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月刊誌『新潮45』6月号の「書物の森」に、『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編・PHP研究所)の書評が出ているので紹介する。(太字赤字強調は引用者ー特に赤字部分は最高裁判決に影響を及ぼす決定的証拠物)
沖縄戦「集団自決」の謎と真実 |
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『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編・PHP研究所)
「軍命令」の有無を問う 評・山村杳樹
太平洋戦争末期の1945年3月26日、米軍第77師団が沖縄の慶良間列島に上陸、翌日には渡嘉敷島に上陸した。所在の守備隊は貧弱な装備で抵抗したが、この戦闘の過程で、住民の「集団自決」という悲惨な事件が起きた。
本書刊行のきっかけとなったのは、旧日本軍の隊長が住民に「集団自決」を命じたと書いた作家・大江健三郎の著書『沖縄ノート』(岩波新書 1970年)をめぐる名誉毀損訴訟。 大阪高裁は、昨年10月控訴審で、梅澤・赤松元隊長の訴えをしりぞけた。
判決文の中で、裁判長は自決命令の「有無を本件証拠上断定することはできず」としながらも、「日本軍がこれに深く関わっていることは否定できず」と、旧軍の「関与」を指摘した。
編者はこれを、「法的概念としては漠然すぎるうえ、争点にもなっていない軍の「関与」を、裁判所がわざわざ持ち出した意図ががわからない」「関与と言っても『自決せよ』から『傍観』を経て『自決するな』まで、幅は広い」と批判する。 そして、「裁判という手法に頼らず、歴史的事実の解明を進め、最終判断は後世に委せる」(あとがき)として、本書を編んだという。
編者によれば、沖縄の集団自決をめぐる論議で抜け落ちているのは、沖縄が戦場になった場合、住民の処置について、大本営や現地軍、沖縄県庁などがどのような方針を定めていたかを示す公的文書の存在であるという。
本書には、その文書「南西諸島警備要領」が紹介されている。この文書は、沖縄防衛のために新設された第32軍の牛島満司令官が、指揮下の全部隊へ示達した極秘の公文書で、原文は見つかっていないが、米軍が入手し英訳していた資料である。 これによれば、「非戦闘員は玉砕させず安全地帯に待機させる大方針だったことは明らか」だ。
にもかかわらず集団自決がおきたのはなぜか。 編者は、「逃げる地籍があった沖縄本島では、集団自決が少なく、慶良間三島に集中したのは、小さな孤島で逃げ場書がないと住民が観念したのかもしれない」と書く。 もう一つ、「新聞、雑誌、文化人、大政翼賛会などの運動体」などが「憤怒と恐怖をないまぜにした扇情的な大量宣伝を発信した」ことも住民の心理を追い詰めたと指摘する。
本書で読み応えがあるのは、集団自決が起きた座間味島で、日本軍の伝令と雑役を担当していた宮平秀幸氏が自らの体験を綴った「陳述書」である。
当時、氏は15歳。 偶然、助役や村長たちと守備隊長との話を立ち聞きする。 陳述書によれば「村の年寄りと子どもを集めてありますから、自決する為の爆弾を下さい」と嘆願する助役に、隊長は、「あなた方を自決させるような弾薬などない。 帰って、集まっている民間人を解散させろ」応えたという。
『ある神話の背景』で集団自決を現地取材した曽野綾子氏の潔い言葉が心に残る。
「軍命令はなかったという証拠もないが、あったという証拠もありません。 今にも洞窟の奥から決定的な文書が出てきたら私は即座に訂正いたします」。(『新潮45』2009年6月号)
■消えた「軍官民共生共死」のキーワード■
宮城晴美氏の「検証『集団自決』」と題する論文中に「軍官民共生共死」というキーワードがひと言もないことを指摘した。
「軍官民の共生共死」は、確かに沖縄タイムスや左翼学者の論文に頻出する言葉ではあるが、宮城氏の論文に出てこなくとも特に不思議ではないという向きもあるだろう。
だがこの言葉は宮城氏の師匠である安仁屋沖国大名誉教授から受け継いだ日本軍批判のキーワードであり、係争中の裁判に提出した宮城氏の陳述書にも繰り返し使用されている。
■宮城晴美氏の法廷陳述書■
<・・・座間味島の「集団自決」は日本軍の命令によるものと言わざるをえないと考えられます。その理由は次のとおりです。
①「軍官民共生共死の一体化」方針
沖縄の日本軍(第32軍司令官牛島満中将)は、1944年(昭和19年)11月18日に「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」(乙33)を策定し、「軍官民共生共死の一体化」の方針を打ち出し、軍官民一体の総動員作戦を展開していました。
②座間味島での「軍官民共生共死の一体化」(陣地構築、食糧増産など)
本書に書きましたように、1944年(昭和19年)9月に座間味島に駐留を開始した日本軍も、この方針のもとに、住居の提供、陣地の構築、物資の運搬、食糧の供出・生産、炊事その他の雑役等に村民(男女青年団など)を駆り出し、村民の住居に兵士を同居させ、さらには村民の一部を軍の防衛隊に編入しました。生活になくてはならない漁船も船員ごと接収しました。
村は日本軍の「軍官民共生共死の一体化」の総動員体制に組み込まれたのですが、軍は村役場の会議室と地元の青年団が建設した青年会館に作戦本部を置き、村の行政組織を軍の指揮下に組み込み、村長、助役(=兵事主任、防衛隊長)などを通じて、村民に対して動員命令を下していました。>大阪地裁・宮城晴美「陳述書」
「軍命令の虚構性は明らか」とする原告側に対し、被告側は沖縄などに残る文献を根拠に「軍命令はあった」と主張。「住民は『軍官民共生共死の一体化』方針で軍に総動員され、捕虜になることを許されずに玉砕を強いられた」と軍の関与を指摘する。
(大江健三郎氏が9日出廷 沖縄集団自決訴訟)
つまり梅澤戦隊長、赤松戦隊長の自決命令はなくとも第32軍の方針は「軍官民の共生共死の一体化」であり、事実上住民は自決を命じられていたというのが左翼勢力の主張だ。
実際はどうだったのか。
沖縄防衛のために新設された第32軍の牛島満司令官は「軍官民共生共死の一体化」どころか、
「非戦闘員は玉砕させず安全地帯に待機させる大方針だった」ことを明らかにしたのが、現代史家・秦郁彦氏が米公文書館から発掘した、英文訳の「南西諸島警備要領」である。
牛島司令官が指揮下の全部隊へ示達した極秘のこの公文書は、原文は見つかっていないが、米軍が入手し英訳していた資料である。(「沖縄戦「集団自決」の謎と真実」)
これまで第32軍の高級参謀八原博道大佐が昭和48年に著した『沖縄決戦』(読売新聞社)で、この書類の存在は知られていたが、現物が見つからず「軍が自己弁護のため作り出した虚構」だと左翼勢力に反駁されていた。
だが、米軍が押収した第32軍の書類の英訳文なら、第32軍が住民の安全に努力していたことを示す決定的証拠だといえる。
従って左翼勢力が金科玉条にしていた「軍官民の共生共死」はもはや主張の根拠が根底から崩れ去ってしまったことになる。
宮城氏が裁判の陳述書にも繰り返し強調してかいた「軍官民の共生共死」を、琉球新報の論文から削除するのもむべなつかなである。
■崩れ去った大江氏の「タテの構造」■
隊長命令や軍の命令が証明できないと知るや、被告側は一気に作戦を変える。
「隊長命令の有無は問題でない」と主張し、大江健三郎氏が法廷で展開したのが「タテの構造云々」の詭弁である。
「タテの構造」論の要諦は「軍官民の共生共死」と連動している。
法廷証言の後、大江氏は朝日新聞で弁解文を書いているが、その中にも「軍官民の共生共死」が日本軍批判のキーワードとして出てくる。
<日本軍、第三二軍が県民に担わせていた「軍官民共生共死」の方針、列島の守備隊というタテの構造の強制力、そして米軍が島民に虐殺、強姦を加えるという、広く信じられた情報、俘虜となることへの禁忌の思想、それに加えて軍から島民に与えられた手榴弾とそれにともなう、さらに具体的な命令、そうしたものの積み重なりの上に、米軍の上陸、攻撃が直接のきっかけとなって、それまでの日々の準備が一挙に現実のものとなったのだ、という考えにいたって、それを書いたのです。> (3)タテの軍構造に責任 (12月12日朝刊総合4面)
第32軍が作成した「南西諸島警備要領」の発掘により、大江氏の「タテの構造云々」も木っ端微塵に粉砕され、「軍官民の共生共死」同様に、以後この言葉を使用することは出来ないはずだ。
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