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航空機の即時飛行中止を 沖国大が抗議集会 米軍ヘリ事故5年で
夏期休暇を利用して観光で来県している東京の友人がテレビのニュースを見て気の毒そうな表情で尋ねた。
「この米軍ヘリ事故で何人の犠牲者が出たの?」
「死傷者は一人もいなかったよ」
「え?」
怪訝な表情で友人は聞き返した。
「確か、多くの死傷者が出たというニュースを見たけど」
この友人、50年前の宮森小学校の事故と沖国大の事故を混同している様子。
米軍機墜落事故といえば「沖国大ヘリ機墜落事故」が例年大々的に報じられるが、
米軍統治下の沖縄で、宮森小学校に墜落した米軍機の大惨事については沖縄のマスコミはそれほど騒いでこなかった。
さすがに今年は50周年に当たるということで、マスコミも沖国大ヘリ事故とあわせて宮森小学校の大事故を報道し始めたが、友人はこの報道を見て沖国大ヘリ事故と勘違いをしたらしい。
米軍統治下の1959年6月30日午前、米軍戦闘機が石川市にある宮森小学校に墜落し、炎上した。
事故による死者17人、重軽傷者210人、校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼する大惨事となった。
観光客である友人が、今では県民でさえの関心の薄れ掛けている宮森小学校の大惨事の報道と沖国大の事故と取り違えるのは無理もないことではある。
一人の死傷者も出なかった沖国大ヘリ墜落についてはマスコミはこのように派手に報ずるのだから。
⇒心の傷語り合う場に 沖国大ヘリ墜落5年目の写真展2009年8月12日
◇
今朝のタイムスの見出しを見てもヘリ墜落事故一色である。
◆一面トップ
米ヘリ危険放置に抗議
墜落5年で沖国大集会
普天間封鎖訴え
◆社会面トップ
今も危険の真下
住民・学生怒りの声
ところが第二社会面には小さな次のような見出しが・・・
参加者、一握り
そして記事にはこうある。
《「沖国大は教官と事務員あわせて約200人いるのに、集会には数えるほどしか来ていなかった。 学生もあまりいなくて報道陣が多いくらい。 びっくりした。」》
おいおい、記者さん、こんな真実を報道して大丈夫ですかね。
抗議集会には「数えるほど」の参加者で「報道陣の方が多い」というのに、参加者数を聞くのも気の毒だが、一面の大見出しや三面の「住民・学生怒りの声」はパラパラとでも起きたのだろうか。
【追記】
【追記】沖縄タイムス、も琉球新報もウェブ記事では、申し合わせたように、抗議集会の参加者200名と主催者発表をそのまま掲載している。主催者発表だったら100名くらいが実数だろうが、仮に200名程度でも容易に数えられる数だ。
「数えられる人数」だったら記者が自分で数えたろどうだろうか。
◇
以下は過去の関連記事ヘリ墜落事故は、「事故」であり「大虐殺」ではないを一部編集したものです。
沖縄タイムス
今晩の話題 (2008年8月20日)
「ヘリ墜落「事件」」
沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故から四年目の十三日、同大の学生たちによって、ヘリの激突で焼け焦げた旧校舎の壁をプリントした大型シートが、新校舎に掲げられた。
中心メンバーの社会文化学科四年の阿波根優斗さん(21)=読谷村=から話を聞いていて、彼が墜落事故のことを「事件」と繰り返すのが気になった。否、正直に言うと、そのときは彼の言い間違えだと解釈し、記事でも「事故」と言葉を置き換えた。
だが、時間がたつにつれ、事件という言い方は彼が最も腑に落ちる、当を得た表現だったのではないかと思うようになった。
阿波根さんは当時、高校三年生。事故の実体験はない。それでも、風化させてはならないと切実な思いを抱くに至ったのは、おそらく先輩から聞いた話が墜落した瞬間の出来事だけではなく、その後の「事件」も含んでいたからではないか、と。
米軍が大学を一時封鎖し県警の現場検証を拒否したこと、夏休みを理由に小泉純一郎首相が稲嶺恵一知事の面談要請に応じなかったこと、今も米軍ヘリが大学上空を飛び回っていること、これらはいずれも事件だ。
事故というと、偶発的に発生したように聞こえるがそうではない。いつ起きてもおかしくないと指摘されながら、政治の怠慢で放置された末に起きた事件であることを忘れてはならない。(渡辺豪)
◇
記者の渡辺さんは、学生の誤記をあえて 「ヘリ事件」とし、
自分のイデオロギーに当てはめようとしているが、
誰が何といおうと、これは「ヘリ事件」ではなく、
航空事故の一種である「ヘリ事故」に違いはない。
航空事故といえば、今朝のニュースでスペイン空港で離陸失敗の為45人が死亡している。
⇒航空事故:スペインの空港で離陸失敗、45人死亡 滑走中、左エンジン出火か(8/21) この一ヶ月間を見ただけでも航空事故は二件も発生している。 | |
⇒航空事故:国道に小型機墜落、2人けが--大阪・八尾の市街地(8/19) | |
⇒航空事故:小型機墜落、1人重体 長崎空港離陸直後(7/27) 沖縄に限って見ても、去年はこんなことがあった。
「ヘリ事故」を再発させないように、学生たちが運動を起こすことに異論はない。 だが、イデオロギーを前面に出しすぎると、かえって逆効果にもなりかねない。 「ヘリ事故」を「原爆遺構」とを同レベルで扱おうという運動があったが、これは明らかに行き過だ。 |
「航空事故」と、日本国民を無差別に殺害した「大虐殺」とを、
同じ扱いにしては原爆被害者に礼を失する行為だと書いた。
◆ これに対して、8月10日のエントリーで次のように書いた。 <沖国大構内に墜落した米軍ヘリコプターの油煙跡の残る壁を保存する運動には理解も出来る。 だからと言って、幸いにして一人の死傷者も出なかった事故の“壁”と、死者数10万にも及ぶ広島、長崎の原爆遺跡とを同列に扱う神経を疑う。 基地被害を訴える余り「事故」と「大惨劇」を同列に扱うことは広島、長崎の被爆者に礼を失すると言うものだろう。 原爆遺跡と沖国大の“壁”を実際に見た者として、その余りにも大きな“意味”の差に、この文章をコラムとして報じる琉球新報に怒りさえ感じる。>原爆遺構と沖国大の“壁” さらに言えば「大惨劇」ではなく、アメリカによる「大虐殺」と言った方が正しい。 ヘリ事故も原爆投下も主体はアメリカだが、ヘリ事故の操縦士は事故を起こす意思はなく、ましてや「加害の意思」などなかったはずだ。 ところが原爆投下機の操縦士は明らかに「加害・虐殺の意思」で原爆を投下をしている。 ここで再び言おう。 一米兵の起こした「交通事故」と人類が犯した最大の罪である「原爆投下」を同列に扱うような「ヘリ事故跡保存運動」は原爆被害者を冒涜することになる。 ■「抗議集会」は辺野古の「プロ市民」に向かって行え■ 何度も繰り返すが「住宅密集地に隣接する普天間基地が危険である」ということに異論はない。 ジュゴンのことを心配する前に、 まず危険なモノはとりあえず移転させるのが、 人命を考えた緊急の優先順位だ。 だとしたら沖国大の「抗議集会」拳を突き出す相手は、辺野古でピケを張る「プロ市民」集団ではないのか。 ◆ ■主客転倒の目取真氏の移設論■ 昨日のタイムス文化欄に「沖国大ヘリ墜落事故」特集の一環として目取真俊氏が寄稿している。 同氏の論調からいって想像のつく内容だが、見出しだけで対応させてもらうと、普天間基地が住宅密集地に隣接しており毎日が「今も危険の真下」に勉学や生活をし「住民・学生の怒りの声」があるのなら、危険回避のためには取りあえず次善の策をとるのが「命どぅ宝」の精神ではないのか。 そこを無視して目取真氏は、辺野古移設を主張する県知事を非難してこう述べている。(いずれも目取真論文の見出し) 「県内移設固執」 「問われる政治家の責任」 「ベターは虚構」 人命の関わる緊急を要する懸案に、自己のイデオロギーを絡ませ、「ベターは虚構」とし、ひたすら「ベストを要求する」目取真氏こそ、事故が起きた場合の責任を問われるべきであろう。 危険地域にいる学生・住民の生命の安全を無視し、「ベターは虚構」と断じる目取真氏の論はイデオロギーで思考停止した主客転倒の論である。
ヘリ墜落3年 決意新た【写真】 沖縄タイムス沖国大の減り墜落事故跡を、原爆遺跡やゲルニカの壁絵に並ぶ戦争の遺跡にしようと言う運動がある。
⇒「ヘリ墜落」は事故であり、「攻撃」ではない
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