の予定を2機に増やした。帰還者会の役員は「公式な墓参団としての訪問は最後。サイパンは初めてという関心のある人もぜひ参加してほしい」と呼び掛けている。
 慰霊墓参団への参加者は会員の高齢化で年々減少している。昨年は過去最小の90人しか集まらず、名古屋経由などの定期便を利用した。
 今回は節目のため、現在までに220―230人が参加の意向を示している。チャーター機2機での訪問は「33回忌」の1976年以来。
 20年以上会長職を務めた宜野座会長(78)も6月23日の総会で会長職を退き、名誉会長に就く。宜野座会長は「サイパンにいた当時は10代だったわれわれも80代を迎えようとしている。41回目はない。来年から訪問、観光メーンの『南洋の旅』になる」と話した。
 27日はサイパン島、28日にはテニアン島で慰霊祭を行う。墓参団には人間国宝の照喜名朝一さん、玉城流翔節会家元の玉城節子さんらも参加し、歌、三線、舞踊を奉納することになっている。
 問い合わせは帰還者会事務局(電話)098(879)1810。

                                            ◇

写真で見るサイパンなど南方戦線の生存者や遺族の表情は、皆にこやかに見える。

穏やかなその表情からは、「恨みつらみ」とは縁遠い、人生を送ってきたことが伺える。

渡嘉敷島埠頭で慰霊のため訪れた旧日本兵と並んで写真に写る住民の遺族の表情と共通する穏やかさだ。

一方、自分の手で肉親を殺傷し、しかもその「援護金」を長年受給していながら、

「(肉親殺傷は)軍の命令であった」と責任転嫁を今も続ける証言者たちは「恨みつらみ」がその表情に滲み出して微塵の穏やかさも見出せない。

                     *

では、サイパン陥落の生存者たちは沖縄戦の生存者ほど悲惨な体験をしていなかったのか。

いや、そうではない。

沖縄戦以上に過酷な体験をした体験者は数多くいた。

その様子を 『我ら降服せず サイパン玉砕戦の狂気と真実』 (立風書房 1983年)の著者で、サイパン陥落を生きのびた田中徳祐陸軍大尉は、次のように語っている。

 ①「米軍は虐待しません」の呼びかけを信じて洞窟から出てきた婦女子全員が素っ裸にされ、数台 のトラックに積み込まれた。「殺して!」「殺して!」の絶叫を残してトラックは走り去った。

 ②滑走路に集った老人と子供の周りにガソリンがまかれ、火がつけられた。忽ち阿鼻叫喚の巷と化した 滑走路。我慢ならず我兵が小銃射撃をしたが、米軍は全く無頓着に蛮行を続ける。

 ③火から逃れようとする老人や子供を、米兵はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、銃で 突き飛ばして火の中へ投げ入れる。二人の米兵は、草むらで泣いていた赤ん坊を見つけると、両足を 持ってまっ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。「ギャッ!」といふ悲鳴を残して蛙のように股裂き にされた日本の赤ん坊とそれを見て笑ふ鬼畜の米兵士。

 ④こんなに優勢な戦闘にも拘らず、米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。

 ⑤マッピ岬に辿り付いた田中大尉は、岩の間に一本の青竹を渡し、それに串さしにされた婦人を見た。 更に自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が五体をバラバラに切り刻まれて倒れてゐるのを眼前に見た。  米軍の残忍非道から名誉と身を守るために「天皇陛下万歳」を奉唱してマッピ岬から太平洋に見を 躍らせた老人、婦女子や、左腕に注射針を刺し、君が代と従軍歌「砲筒の響遠ざかる・・・」を斉唱 しつつ自らの命を断った十余名の従軍看護婦達の最期を田中は見てゐる。(ウィキペディア)

サイパン陥落の直前、多くの在留日本人が集団自決し、その多くが沖縄出身者であることが知られている。

その後1年足らずで沖縄を襲った米軍の猛攻で、沖縄住民がサイパンの悪夢が自分達を襲うことを予感したことは想像に難くない。

 

うらそえ文藝』(2009年)に掲載の「集団自決の断層」と題する論文で星雅彦氏は、沖縄戦直前、沖縄県民がサイパンの玉砕を新聞その他の情報で知っており、

「鬼畜米軍」を単なるスローガンではなく身に迫る現実と捉えていたとして、次のように述べている。

当時住民は、新聞や口コミで、1年余り前のサイパン島の玉砕(昭和19年7月7日)や数日前の硫黄島の玉砕(昭和20年3月16日)等の情報を聞いたいて、すでに緊迫した恐怖の波がじわじわ胸に迫ってくる思いを抱いていたという。米軍の艦砲射撃の音が鳴り止んだ合間に、ここに至っては死ぬしかないと各自は密かに思っていたに違いない。
太平洋戦争(大東亜戦争)勃発から1年余り経つと、「ガダルカナル撤退」から「アッツ島玉砕」「マキン・タラワ島玉砕」と、日本の敗北が続く。それまで大本営も軍司令部も玉砕命令を下部へ出していたわけではない。 その逆で、「最後の一兵まで戦え!」であった。 ところが次々玉砕があったわけだ。 昭和18年以降、「硫黄島玉砕」直前の頃から、軍の作戦は持久戦であり、米軍の本土上陸を長引かせることだった。 (略)

しかし、実際に言い得ることは、軍部が住民に自決を命令するということはまずあり得ないということである。

そこで冒頭の判決で、「自決命令を発した事実について、合理的資料、根拠がある」とは、ありそうでない結論に思える。

最後の部分の冒頭の判決とは、2008年3月28日の大阪地裁における「集団自決」訴訟の深見敏正裁判長の判決骨子の文言である。

 

■沖縄戦「集団自決」とサイパン玉砕ーその根本的相違■

ここでサイパンと沖縄、両地域で起きた集団自決について、大きな疑問が生じてくる。

同じように沖縄県民が被った戦史上も稀な過酷な「集団自決」という体験をしたにも関わらず、

サイパンの生存者たちは「恨みつらみ」を叫ぶことなく、穏やかに戦後を過ごしてきた。

では、何故サイパンの生存者の間では、「強制集団死だった」とか「軍命で自決した」という日本軍に対する怨嗟の声が戦後起きてこなかったのか。

米軍に追いつめられ、パニック状態になった住民が集団自決したことは、サイパンと沖縄と場所の違いはあっても、同じ沖縄人の取った行動として共通するものがあったはずだ。

戦後、サイパン戦没者の遺族の中から「集団自決は軍の命令だった」と言う大合唱が起きなかった理由はただ一つ。

サイパンでの戦没者には「援護法」が適用されなかったからである。

つまり、戦後「沖縄の特殊事情」を考慮して「援護法」を拡大解釈し、本来なら適用されない人にまで援護金を支給した。

一方サイパンの戦没者には「援護法」の拡大解釈は適用されていない。

政府からお金を貰った方が、責任転嫁で「軍命で自決した」と叫んで日本軍を恨み続け、

貰わなかった方が日本軍への恨みとは縁遠い穏やかな人生を過ごしてきた。

これが歴史の皮肉でなくて何であろう。

サイパンの戦闘終了後アメリカ軍は非戦闘員14949人を保護収容(日本人10424人・朝鮮半島出身者1300人・チャモロ族2350人・カナカ族875人)した。逆算すると8000人~10000人の在留邦人が 死亡したとみられる。>(ウィキ)

                    ◇

以下は再掲です。

「サイパンの悲劇」と「集団自決」

「鬼畜米英の捕虜になったら男と子供は八つ裂きにされ、女は強姦された後焼き殺される」

戦時中の沖縄でこのような話が住民の間に流布していたことは事実である。

この事実には次のような話がもっともらしく連なる。

「このようなデマで住民をパニックに追い込み「集団自決」を引き起こした責任は日本軍にある」

だがこの説には大きな事実の歪曲がある。

沖縄の住民は単なるデマで「鬼畜米英の残虐行為」に脅えていたわけではない。

彼らは信頼できる情報を得て、米兵の残虐行為に脅えていたのである。

鬼畜と思った米兵が住民に食料を与えたり、けがの手当てをしてくれた事実であるが、

米兵が住民に対して蛮行を行わなかったというのはサヨク勢力が捏造した神話である。

大陸で起きた通州事件等の中国兵の日本寄留民への残虐行為の情報が沖縄出身の大陸帰りの帰還兵や従軍看護婦によって伝えられ、これが敵の捕虜になる恐怖を増幅させた。

通州事件と「集団自決」の重大な関係

これに対して、

「大陸で民間人に残虐行為を行ったのは中国兵であり、沖縄戦での米兵はやはり人道的であった」

このようなイメージは『鉄の暴風』を主とする沖縄マスコミによって作られていくが、

米軍による残虐行為は、恥を知る被害者達が固く口を閉ざし続けたため沖縄側の記録に残っていないだけに過ぎない。

県立沖縄史料編集所専門員・大城将保氏の著書『改訂版 沖縄戦』には次のような記述がある。

≪本部半島のあるでは、米海兵隊が上陸した直後に、じゅうの婦人が手あたりしだいに米兵の毒牙にかかっている≫

≪戦闘中の婦女暴行事件は地域の例外なくいたるところで多発しているが、真相はおそらく永久に秘密の闇に葬りさられることだろう≫

 

恥を知らないどこかの国の元売春婦の婆さんたちは今でも理不尽な補償要求で金をくれと騒いでいるが、

恥を知る沖縄の被害者たちのほとんどが「事実」を墓の中まで持ち込んだ。

だが皮肉なことに「事実」はアメリカ人の書いた戦記に登場する。

アメリカ人ジョージ・ファイファーが書いた『天王山』(早川書房)によると沖縄本島の本部半島の運天界隈では本島上陸の20日後にはもう既に兵士の強姦事件防止のため海兵隊長公認の「売春宿」が設置されていた。

「キャット・ハウス」と呼ばれたその売春宿では13歳くらいの女の子まで三十セントで米兵の相手をさせられていた。(「天王山」(上)258ページ)

さらに同じくアメリカ人のヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』にも沖縄戦で壕から出てくる住民を米兵が焼き殺す残酷な記述があり、GHQによりその日本語訳版の出版が禁じられるというおまけまで付いた。

沖縄人が書いた米軍賛美の『鉄の暴風』が米軍の推薦を受け、

その一方アメリカ人が米軍の残虐性を記述した『アメリカの鏡・日本』がGHGの発禁処分になった。

当日記はこの事実をかつて「歴史の皮肉」と嘲笑した。

続々『鉄の暴風』のいかがわしさ◆渡嘉敷女子青年団 匿名座談会

 

参考エントリー:

米兵蛮行の象徴 「ボンベの鐘」 

 

 






 

 

 

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