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昨日公開されたチャンネル桜の上原氏のインタビューの中で登場する座安盛徳氏は、沖縄タイムス創設者の一人だが、『鉄の暴風』発刊の黒幕として知られていている。
座安氏が米軍側からの情報収集のパイプ役を果たしていたことは研究者の間ではよく知られたことが、この座安氏と米軍との関係を如実に示す沖縄タイムス記事がある。
それも比較的最近のウェブ記事である。
タイムスも削除しそこなったのか、それがこれ。
<沖縄タイムス 1998年1月6日 朝刊 6面>
忘れ得ぬあの取材
比嘉敬さん
岸・高嶺会談
写真撮影に没頭 メモ忘れた
入社したのは一九五〇年。新聞広告を見て応募したが、正直言って、新聞社なのかどうか、よく分からずに応募した。比嘉博さんら採用予定枠の二人はすでに決まっていたので、どうなるのか分からなかった。そこへたまたま通りかかった専務の座安盛徳さんが私の兄をよく知っているということで、机の上にあった紙に簡単な略歴を書かされて「あしたからすぐ来い」と言われた。
翌日、座安さんと一緒に『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行ったことを覚えている。
入社三年ほどで東京勤務になった。五七年六月十一日、日本規格協会理事長の高嶺明達さんを介して、訪米前の岸信介首相と本社の高嶺朝光社長の対談を企画することができた。明達さんは岸首相のブレーンの一人だった。
取材では、写真が肝心といわれていたので、頭には写真のことしかなかった。フラッシュをたかずにバチバチやっていたら、岸首相が「そこは逆光だから、こっちにいらっしゃい」と明達さんを明るいところへ呼ぶなど、気を使ってくださった。
写真撮影に一生懸命なあまり、メモを取ってなかったので、対談の内容はほとんど覚えてなかった。あとで「どんな話でしたかねえ」と社長に聞いたら、「君は取材に来て、メモも取らないのか」とこっぴどく怒られた。(談)(元沖縄タイムス社長・現琉球朝日放送社長)
◇
記事の主題は岸首相だが、『鉄の暴風』がライカム(米軍)の許可の下に出版されていることが、何気なく語られている。
ちなみに座安氏と新人記者の比嘉さんが『鉄の暴風』の出版許可を貰いに言ったライカムとは、
在沖米軍を統率した琉球米陸軍司令部(Ryukyu Command)の略称のこと。
『鉄の暴風』の執筆者の太田良博氏は、タイムスの記者になる1949年まで、ライカムと同じく沖縄住民統治に強権を振るったユースカーに勤務していた。
ユースカーとは、琉球列島米国民政府の略称で、アメリカ軍が沖縄に設けた統治機構。英語での正式名称はUnited States Civil Administration of the Ryukyu Islands、略称USCAR(ユースカー)。
米国民政府に直前まで勤務し、新聞記者としては素人同然の太田良博氏が、沖縄タイムスに呼ばれれて『鉄の暴風』の執筆を始める事は次のエントリーで触れた。
では、素人同然の太田記者に『鉄の暴風』に執筆という重責をゆだねた沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「体験者」を集めることが出来たのか。
当時の沖縄では、交通・通信等の手段を独占していた米軍の強大な力なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられないことである。
昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。
住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。
太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。
その頃の那覇の状況といえば、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。
太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。
「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。
三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も納得できる話である。
余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国映館近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。
その後同ホテルは廃業したが、通りにその名前を残すほど当時としては大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。
このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると、『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。
『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」が集め、「社」(沖縄タイムス)のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。
ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。
米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。
平成19年11月5日
真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から62年 第2部 <13>
『鉄の暴風』誕生(1) 全社を挙げて取り組む
「米軍の人類愛で更生」
若きアナーキストたち。右は城田徳明(大杉栄を崇拝して小杉栄と記してある)、中央は山城亀助、左は座安盛徳(県立農林校生)。座安氏は後に沖縄タイムス専務として腕を振るう(浦崎康華『逆流の中で』より)
新聞社は、自社の紙面に掲載した連載が、読者からの反響を呼び好評だったものを単行本にまとめるのが通例だ。沖縄タイムス編『鉄の暴風』(昭和二十五年八月、朝日新聞発行)もまた、同じ手順で作成されたと思っていたが、そうではなかった。
沖縄タイムス社は昭和二十三年七月に創刊するが、その直後から、社を挙げてこの単行本プロジェクトが進められていたのである。本の監修を担当した常務の豊平良顕氏が「月刊タイムス」昭和二十五年一月号に、「“鉄の暴風”と記録文学 沖縄戦記脱稿記」という一文を寄せている。
「高嶺社長以下全社員の熱意によつて、沖縄タイムス創刊当初より戦記刊行が企てられ、終戦四年目の昨年五月、本書編さんを、豊平(監修)、牧港(執筆)、大田(同上)の三名に託し、半年を経て、上梓の運びに到つたのである」(原文のまま)
同社の専務の座安盛徳氏は、取材記者のために証言者を旅館にかき集めたり、沖縄に本の印刷機がないため上京し、朝日新聞社と発行の交渉のため骨を折るなど、まさに会社挙げての事業だったのである。
豊平氏は脱稿記で『鉄の暴風』が「記録文学」と強調している。
「記録文学というからには、どこまでも記録によつて、文学たるほかなく、記録というからには事実を基礎とするほかはない。而して文学というからには、作者が事実をどのようにうけとり、いかに自分の血肉と化したかを考えなければならない。しかし主観が働き過ぎてはいけない。事実をみくびり、なめてかかつてはいけない」
さらに、「事実の中味の重さを尊重するならば、おのづから最小限の言葉の中に事実の全重量を受け止めねばならない」と、「事実の重さ」を格調高く綴(つづ)っている。しかし併せて脱稿記で目を引くのは、米軍へのすさまじいまでの心配りである。
「なお、この動乱(沖縄戦)を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく、終生忘れることができないことは、米軍の高いヒユーマニズムであつた。国境を民族を、越えた米軍の人類愛によつて、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。われわれは、そのことを特筆した。米軍の高いヒユーマニズムを讃え、その感恩を子々孫々に伝え、ひろく人類にうつたえたい。戦いの暗たんたる記録のなかに珠玉の如き光を放つ、米軍のヒユーマニズムは、われわれをほつと息づかせ、よみがえらせ理解と友情がいかに崇高なものであるかを無言のうちに教えてくれる。血なまぐさい戦場で、殺されもせずに、生命を保護されたということを沁々(しみじみ)と思い、ヒユーマニズムの尊さをありがたく追想したい」
文中の「更生」とは、好ましくない状態を改めて元の良い状態に戻るという意味だ。ヒューマニズムあふれる米軍を相手に戦った日本軍も住民も愚かでした、そんな自分たちを殺すことなく保護し、あらゆる支援を与えてくださり更生できました、と。「そのことを特筆した」のが、『鉄の暴風』であるというのである。
筆者の牧港篤三、太田良博両氏は昭和二十四年春から取材三カ月、執筆三カ月という短期間で仕上げて同年十一月に脱稿。その後、原稿を清書して、琉球大学の教授に英訳を依頼して、その全訳を軍政府に出すという作業があった。
このような手間暇がかかることを考えれば、新聞紙上で一回一回事前チェックを受けて連載するという発想は初めからなかったのであろう。
結局、米軍政府の許可が下りるのは脱稿から七カ月後の昭和二十五年六月十五日。許可が長引いたのは、時の軍政長官シーツ少将が読み始めて「これは面白い」と、手元に置いて手離そうとせず、部下連中はお手上げだったという。(高嶺朝光著『新聞五十年』)
だが、それにしても豊平常務はなぜ、許可が下りる前に、大きなスペースで堂々と前宣伝とも言える脱稿記を書けたのだろう。不許可になる可能性を想定していなかったのか。それとも既に、許可については軍政府から暗黙の了解があったのだろうか。
豊平氏の脱稿記の終わりに気になる一文がある。「沖縄戦記の刊行をタイムス社が承つたことは、あるいは、最適任者を得たものではあるまいかと思う」というくだりだ。果たして豊平常務が、「承る」という丁寧な言葉を使う相手は誰なのか。それを占領下の当時、絶対的な権限を誇示していた米軍政府と読めば、『鉄の暴風』の早過ぎるとも思えるこの手記の発表も合点がいくのである。
(編集委員・鴨野 守)
◇
【おまけ】コメント欄の紹介です。
2009-07-28 18:49:20 縁側 .
狼魔人さま こんにちは
目取真ブログにいってきました。「書評狙われた集団自決」のエントリーへコメントを入れてきました。おそらく無視されると思いますので、こちらでお邪魔させてください
(転載はじめ)
目取真さま こんにちは
被告側支援者のお書きになったものですね。早速拝読させていただきます。情報に感謝します。
>村の幹部としての立場上、座間味島の「集団自決」で大きな役割を担わされてしまった宮里盛秀氏は、大江・岩波沖縄戦裁判のなかでも焦点となった人物である。その宮里氏が、米軍が上陸したら「玉砕」するよう軍から命令を受けていたことを示す証言を、妹の宮平春子氏が行った。裁判や教科書検定問題のただ中で明らかにされた同証言は、大きな注目を浴びた。
:この宮平春子証言は県内二紙も大見出しで扱い、「決定的な証言」としておりましたが、果たしてそうでしょうか。彼女は宮里盛秀氏の妹にあたりますね。私の持つ情報では、座間味島の多くの方々は、宮里盛秀氏の墓に唾を吐きかけていたようです。たぶん集団自決でご家族を失ってしまったご遺族なのでしょうね。そんな島で生活している宮平春子さんも居心地のいい環境ではなかったのではないでしょうか。毎年やってくる慰霊祭、ウシーミーなどの時期には、否応なしに皆が思い出しますからね。そこで昨今の、当該裁判と教科書検定問題が噴出したことでまた、「忘れたい過去」が蘇ることになります。当然ながら兄の墓に唾を吐きかける者たちも思い出しますね。彼女のお立場なら、肉親である兄盛秀の名誉を回復したいとお考えになられるのは極めて自然な感情でしょう。そのための「軍命」と考えるのはこれまた自然だと思いますが・・。
目取真さんが仰る太田良博氏、牧港篤三氏ご存命中に星・上原両氏は議論を起こさなかったのか?関係者が故人になってから言いたい放題、は「うらそえ文藝」を精読してない証拠ですよ。その時から「軍命なし」の考えではなかったはずです。逆に宮平春子さんは、なぜ、今頃になって「重大な史実」をしょうげんしたのでしょうか?妹・家族の証言は、過去の県内二紙でも取り上げるに値する証言とは見ないと考えたのでは?もしかしたら、証言しても過去の県内二紙がスルーしたとも考えられますね。
(転載おわり)
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