狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

雉も鳴かずば撃たれまいに 金城兄弟への「攻撃」

2009-07-19 08:37:33 | ★集団自決
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「SAPIO」7月22日号の「ゴー宣」が、沖縄のサヨク勢力に与えた衝撃は予想以上に大きかったようだ。
 
集団自決訴訟の被告側応援団の一人目取真俊氏が「金城兄弟への攻撃を許してはならない」と自ブログで声高に叫んでおられる。
 
だが目取真氏が憤激するにしては、「SAPIO」の記事は、何も目新しいものではなく今回小林よしのり氏が初めて公開したわけでもない。
 
集団自決論争に多少でも関心のある人の間では夙に知られた事実であり、沖縄での出張法廷でも本人の口から証言された事実である。
 
ただ、沖縄マスコミを中心にした被告側が金城兄弟を哀れな被害者に仕立て上げるため、彼らの「不都合な事実」と意識して報道してこなかっただけの話であり、
 
さらには被告側の論点ずらしのため、大方の読者がそれと理解できなかっただけの話である。
 
それを小林氏はわかりやすい漫画という手段で説明しただけであり、問題を明確にした小林氏の労をねぎらうことはあっても、目取真氏が突然声を荒立てるべき筋合いのものではない。
 
金城兄弟が自分の犯した罪の深さに悔いて他人に責任転嫁することなく、
 
神に祈って贖罪の人生を過ごしていたのなら、戦時中の特異な状況の惨劇を、今さら咎め立てするものはいなかっただろう。
 
だが論理的に破綻した屁理屈で「軍の命令だった」と自著や講演会等で強弁するのみならず、
 
法廷に立ってまで「軍の命令」を主張し続けたのなら、当然反対論者の追及は覚悟の上のことだったはず。
 
それに彼らを「軍命あり派」のシンボルに仕立て上げた被告側応援団も当然金城兄弟が反対側の論難の矢面に立たされるのは想定内のことであろう。
 
金城兄弟が攻撃の的になることに憤慨するのなら、彼らを矢面に立てた勢力こそその責任を問われるべきではないか。
 
それを今頃になって「金城兄弟への攻撃を許してはならない」とは笑止千万である。
 
破綻した理屈の金城兄弟を、敢えて「軍命あり派」の象徴に祭り上げ、反対派の矢面に立たせた勢力こそ許してならないのではないか。
 
金城兄弟のなかでも弟・重明氏が「軍命あり派」の象徴として派手に情報戦の先頭にたっているが、
戦後島に残った兄・重栄氏は、昨年までは、筆者の知る限りほとんどマスコミに出ることもなく、「軍命あり」の責任転嫁もしていなかった。
 
それが、昨年のNHK特集番組に引っぱり出されて以来、無理やり(筆者にはそう見える)、「軍命あり」の証言を強いられ、当然のごとく反対派の矢面に立たされることになった。(そう見える)
 
してみると、弟・重明氏が「責任転嫁」の確信犯であるのに対し、兄・重栄氏が反対派の攻撃の矢面に立たされるのはいささか気の毒な気もしないわけではない。
 
だが、NHKの番組に繰り返し出演し、「軍命はあった」という証言をしたのなら当然反対派の攻撃を受けることは覚悟のことであったはず。
 
同じ集団自決の体験者でも、座間味島の山城安次郎氏のように当初こそ「赤松の暴状を訴える」という虚偽の証言をしたが、その後島を出て一切の弁解もなく、又一片の弁解の文書も書残すこともなく真実を墓の中に持ち込んだ人もいる。
 
一方の金城重明氏は、沖縄県内はおろか本土各地に飛んで「軍命はあった」と現在でも講演活動を続けている。
 
彼の過去の行為が「SAPIO」に絵で描かれたからといって今さら騒ぎ立てる方がおかしい。
 
こんな諺が脳裏を過ぎる。
 
雉も鳴かずば撃たれまいに。
 
以下過去記事の再掲です。
 
                     ◆
 
 
 
 裁判尋問「言葉失った」 「集団自決」で金城さん
埼玉】「集団自決」(強制集団死)における隊長命令をめぐって争われている訴訟や教科書検定問題について考える集会(埼玉弁護士会主催)が5日夜、さいたま市のさいたま共済会館であった。渡嘉敷島の「集団自決」を生き延びた金城重明さん(沖縄キリスト教短大名誉教授)が講演し、昨年9月に那覇地裁で行われた所在尋問(出張法廷)で証言した際に原告側弁護士の尋問で厳しく追及されたと述べ、「法廷後の数週間は悩むどころではなかった」と苦しい心境を明かした。
 所在尋問で金城さんは被告の岩波書店の証人として出廷した。法廷は非公開だったが、金城さんは「あれは法廷なのか。法廷は公平と正義ではないのか。原告側弁護団は『ああしただろう、こうしただろう』と犯罪を吐かせるような形だった。私は腹が立ったというより言葉を失った」と、怒りを込めて振り返った。(略)
 
(2/6 )
                       ◇
 
>原告側弁護団は『ああしただろう、こうしただろう』と犯罪を吐かせるような形だった。私は腹が立ったというより言葉を失った」
 
金城氏のこの発言を見て思わず脳裏に浮かんだ諺が、雉も鳴かずば撃たれまいである。
 
金城氏が悲惨な体験を語ることに異議を挟むものはいないだろうが、体験の事実を語るに留まらず、
 
自己弁護の「軍命令」をかたくなに主張し、裁判の証人にまでなれば、原告側弁護団に厳しく追及されるのは当然のこと。
 
反対側の追及に対して
 
「私は腹が立ったというより言葉を失った」というのは、
 
むしろ論理の矛盾を突かれ狼狽して「言葉を失った」というのが正確ではないのか。
 
肉親に手をかけた贖罪意識で、論理を踏みにじるような「軍命」発言をしなければ、弁護団に追及されるような禍を招かずに済んだはず。
 
金城重明氏の証言はこれまで地元紙は勿論本土大手紙でも幾度となく報道されている。
 
特に地元紙では肉親を手にかけた「悲劇の主人公」といった点を強調して紹介されているが、マスコミは彼が犯したもう一つの「原罪」については触れていなかった。
 
                      ◇
 
■NHK特番「渡嘉敷島の集団自決■
 
2月1日19時30分に放映されたNHK「渡嘉敷島の集団自決」を見た。
 
「集団自決」の生き残り 金城重栄、重明兄弟が改めて証言した。

弟の重明氏は戦後島を出て本島に在住し「集団自決」の語り部として地元マスコミは勿論本土大手新聞でも再三登場し、証言を綴った著書もある有名人である。
 
一方、兄の重栄氏(81歳)は戦後も島に残り、農業に従事していたというが、少なくとも私の知る限り、これまで証言者としてマスコミに登場することはなかった。
 
弟重明氏の証言はこれまであらゆるところで発言しているので、主として兄重栄氏の発言を追ってみた。
 
6人妹弟の長男で当時18歳の重栄氏は病弱のため兵役に就けなかったが、その分だけ「日本軍の役に立ちたい」という気持ちが多く「島を守ってくれる」と信じる日本軍に親近感を持っていたという。
 
3月25日米軍の艦砲射撃が始まる。
 
その凄まじさは『鉄の暴風』と言われる。
 
金城一家は両親と弟妹の6人で壕で隠れるが艦砲射撃は朝から晩まで続き、米軍はついに3月27日上陸を開始。
 
その時軍服らしきものを着た二人の人物が現れ長老達に何か話していたようだが内容は砲弾の音で聞こえない。

その男は手りゅう弾を二個ずつ呉れたが、彼が兵器係であったことは 後で知った。

自分達兄弟には手りゅう弾はなかった。

3時過ぎ村長が「天皇陛下万歳」を叫び、次々「集団自決」が始まった。

「生き残ることへの恐怖」が自決を加速させた。

木の棒で肉親に自ら手を下す、・・・それは家族への愛であった。  

このまま死ぬより1人でも敵を倒して死のうと切り込みに向かう途中、日本兵に遭遇し島がまだ玉砕していないと知った。 

番組では語られなかったがその後二人は日本軍の陣地で数日過ごすことになる。

                     ◇

曽野綾子さんが『集団自決の真相(ある神話の背景)』を出版する1年前の1971年。
 
沖縄在住の作家星雅彦氏が、渡嘉敷村の村長や駐在巡査や村民から「集団自決」の取材をし、それをまとめて雑誌「潮」(1971年11月号)に発表した。
 
雑誌「潮」1971年11月号
特別企画・沖縄は日本兵に何をされたか
星雅彦(作家)

集団自決を追って

修羅場と化した西山盆地

 
(略)
ウシが気が変になったように、「クルチ、クミソウリ」(殺してください)と小声で繰り返し言っているとき、七歳になる二女は「死にたくない、死にたくない」と泣き叫んだ。長女は妹を腹の下に隠すように押えつけ、ただ恐ろしさのあまりじっとしていた。そのとき、阿波連の青年たちがワイワイ騒ぎ立てながら走ってきた。血の気のない顔で、彼らは何やら奇声をあげ、まだ生きている人を探し出しては、持っている梶棒で撲殺するのだった。 
 
その中の金城重明(現牧師)という十六歳の少年がウシの側へ近寄ってきた。学校で成績がよいと評判の少年だった。彼は立ち止まった。と、いきなり直径十センチぐらいの棍棒を振り上げ、「まだ生きているのか!」と叫び、妹を抱き押えて後込みしている長女の頭へたたきつけた。ギャツという声が短く走り、頭から血が流れた。少年はもう一度たたきつけた。娘たちは動かなくなった。それから少年は血走った目をむいて、ウシを見た。ウシは祈るように、「重明……」と小声でいって目を閉じた。ガーンと頭が割れるような音がした。ウシは額の上を二度叩きつけられるのを感じた後、意識を失った。 (略)
 

                   ◇

以下は金城氏証言「集団自決は家族への愛」よりの抜粋です。

 渡嘉敷島で「集団自決」を体験し、生き延びた金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授(78)が岩波側の証人として出廷。「(島に駐留していた)赤松嘉次隊長が指揮する軍の命令なしに『集団自決』は起こり得なかった」として、日本軍の強制を証言した。
(略)

当時16歳だった金城さんも母と妹、弟を手にかけた。 軍の命令で陣地近くに集められていた金城さんら住民の下に軍の自決命令が出たようだとの話が伝わり、村長の「天皇陛下万歳」の号令で「集団自決」を始めたと具体的に証言した。
 「『天皇―』は玉砕の掛け声。村長が独断で自決を命じるなどあり得ず、軍命が出たということ」とし「集団自決」の直接の引き金に軍の強制があったと明言した。
 金城さんは家族を手にかけた時の気持ちについて、「米軍が上陸し、(惨殺されるかもしれないという思いで)生きていることが非常な恐怖で、愛するがゆえに殺した」と語った。
 (略) 原告代理人は会見で「村長が自決命令を出すはずはなく、軍命だったという金城氏の証言は推論にすぎない」などとして「金城氏は集団自決の隊長命令を語る証人として資格がないことがはっきりした」と述べた。

(琉球新報 9/11 )

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