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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

琉舞、重要無形文化財に認定

2009-07-21 07:00:02 | 未分類

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琉舞、重要無形文化財に 関係者ら発展へ決意新た(2009.7.18) カメラ2009年7月18日

「大先生方のご尽力に報いるためにも、しっかり頑張りたい」と決意を新たにする玉城節子さん=15日午前、那覇市若狭の玉城節子琉球舞踊道場
組踊の小道具を製作する「組踊道具・衣裳製作修理技術保存会」のメンバー=14日、那覇市の光史芸能小道具製作研究所

 「やっと認められた」―。「組踊」以来、37年ぶりに国の重要無形文化財の総合認定を受けた「琉球舞踊」。琉球王朝時代の宮廷舞踊から大衆の踊りへとすそ野を広げ、ウチナーンチュが愛する文化が国に認められた。地道に芸を引き継いできた誇りを胸に、関係者らは長かった道のりを振り返り喜びをかみしめた。国選定保存技術に選定された「組踊道具・衣裳製作修理」は、技術保持者が亡くなり同指定を解除された「組踊道具製作」を継ぐもの。技術者たちは選定を喜ぶ一方、技術を次世代に継ぐ責任の重さを受け止めた。
県民の誇り/保存会代表 玉城節子さん
 「沖縄ではすべての人が琉球芸能にかかわっているようなもの。舞踊家だけでなく、県民の誇りと喜びにもなる。みんなで頑張ってきたかいがあった」。琉球舞踊が国指定重要無形文化財に指定され、その保持者に認定された琉球舞踊保存会代表の玉城節子さん(68)=那覇市=は声を弾ませながら、長年の念願がかなった喜びをかみしめた。
 琉球舞踊は琉球王朝時代から脈々と伝えられ、沖縄戦による荒廃の中では県民の生きる力となった。特に戦後は女性が中心となり、琉球芸能全般を盛り上げてきた。復帰直後の1972年には「組踊」が国指定重要無形文化財となったが、保持者認定は規定で男性のみ。玉城さんは「組踊の正式な舞台には立てずに悔しい思いをしたこともあった。今回は(保持者として)女性も認められたことが大きな進歩だと思う」と話し、戦後の琉球芸能を支えてきた女性舞踊家の一人として素直に喜んだ。
 芸歴63年。5歳で玉城盛義師に入門し、高校3年生の時に師範免許を取得した。玉城さんは道場に飾られている盛義師の写真を見上げ「先生がお元気な時に指定されればもっと良かった」と涙を浮かべながら、「これからは国指定の保持者として大きな責任と義務を負うことになる。伝統を継承してきた大先生方のご尽力に報いるためにも、しっかり頑張りたい」と決意を新たにした。

工夫し良い物を/道具・衣裳保存会 金城裕幸代表
 「工夫して良い物を。それだけを胸に、日々頑張りたい」。国選定保存技術に選定された「組踊道具・衣裳製作修理」技術の保持団体「組踊道具・衣裳製作修理技術保存会」の金城裕幸代表(38)は、認定を機に新たな決意を述べた。
 保存会は金城代表ら道具製作技術者と衣裳製作修理技術者、学識経験者など合計13人で構成されている。
 金城代表らは、2006年に亡くなった島袋光史氏の下で道具製作の研鑽(けんさん)を積んできた。生前、島袋氏が口酸っぱく言っていたのが「工夫して良い物を作りなさい」という言葉だった。
 組踊出演者から注文を受け、その人の体に合った道具を作る。同じ物を作れるよう、竹や紙、布など、いつでも手に入る身近な素材を材料にするのも島袋氏から学んだ。
 戦災で失われ「何もないところから」(金城代表)道具製作技術を復興させた島袋氏の下、技術者として取り組んできたことを「運が良かった」と思う一方、プレッシャーも感じている。
 目標は「(組踊の道具は)こういうものだったであろう」と言えるような基準になる道具を作ること。金城代表は「学識経験者の意見を聞きながら、焦らず、じっくりと取り組んでいきたい」と今後を見据えた。

                                             ◇

37年前沖縄伝統芸能の「組踊り」が国の重要文化財に認定され、国立組踊り劇場が建造された。

そして今回は琉球舞踊が重要文化財に認定された。

沖縄県民としては喜ばしいことだ。

喜久里康子女史の意見が聞きたい■

「琉球民族は差別を受け、文化遺産を抹殺されているので、先住民人認定をして保護すべきだ」

と叫ぶ、琉球民族派の方々は、この慶賀すべきニュースをどう受け取るのだろうか。

沖縄タイムスもこんな記事で扇動していたけど。

《沖縄タイムス 2008年11月01日

国連「琉球民族は先住民」/人権委認定

文化保護策を日本に勧告

 【東京】国連のB規約(市民的および政治的権利)人権委員会は三十日、日本政府に対して「アイヌ民族および琉球民族を国内立法下において先住民と公的に認め、文化遺産や伝統生活様式の保護促進を講ずること」と勧告する審査報告書を発表した。》

国連に「先住民認定」を働きかけたのは、市民団体を騙る極左グループで、「沖縄市民情報センター」の喜久里康子というまだ30代の女。⇒喜久里康子さん:<先住民としての権利>と沖縄 
 
彼女によれば沖縄は日本に差別されており、被差別団体の「」や在日朝鮮人、左翼アイヌと連帯すべきだというが、
 
彼女には、大きなお世話だと再度言っておきたい。
 
この県民こぞって喜ぶべきニュースを聞いても、喜久里女史は、
 
重要文化財認定は、国による琉球文化の管理・弾圧に他ならない!」「そんなもの即刻返上して先住民認定を行え!」とでも仰るのだろうか。
 
バカバカしい。
 
                   ◇
 
上記記事の写真で紹介されている玉城節子さんは、何を隠そう筆者の高校時代の同期生である。 
 
でも同じクラスになったことはないので、当時から舞踊家として有名人だった玉城さんをこちらが知っていても、先方はご存知ないのかもしれないが。
 
遠い昔の既に時効と思われる玉城さんに関するする思い出話をご披露しよう。
 
とは言っても、当の玉城さんは全くご存知ないはずの話なので彼女の名誉に関わることはない。
 
月に一度集まって飲み会をする仲間の一人A君が、高校一年の時彼女(玉城さん)にラブレターを書き、それがどこでどう間違ったのか先生の手元に届くという青春映画「青い山脈」の一場面を彷彿とさせる事件があった。
 
生物が担任の若いN先生、そのラブレターを授業中に途中まで声を出して皆に読み聞かせていたが、余りの内容の熱烈さに赤面して途中で読むのを止めてしまった。 確かN先生はその頃まだ独身だった。
 
ラブレターを書いたA君は当時としてはかなり「進んだ生徒」であったが、玉城さんとは同じ上ノ山中学の出身で中学のときから思いを寄せていたという。
 
ラブレターの音読に動揺した先生もそうだが、聞いて一緒に赤面した他の学友達も純情だったのが懐かしい。
 
ちなみに玉城さんは同じ同期生で新聞記者のY君と結婚した。
 
沖縄の二つある新聞社の一つに勤めたY君、定年後に行われた同期生の集まりで、「定年で退職しましたが、今後は玉城節子のマネージャー業が忙しくなります」と挨拶して、満座の笑を取っていた。
 
その後の夫人の活躍を見ると「マネージャー業」もあながち冗談ではなかったのかもしれない。
 
ところで、ラブレターを書いて純情な先生を赤面させたA君はその後どうなったかって?
 
東京の大学を卒業後、地元の高校の英語教師になったA君、歳の差のある教え子とめでたく結婚した。
 
やはり高校時代の「進んだ素質」は、自分が教師になっても存分に発揮され、青春映画を地で行くように「教師と生徒の愛」を見事成就させた。
 
その後のA君は教師は辞めて実業界に乗り出し、現在は那覇市内にある某ホテルの社長である。
 
 
A君は、高校時代からその道で「進んでいる」割には、その頃から熱心な空手マンでもあった。 
 
社会人になってからもその修行を怠らず、二年ほど前の酒の座で、その空手の技をDVDの記録に残すため、元テレビ・カメラマンの同期生S君と共同制作するという話が持ち上がった。
 
若い時から通い続ける道場の師範代も勤めるA君、その空手技を記録として残すのは意義のあることなので、飲み仲間もDVD制作には応援することに満場一致で決まった。
 
だが、あれから二年余、いや三年にもなるか。
 
一向に話が進んでいる様子はない。 
 
歳月は人を待たない。
 
そのうち演武者もカメラマンもヨレヨレ、ヨボヨボになってしまい、
 
空手の技か、はたまた酔っ払いのカチャーシーか、区別がつかなくなる懸念もあるのだが・・・。
 
定番どおり話は脱線したが、何はともあれ、
 
玉城節子さん、琉球舞踊の重要文化財認定、おめでとうございます。
 
 
 


 

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