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沖縄戦「集団自決」の謎と真実 |
冒頭にチャンネル桜の動画二つをご覧下さい。
【沖縄の空気】小林よしのり氏招聘のその後-高里洋介 ...
《小林よしのり氏を沖縄に招聘したために、職場などで理不尽な逆風に遭われたという高里洋介氏に、沖縄の言語空間や社会の現状についてお聞きします 》
高里洋介氏の証言については次のエントリーに譲って、今回は次の奥茂治氏の証言を取り上げる。
【動画】【沖縄集団自決】沖縄言論の現状-奥茂治氏に聞く ...
《星 それからこの裁判で、証言者たちが前言を翻して、逆な発言をするのも不思議な現象だ。例えば、宮城晴美さんのお母さんの宮城初枝さん、以前は宮平初枝さんだが、その人が軍命につぃて嘘の証言をしたこことを告白したのを、娘が後でまた裏返してあの告白は嘘だったという経緯がある。その上、戦後生まれの宮城晴美さんは自分の証言の真実性を訴えたりする。また、二重の虚言的な操作をする人が出てきたこりして、非常に疑心暗鬼になる。ただ、住民が本当のことを言えなくて、奥歯にものの挟まったような状能で証言するのを、私は数人から何度も感じてきたわけです。
また、四〇年ほど前に渡嘉敷島と、座間味島に宿泊して、私は当時の村長と駐在巡査と宮城初校に会って話を聞いたわけです。そのとき何かしっくりせず隠しているなと感じたものです。隊長命令があったとは誰も言わなかったし、なかったとも言えないふうに、非常に曖昧だった。私は七一年の「潮」に「集団自決を追って」という文章を物語風に書いたけれど、わざとぼかして書いた。ある程度の確信はあったが、あの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある。》
《チャンネル桜でもお馴染みの南西諸島安全保障研究所 副理事長・奥茂治氏に、沖縄集団自決をめぐる沖縄言論の現状についてお聞きしていきます。》
奥茂治氏の発言を要約するとこうなる。
①軍命があったということは確認できない。
②これは法廷でも確認されている。
③問題を困難にしているのは、公金を出金するために軍命を利用したということ。軍命説は遺族年金を得るための役所と住民の創作劇である。
④星氏は40数年前に自ら渡嘉敷島、座間味島に聞き取り調査に行き、新聞等にも記事を書いたが、軍命があったとは一回も書いていない。 上原氏は沖縄戦ドキュメンタリーの専門家であり二人の今回の発言は非常に重い。
注:この件に関し星氏は『うらそえ文藝』の対談の中で次のように発言している。
《星 それからこの裁判で、証言者たちが前言を翻して、逆な発言をするのも不思議な現象だ。例えば、宮城晴美さんのお母さんの宮城初枝さん、以前は宮平初枝さんだが、その人が軍命につぃて嘘の証言をしたこことを告白したのを、娘が後でまた裏返してあの告白は嘘だったという経緯がある。その上、戦後生まれの宮城晴美さんは自分の証言の真実性を訴えたりする。また、二重の虚言的な操作をする人が出てきたこりして、非常に疑心暗鬼になる。ただ、住民が本当のことを言えなくて、奥歯にものの挟まったような状能で証言するのを、私は数人から何度も感じてきたわけです。
また、四〇年ほど前に渡嘉敷島と、座間味島に宿泊して、私は当時の村長と駐在巡査と宮城初校に会って話を聞いたわけです。そのとき何かしっくりせず隠しているなと感じたものです。隊長命令があったとは誰も言わなかったし、なかったとも言えないふうに、非常に曖昧だった。私は七一年の「潮」に「集団自決を追って」という文章を物語風に書いたけれど、わざとぼかして書いた。ある程度の確信はあったが、あの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある。》
星氏は四十年前の調査で、軍命はなかったことにある程度の確信はあったが、わざと核心部分をぼかして書いたことに対して、今でも忸怩たるものがある、と告白している。 その思いが今回の告発に到る動機だったのであろう。
■「梅澤死亡説」を利用した人々■
(奥茂治氏の発言要旨の続き)
⑤「鉄の暴風」が諸悪の根源である。 沖縄タイムスは、梅澤氏は朝鮮人慰安婦と不明死したとデタラメを書いて30年間も放置しておきながら今だに謝罪していない。
⑥一方梅澤氏が死亡していた方が、都合のよい人もいた。 援護金の手続きは梅澤氏が死亡とされていたため、手続きは簡単で偽造印鑑で済ました。
⑦一方の、赤松氏は生存しているため手続きには本人の署名と捺印が必要だった。
注:「侘び状」で有名な座間味村役所援護係・宮村幸延氏は、戦後30年間も、梅澤氏が死亡しているとして偽印鑑で援護法の申請手続きをしていたのであろうか。
梅澤氏に「侘び状」を書いた理由は、兄の故宮里盛秀氏が発した自決命令の濡れ衣を梅澤氏が着ていたことに対する謝罪のほかに、
梅澤氏を「死亡者」として利用し、勝手に偽印鑑等で手続きをしたことに対する謝罪の意味も含まれていたのではないか。
後になって宮村氏は泥酔させられていたので「詫び状」の記憶はないと、前言を翻すことになる。
宮村幸延氏は村役所の援護係として援護金申請手続きに奔走するが、これも兄・宮里盛秀氏が住民を集団自決に誘導したことに対する弟としての贖罪意識が大きな動機になっていたのではないか。
1957年8月、座間味村総務課長・宮村幸延氏は上京し、慶良間戦における集団自決補償の目的で当時の厚生省と折衝を重ねている。
その結果1963年10月、集団自決の軍命が理解できるとは思われない6歳未満から0歳児までの子供(148名)が、準軍属に決定することになる。 これも宮村氏の功績だとして座間味村役場の記録には残っている。
宮村幸延氏の問題の「侘び状」の文言は次の通り。(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編著 PHP研究所)より)
《 証言 座間味村遺族会長
昭和20年3月26日の集団自決は梅澤隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむを得ず隊長命令として申請した、ためのものであります
右 当時援護係 宮村幸延 捺印
梅澤裕 殿
昭和62年3月28日 》
自筆捺印の「詫び状」まで書いていながら、「泥酔していたから」という子どもじみた言い訳にも驚くが、
裁判長がこんなミエミエの言い訳を信じたことも、「集団自決訴訟」の七不思議の一つである。
ここにも「戦後民主主義」に毒された裁判長の、大江健三郎・岩波書店に対する必死の援護の意志が垣間見れる。
裁判長は「中東の笛」を吹いたのだ!