狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

速報【動画】怪人・上原正稔 太田知事との大乱闘!

2009-07-30 13:10:35 | ★集団自決

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 2/2【沖縄集団自決】「1フィート運動」創始者 上原正稔氏 単独インタビュー[桜 H21/7/29]

 

以下は怪人・上原正稔氏について触れたハーバービューホテルの決闘!太田元知事vs上原正稔を一部加筆したものです。

                   ◆

佐野眞一著の『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』に登場する殆どの人物は、新聞等でお馴染みの名前なので、その「書かれたくなかった」実像に触れると、下手なコントよりよっぽど笑を誘う。

筆者が個人的に知る人物も複数登場する。 中には共に酒を酌み交わした人物も登場して笑いを誘ってくれる。

だが、夥しい数の登場人物の中でも、太田元知事と上原氏という特にキャラの立った怪人の乱闘場面は圧巻だ。 チャップリンもステッキを担いで逃げ出すほどの大喜劇である。

というわけで、二人の怪人の絡んだ場面を抜粋引用しし、同書読破の手引きとする。

<太田に会った目的は、米留体験を聞く以外にもう一つあった。太田の知事時代の業績に、沖縄戦最大の激戦地の摩文仁の丘に「平和の礎」を建てたことがあげられている。
その「平和の礎」と、やはり琉球大学教授時代の太田が、アメリカの国立公文書館に出向き、同館に所蔵されていた沖縄戦の未公開フィルムを調査、発見したことから大きな記録運動のうねりとなった「沖縄記録フィルム1フィート運動」の二つのアイディアは、自分のアイディアが盗まれたものだと、抗議する男がいる。
この人物は上原正稔(まさとし)という1943年(昭和18年)生まれのドキュメンタリー作家である。 上原には太田に会うだいぶ前に会った。 上原を人目見て、この男は現代のキジムナーだな、と思った。 キジムナーとは、沖縄の人々に昔から愛される伝説の妖怪である。
黄色のシャツにピンクと紫というちぐはぐな靴下を履いたファッションの配色感覚だけでも、この世のものとは思えなかった。 その奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)な出で立ちに小さな体を包んで登場したときは、立派な髭をたくわえた顔とも相まって、愛玩用の犬が二本足で立って現れたかと思った。 若者が被るようなキャップ、首のスカーフや茶色のサングラス、ポパイのようなパイプも、どこか現実離れしていた。
「1フィート運動も、“平和の礎”のアイディアも、最初に発案したのは僕です。 それを太田昌秀に盗まれた。 それ以来、太田とはケンカです。 僕は太田に首を絞められたこともある。 彼は知事失格というより、人間失格の酒乱男です。 売名欲の塊です」

ーー首を締められた? 穏やかじゃないですね。 どこで首を絞められたんですか。

「ハーバービューホテルです。 その件で僕は太田を告訴しました。
初めて聞く話だった。 後で入手した告訴状には、こう書かれていた。

〈被告人(引用者注・太田)は、告訴人(引用者注・上原)に対し、平成4年9月13日、午後9時頃、那覇市泉崎2-46の沖縄ハーバービューホテル二階「鳳凰の間」において、右手拳で告訴人の左わき腹を一回強く突き、さらにたじろぐ告訴人の左上腕部を痛みを感じるほど強く握り締めて、3メートルひきずるなどして暴行を加えた〉

告訴状に付随した陳述書には「太田氏が顔を上気させ、目を吊り上げ、恐ろしい形相で私に駆け寄り」といった、さすがはドキュメンタリー映像作家らしい臨場感あふれる記述もあった。>

 

著者の佐野氏が描く上原氏の描写が秀逸で思わず笑ってしまったが、対する太田知事もこれに決して引けをとらない。

筑紫哲也氏が「沖縄の良心」だと「大文字言葉」で紹介する太田元知事の素顔の怪人ぶりは、上原氏がキジムナーなら、太田氏は脂塗れのアンダケーボージャー(脂食い坊主)とでも言うべきか。

アンダケーボージャーとは沖縄の伝説の怪盗ウンタマギルの子分のこと。 

元知事のことを怪盗の子分に例えるの礼を失するとも思えるが、上原氏のアイディアを盗んだというのなら怪盗の子分程度に例えられても仕方がないだろう。

それにしてもかつて今上陛下もご宿泊したことのある沖縄の最高級ホテルの宴会場で、満座注目の中現役の知事が上原氏の首を絞め3メートルも引きずる暴挙にでたとは通常では到底信じられることではない。

まさに『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』に登場する人物の中でも際立つ千両役者である。

太田氏は琉球大学教授から県知事、そして参議院議員とエリートコースを歩む人物だが、一方の上原氏は組織に属しない一匹狼で、その名は知る人ぞ知る怪人である。

まるで接点のないように見えるご両人だが、沖縄戦記を発掘してそれを出版するという分野においてはご両人の活動分野は重なっている。

ここで佐野氏は上原氏が言う「乱闘劇」について裏付けのため再度太田氏にインタビューするのであるが、その部分を紹介する前にキジムナーこと上原氏について少し触れておきたい。

太田氏については「大文字言葉」のみで沖縄を語る筑紫哲也氏などによって「沖縄の良心」のように描かれているので、当日記の読者ならよく承知のことと思う。

沖縄タイムスに取り込まれた大江氏と筑紫氏

一方、上原氏については沖縄人でも知る人は少数派であろうが、古くからの当日記の読者なら、琉球新報に連載中の沖縄戦記を前日になって異例の突然中止という言論封殺を被ったドキュメンタリー作家として、また係争中の集団自決訴訟でも原告側の証拠となった『沖縄戦ショウダウン』の著者として記憶に新しいだろう。

 

「沖縄集団自決冤罪訴訟」の原告側の準備書面に出てくる上原氏に関連するくだりを抜粋すると次の通りである。

≪さて、今回新たに提出した重要な証拠のなかに、沖縄出身の作家上原正稔氏が記述した『沖縄戦ショウダウン』があります。上原氏は、琉球新報に「沖縄戦ショウダウン」を連載中、当時の集団自決の生き残りである金城武徳氏らを調査した結果、渡嘉敷村民の自決について、
「国のために死ぬのだ。だれも疑問はなかった。村長が立ち上がり音頭をとり、『天皇陛下万歳』と皆、両手を上げて斉唱した」ことを確認しています。

(2)続いて、被告らが依拠する富山証言の信用性を弾劾しています。被告らは富山証言をもとに米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日、手榴弾を村民に配ったといいます。富山証言は第3次家永訴訟において、沖縄国際大学の安仁屋政昭氏が公に持ち出したものでありますが、日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。3月25日8時海上に敵機動部隊船影を確認するまで米軍の渡嘉敷島への上陸を全く予想していなかった赤松部隊が3月20日に米軍の上陸した場合の戦闘に備えて村の少年や役場職員に手榴弾を配布することはありえません。富山証言はデッチアゲそのものです。

(略)

(4)太田氏(「鉄の暴風の筆者」ー引用者)は沖縄タイムス上での論戦において、「あの玉砕は軍が強制したにおいがある。アメリカ兵が目撃した集団自決の資料の発見者で翻訳者である上原正稔は、近く渡米して目撃者を探すそうである」と記載しています。その上原正稔氏こそ、先に紹介した『沖縄戦ショウダウン』の著者でした
原氏は、『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない金城武則氏、大城良平氏、安里喜順氏、そして知念朝睦氏といった集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく真実に気がつきました。そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、「筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」と告白しているのです。 さらに、「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」「一人の人間をスケープゴート(いけにえ)にして『集団自決』の責任をその人間に負わせて来た沖縄の人々の責任は限りなく重い」と結論しています。
『沖縄戦ショウダウン』の記事が沖縄の有力紙琉球新報に掲載されている意味は重大です。そのことは、沖縄の言論人にも事実を調査し、真実を見極めようという誠実な人がいること、そしてそうした沖縄でも赤松隊長命令説の虚偽が自明なものとして知られていたことを意味しているからです。
(沖縄集団自決冤罪訴訟・準備書面)

これに対する被告側は、

「『沖縄戦ショーダウン』は、赤松氏を一方的に評価する人物だけからの証言によって執筆されたもので信用性がない」と客観的反論を放棄し、「信用性がない」といった極めて情緒的文言で終わっている。

被告側は上原氏の著書は信用できないというが、上原氏は被告側のバイブルともいうべき『鉄の暴風』を出版した沖縄タイムス刊で、同じ沖縄戦を扱った 『沖縄戦トップシークレット』『1995年3月刊)を出版している。

同じ沖縄戦関連で同じ沖縄タイムスが出版した『鉄の暴風』はバイブル扱いして、他方では同じ沖縄タイムス刊で沖縄戦を出版する上原氏を自分の都合の悪い記述だから信用できないという。

これが「集団自決」訴訟を通じて被告側弁護団が取ってきたダブルスタンダード手法である。
 

■「一フィート運動」を始めたのは上原氏■

沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会

上原氏は、独自のルートで、アメリカで眠っている「沖縄戦映像」を取り寄せて、記録フィルムに残されている「場所と、人物を特定したい」と沖縄各地を調査し、証言を集めてきた。

上原氏は従来の沖縄戦の研究者のように、戦争の持つ影の部分のみを捉えて無理やりイデオロギー問題に摩り替える手法をとらなかった。

上原氏は、当初は『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない多くの集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく沖縄戦の真実に気がついた

そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、

筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」と告白している。

彼は言う。

「反戦平和なんてボクには関係ない!」

「大切なことは、沖縄戦を撮影したフィルムに、無数の沖縄住民の姿が映っているということだ。ボクは、フィルムの中の『主人公』たちに、この映像を届けたいんだ!」

そう、沖縄戦を記録した映像の中には、悲惨な戦闘シーンだけではなく、生き残った沖縄の人々の、驚くほどの「笑顔」が残されていた。

そして彼はフィルムに封印されていた沖縄戦の真実の物語を追求している異色の沖縄戦研究家でもある。

「1フィード運動」は、その後同運動に大田昌秀元知事や、新崎盛暉、安仁屋政昭、石原昌家等のサヨク学者が運営委員として加わり、運動がイデオロギー化していく。

創始者の上原氏は「一フィート運動」がイデオロギー化するのを嫌ったのか、組織を離れて独自の活動をするようになる。

上原氏の沖縄戦の記録発掘に対する姿勢がどのようなものかは、次の沖縄テレビ・サイトから垣間見ることが出来る。


第14回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/14th/05-330.html
『むかし むかし この島で』(沖縄テレビ制作)

 続く
 
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怪人・上原正稔 佐野眞一のベストセラーに登場!

2009-07-30 12:14:10 | 未分類

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『うらそえ文藝』による沖縄二紙への告発以来、県庁での記者会見、週刊新潮、サピオ、そしてチャンネル桜と立て続けに自論を展開する星、上原両氏だが、特に上原正稔氏は長い髭を蓄えた特異な風貌と遠慮のない率直な舌鋒が注目を浴びている。

上原氏について書いた過去ブログを一部抜粋、加筆してその人となりを振り返って見る。          

以下は沖縄を語る“大文字言葉”-『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』感想文の抜粋です。

                   ◆

 

 昨年末の発売以来ベストセラーを続ける佐野眞一著『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』を初めて本屋で見た時は、あまりにも分厚い(654頁)そのボリュームに圧倒され最近まで敬遠していた。

だが今月になって覚悟を決めて読破にかかったのだが、一旦読み始めたら時間を忘れて一気に読んでしまった。

登場人物が実に多彩で、現役の知事からヤクザの親分、そしてその親分をヒットした殺し屋に至るまでの膨大な数の人物を、著者は「アドレナリンが沸いてくる」という汲めどもつきぬ好奇心と、底知れぬ行動力で次々と芋ヅル式にインタビューを続ける。

今では左翼集団の巣窟と化した「一フィートの会」の創始者で、「この世の者とは思えない」風体のドキュメンタリー作家上原正稔氏とのインタビューのくだりには思わずコーヒーを吹いてしまった。

1フィート運動を太田昌秀元知事などの左翼集団に乗っ取られて、上原氏が組織を離れた話は当日記でも以前に触れた。

その経緯はこれ⇒琉球新報によって削除された「沖縄戦記」

1フィート運動の乗っ取り騒動に関連して、上原氏は太田元知事に暴力をふるわれ告訴騒ぎになったという。

筑紫哲也氏などに言わせると「沖縄の良心」のように褒め上げられる太田氏だが、「この世のものとも思えない」風体の上原氏に暴力を加えたという話は、沖縄人の筆者ならあり得ることだと納得すること。

だが、イモヅル式インタビューを得意とする佐野氏は、ウワサをそのまま記事にするようなどこかの記者さんとは根性が違った。

早速太田元知事に面会して同じ話の裏取りをするのだが、次の問答がとても元県知事へのインタビューには思えず笑いをこらえ切れなかった。

佐野氏:「上原正稔という人物をご存知ですか。 彼は太田さんに首を絞められたといっていました」

太田氏:「ええ、知ってます。 大げさなヤツです(笑)。裁判は、彼の方から取り下げたんです」

この後、太田氏の弁明がしばらく続くが、「大ゲサ」とは言っても暴力行為を否定してはいない。

ちなみに暴力行為の内容は、告訴状によるとこうなっている。

太田氏は那覇在の高級ホテル沖縄ハーバービューホテルの宴会場で、

「右手拳で告訴人の左わき腹一回強く突き、さらにたじろぐ告訴人の上胸部を痛みを感じるほど強く握り締めて、三メートルほどひきずるなどして暴行を加えた」と。

太田氏が否定はしないで「大げさ」というのは、三メートルもひきずったのが大げさであり、せいぜい一フィートしか引きずっていないというつもりなのだろうか。(爆)

太田氏の酒乱と暴力癖について、著者の佐野氏は太田氏をよく知る新聞記者にも尋ねている。

「(太田氏は)ちょっと批判的なことを言われると、すぐ顔を真っ赤にしさせる。鼻血まで流すこともありました。 酒乱? いまの(仲井真)知事の方が百倍酒乱です・・・・・」

酔うと批判者に暴力をふるい「一フィート」も引きずり廻す元知事にも驚くが、

その百倍も酒乱という現役知事の話にも言葉を失う。

だが、かくいう筆者も仲井真氏が知事になる前の沖縄電力社長時代、たまたま行った居酒屋で仲井真氏に遭遇しその酒乱の片鱗を拝ましてもらったがここでは省略する。

1フィート運動を上原氏が始めたことを示す記事が琉球新報に掲載されている。

10日付朝刊社会面は、ドキュメンタリー作家・上原正稔さんが米公文書館で入手した沖縄戦の映像を紹介した。沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会は顔なしである。上原さんの行動と成果を見るにつけ、かつて1フィート事務局で手伝いをしたことのある私は「何だかなぁ」と思わざるを得ない。もともと1フィート運動は上原さんたちが始めたと聞く。であるならば、上原さんに1フィート運動の会に戻っていただいて再生を図るくらいのことをしてもいいのではないか。>(久場由紀子さんの<紙面批評>を絶賛する ~沖縄王版『琉球新報』紙面批評(2004年1~2月分) より)

上原氏や太田氏のように登場する怪人たちを一々紹介していたら切がないないので、他の怪人達については同書を読んでいただくとして、目次の冒頭にある次の章について触れたておきたい。

「お約束」の島から「物語」の島へ

この章の最後の部分にこうある。

・・・私は沖縄を日本の暗部を一身に背負わされた被害者の島という文脈だけで語ろうとは思わない。・・・・・・

忘れてならないのは、被害、加害の「大文字」議論にはさまれて、当の沖縄人たちが、戦後つむいできた可笑しくも悲しい物語が封殺されようとしていることである。 私は本書で、その封印をすべて開封するつもりである。>

そう、沖縄の書店に並ぶ沖縄戦史モノや沖縄紙の紙面で識者が語るのは、「お約束」の「大文字言葉」であり、沖縄の実情を伝えていない。

これまで当日記が「お約束」の「大文字言葉」に反するような文言を書くと「この男は沖縄人を騙るヤマトンチュであり、沖縄人がこのようなことを書くはずがない」とか「コイツは裏切り者だ」といったコメントが殺到した時期があった。

これでは沖縄人である限りすべてが金太郎飴のように同じ意見、つまり「大文字言葉」の意見を持たねばならぬということになる。

これでは沖縄は「同調圧力」を超えた北朝鮮のような所だといわれても仕方がない。

佐野眞一氏が言う「大文字言葉」の意味は、『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』の「はじめに」に説明されているので一部を抜粋して以下に引用する。

                     ◇

 『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』佐野眞一著

「はじめに」より

沖縄についてはこれまで夥しい数の本が書かれてきた。だが私から言わせれば、ほとんどが“被害者意識”に隈取られた“大文字”言葉で書かれており、目の前の現実との激しい落差に強い違和感をおぽえる。
 
沖縄本を覆う違和感とは何か。大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。
 渡嘉敷島の集団自決問題の論争で、大江をエキセントリックに攻撃する漫画家の小林よしのりを擁護する気は毛頭ない。
 だが、
大江は沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、そうした中で自分だけは疚しさをもつ善良な日本人だと宣言し、ひとり悦に入っている、という小林よしのりの大江批判にはそれなりの説得力がある。
 沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと私は考えている。そこには、沖縄の歴史を一九四五(昭和二十)年六月二十三日の沖縄戦終結の時点に固定化させ、この島にその後六十年以上の歳月が流れたことをあえて無視しようとする欺瞞と、それにともなう精神の弛緩が垣間見えるからである。
 
大江や、これに同調する筑紫哲也の話題が出るたび、心ある沖縄人たちから「われわれを“褒め殺し”するのも、もういいかげんにしてくれ」という台詞が出る場面に、私は幾度となく遭遇した。
 こうした跪拝意識に“大文字言葉”が加わって、沖縄は米軍に占領された被支配者の島である、といった左翼宣伝ビラでもいまどき書かないようなプロパガンダ本が、うんざりするほど生産されることになった。

“大文字言葉”とは何か。いい機会なので、ここで私がよく便う「大文字」と「小文字」の違いについて、少し噛み砕いて述べておこう。
「So what?」という英語の慣用句がある。私流に訳せば「それでどうしたの?」という意味である。私が言う[大文字」言葉とは、聞いたときにはわかったような気にさせるが、あとから考えると「So what?」という疑問がわく言葉のことである。
 テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言は、だいたい[大文字」言葉だと思って間違いない。私は彼らのおごそかな口調の割には無内容なコメントを聞くたび「雨が降るから天気が悪い。悪いはずだよ、雨が降る」という俗謡を思い出してにが笑いする。
 彼らは同義反復しているだけで、実は何も言っていないのに等しい。何かを言っているように聞こえるのは、彼らの顔や仕草を見て、こちらが情報を補ってやっているからである。
 これに対して「小文字」とは、活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉のことである。それは小さい声ながら、有無をいわせぬ力で読者をねじふせる。
 物事を「説くにには「大文字」言葉が便利だが、物事を「語る」には「小文字」言葉を身につけなければならない。「語って説かず」。それがノンフィクションの最大の要諦だと、私は常々言ってきた。

                    ◇

なるほど、沖縄、特に沖縄戦を語る言葉には「お決まり」の「大文字言」が沖縄情報として巷に氾濫していることが良く理解できる。

「大文字言葉」を語る代表が大江健三郎氏と筑紫哲也氏だという例えも分かりやすい。

このお二人を沖縄の良心のように扱う沖縄紙も「大文字言葉」に溢れていることになるわけだ。

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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コメント (3)

ストックホルム症候群だって

2009-07-30 06:31:45 | 県知事選

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依存心芽生え逃走困難か  ストックホルム症候群指摘
千葉市花見川区の団地で店員豊田愛子さん(61)が殺害され、次女智美さん(22)が連れ去られた事件で、智美さんが逃げ出せなかった理由について千葉県警は、極度の緊張状態の下で犯人に依存心を抱くようになる「ストックホルム症候群」の可能性を指摘、カウンセラーによる心のケアを検討している。

 同症候群は、人質事件などで被害者が長い監禁状態に置かれているうちに犯人に親近感を覚える心理状態をいう。

 県警によると、智美さんは団地から栃木県内まで仲田敬行容疑者(28)と車の中で二人きりだったが、事件翌日には高速バスやタクシーを乗り継いで羽田空港に移動したり、那覇空港へ飛んだ後もタクシーを長時間利用しており、計5日間は第三者がそばにいた。保護されたとき、一緒にいた仲田容疑者は凶器を所持しておらず、逃げ出す機会はあったとみられている。

 県警幹部は、智美さんが6月に別れて間もない7月4日、仲田容疑者に車で連れ去りに遭い、愛知県内で保護されるまで1週間逃げ出せなかったことから、既にストックホルム症候群の兆候が芽生え、今回も逃げ出せる心理状態になかったとみている。

 智美さんについて、東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一研究員(精神医学)は、母親の殺害現場を目撃し「逃げたら危害を加えられると思った」と話している側面を重視。ストックホルム症候群にみられる依存心よりも、トラウマ(心的外傷)が深まり被害を訴え出る気力が失われたのではないかと分析。ストーカー被害を訴えた事件前の段階で智美さんを隔離するなどの措置を講じておくべきだったと指摘している。

2009/07/26 18:26   【共同通信】 

                                         

犯人と人質は沖縄で逮捕されたが、犯人より人質の女性の心理状況が話題になった。

逃げるチャンスがあったのに逃げなかった人質の女性の心境を、ストックホルム症候群のせいにする専門家がいるようだ。

恋人同士のようにビーチで仲良く泳ぐ姿に人質と拉致犯の緊迫感は見当たらなかったとは、二人を乗せたタクシー運転手の話。

でも、ストックホルム症候群とは、一寸こじつけが強引過ぎる気もする。

人質の気持ちはよくわからないので、以下のスレッドに任せるとして・・・。

【社会】千葉から沖縄まで連れ回された被害者、「ストックホルム症候群」で逃走困難か

 

更に強引に「ストックホルム症候群」を「鬼畜米英」に結びつけた過去エントリーを一部加筆して再掲です。

「鬼畜米英」と「ストックホルム症候群」■

8月15日の玉音放送で日本人の価値観はひっくり返ったと言われる。

しかしその約2週間後マッカーサーが丸腰で日本に上陸してから、日本人の心理状態は精神医学上極めて興味ある状況に陥る。

鬼畜米英と恐れたアメリカ軍は意外と紳士的だった。


それどころかマッカーサーは「自由と民主主義」を手土産に持ってきた紳士であった。

以後7年の間、このアメリカ紳士は占領下という閉鎖空間で日本人と共に暮らすこととなる。

ここに日本人は、後に精神医学用語となる「ストックホルム症候群」を全国的に体験することになる。

ストックホルム症候群とは、
1973年にストックホルムで起きた銀行立てこもり事件に由来する。


4人の人質の犯人に対する複雑で難解な心理状態を指す言葉で、彼らは被害者になったにも関わらず長い期間(6日間)犯人と時間を共にすることになる。

その結果、最終的には犯人に対して連帯感、親近感、同情を感じ、犯人逮捕の際に彼らは感謝するべき警察を非難し、非難すべき犯人に共感した。

この人質の心理状況が後にストックホルム症候群と言われるようになる。

米軍の日本占領時では、言うまでも無く、凶悪犯人は鬼畜米英の総大将マッカーサーであり、人質は敗戦国民の日本人、そして人質現場の銀行は占領下の日本(Occupied Japan)にあたる。


■敵の敵は味方■

「ストックホルム症候群」は特に地上戦の激しかった沖縄戦で顕著に現れた。

沖縄でも終戦を待たないで米軍の捕虜になった住民は価値観の逆転を味わった。

鬼畜が食料を与え怪我の治療をしてくれる。

一方、無残な姿で未だ逃げ回っている日本軍はその瞬間「敵」になった。

自分達の敵である日本軍の敵は米軍。 

「敵の敵は味方」という方程式が成立し、この瞬間米軍は解放軍になった。


更に沖縄を日本から永久分断するための米軍の心理作戦、そしてそのため善意を強調する米軍との共同生活は沖縄でも「ストックホルム症候群」の症状が群発した。

凶悪犯人は鬼畜と思った米軍であり、人質は捕虜、人質現場の銀行は捕虜収容所、いや沖縄全島といったほうがわかりやすい。

この辺の複雑な心境を当時沖縄で捕虜になったある女性は次のように書き残している

米軍に保護された住民にとって、それまでの『兵隊さん』は、いつしか『日本兵』という“敵”に変わっていた。住民は、すっかり”親米派”になっていたのである。『お国のために』と信じ、日本軍と行動をともにしてきた私の母・宮城初枝も、大けがをして投降したものの、島の人たちからあらぬ噂をたてられ、
日本軍に加担したとして批判の的にされていた。
戦争は終わった。しかし母にとっての”戦争”は終わらなかった。さまざまなできごとが戦後に尾を引き、母はその当事者になってしまうのである。≫
(宮城晴美著 「母の遺したもの」)


■マッカーサーの置き土産■

マッカーサーが7年後日本を去るとき「鬼畜」は「親愛なるマッカーサー様」に変わっていた。

彼のもとには日本国中から感謝と惜別の念に満ちた数万通の手紙と贈り物が届けられていたと言う。

だが、マッカーサーが日本に残したものは「言論の自由」ではなく、「焚書坑儒」、・・・いや、そんな直裁的な荒業ではなく、真綿で締め上げるような「3年殺し」の技だった。

古来沖縄に伝わる空手の秘技「3年殺し」については
「マッカーサーの三年殺し」【再掲】で書いた。

拳で突かれたときは痛くも痒くも無いが、3年目には内部の細胞が崩れて死に至るという必殺技だ。

しかしマッカーサーの秘技は3年どころか60数年の時を超えて、日本社会の内部組織を今でも壊し続けている。

■マッカーサーの焚書坑儒■

マッカーサーは当時のアメリカでも実施していなかった男女平等を始めとする数々の民主主義の理想を日本に持ち込んだ。

彼は軍人でありながら何故このような当時は勿論、現在でも類のない理想主義に満ちていたたのか。

その鍵をとく為に彼が日本に第一歩を印すまでの足跡を辿ってみる。

パターンの復讐

マッカーサー、この誇り高きエリート軍人は、フィリピンでは日本軍に敗走の屈辱を味合わされた。

挌下と見下していた黄色民族の軍隊に敗走する事は彼の辞書には無かった。

ダグラス・マッカーサーは1880年1月26日アーカンソー州リトルロック生まれ。父親のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり名誉勲章を受章している職業軍人家系だった。

1898年、アメリカ陸軍士官学校に入学し、1903年に陸軍少尉になり卒業した。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上最高で、マッカーサーの取った成績以上の成績で卒業したものは未だに現れていない。

1942年5月7日、その誇り高きマッカーサーがフィリピン・コレヒドールで日本軍本間中将との戦いに敗れてオーストラリアに敗走する。

この屈辱の負け惜しみに「I shall return」(必ず戻る)という有名な言葉を残した。

彼の屈辱の敗走の2年後、彼より10歳若いアイゼンハワーがヨーロッパ戦線でノルマンディ作戦を指揮して世界的英雄になった。

アイゼンハワーは軍人として必ずしもエリートコースを歩んでおらず一時は閑職で燻っていた時期もあった。

またアイゼンハワーはマッカーサーの部下として彼の補佐官を務めた時期もあった。

軍人のエリートコースを歩みながら、むしろ政治家志向のマッカーサーが後年大統領予備選に敗北をして、立候補を再三辞退していたアイゼンハワーが大統領になった。

日本占領までのマッカーサーはフィリピンでの屈辱を晴らす復讐の念に燃えていた。

それには日本の軍隊を徹底的に壊滅させる必要があった。

日本を手足のもぎ取られた子羊のように、二度と米国に反抗できない状態にしておく意図に燃えていた。

そのためには日本国憲法の設定、その中でも交戦権の否認は不可欠であった。

■マッカーサー 皇居を睥睨しながら執務をした■

マッカーサーは皇居に面した第一生命ビルの6階に占領軍の本部を構えた。

そこから皇居を見下ろして天皇の権威の上に君臨する全能の権力者となった。

日本の歴史上権力と権威を1人で独占して日本を統治した者は彼をおいて他に例が無い。

日本の歴史では朝廷の権威と幕府の権力は常に補完しあってきた。

マッカーサーと言えば日本に「自由と民主主義」を普及させた恩人と見られている。

しかし彼が日本で最初に行ったことは「自由と民主主義」とは逆の「焚書坑儒」であった。

「焚書坑儒」とは中国の専売特許かと思ったらマッカーサーもこれを行った。

秦の始皇帝にも劣らぬ絶大な権力を振るったマッカーサーなら「焚書坑儒」もけして不思議ではない。

マッカーサー司令部は昭和21年3月に一通の覚え書きを出して、戦時中の日本の特定の書物を書物の存在すべきあらゆる場所から没収し、廃棄することを日本政府に指示した。

書物没収のためのこの措置は時間とともに次第に大がかりとなる。

昭和23年文部省の所管に移って、各都道府県に担当者が置かれ、大規模に、しかし、秘密裏に行わた。

没収対象の図書は7千7百余種に及んだという。

そのとき処理し易いように作成されたチェックリストが分厚い一冊の本として公開されている。

これは戦後のWar Guilt Informasion Programの一環であり、私信にまで及ぶ『検閲』の実態はかなり知られている。

だが、数千冊の書物の『焚書』の事実はほとんど知られていない。

チェックリストは、昭和57年に文部省社会教育局編として復刻され、やっと公開されるようになった。

失われた書物の内容を、殆んどの日本人は知らない。

つまり、先の大戦に関して、戦後の日本人は偏った情報を与え続けられ現在もそれが継続していることになる。

 

■「三年殺し」に潰された安倍政権■
   
マッカ―サーの「焚書」という「三年殺し」の荒業は彼の予想を遥かに越えて、60数年経った現在でも日本の内部組織を破壊しつづけている。

マッカーサーの負の遺産である「戦後レジーム」。

それは「戦後民主主義」という形で、今でも左翼マスコミの中に奥深く染み込んでいる。

その解消に果敢に挑んだ安倍前首相は、「戦後レジーム」そのものともいえるマスコミと左翼官僚によって見事に潰されてしまった。
 
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