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梅澤元隊長は、1987年(昭和62年)3月26日、座間味村の慰霊祭に初めて参加した。
そのとき問題の「侘び状」が書かれるのだが、そのときの状況を栗原佳子著『狙われた「集団自決』(社会評論社)から引用する。
同書は「集団自決訴訟」の被告応援団の目取真俊氏が推薦するくらいだから、自ずとその内容も想像つくが、
取材相手が自決命令を下したとされる宮里盛秀助役の親族であることを考慮に入れても参考になる。
⇒書評『狙われた「集団自決」』
著者の栗原氏は、目取真ブログによると、次のように紹介されている。
《著者の栗原氏は上毛新聞社、黒田ジャーナルを経て、現在はフリーのジャーナリストとして大阪を活動拠点に「新聞うずみ火」の発行に携わっている。大江・岩波沖縄戦裁判では第一回から傍聴し、同裁判の支援連絡会の世話人としても活動してきた。》
著者の栗原氏が取材した宮里芳和氏は、
琉球新報の連絡員をしながら平和ガイドをし、集団自決論争では公平を装いながら、一方では沖縄タイムスとも連絡を取り合って、島に来る保守系取材者の情報を沖縄タイムスへも流すというスパイ的活動をしている人物である。
さらに親族関係を言えば、宮里芳和氏は自決命令を出したとされる助役の宮里盛秀氏の親族であり、当然盛秀氏の実弟であり「侘び状」を書いた宮村幸延氏の親族でもある。
栗原氏の取材記事は、「親族の証言」ということと、本人が係争中の裁判の支援世話人であることを念頭に置いて読んでいただきたい。
「親族の証言」を何の疑いもなく採用したのも、この裁判の特徴である。
<●・・・兄二人の無念
春子(宮平春子ー引用者注)さんと会ったのは宮村肇さんが営む民宿だった。 座間味港に近い、島のメインストリートにある。 ここで1987年3月の「念書」(「侘び状」-引用者注)事件が起きた。 梅澤さんが、肇さんの父である宮村幸延さんを泥酔させて、一通の「念書」を書かせたというものだ。 春子さんは「一番悔しいのはこのことですよ。 盛秀兄さんだけじゃなくて、幸延兄さんまで。 きょうだい二人、こんなふうにされて、行けるもんなら大阪に行って、裁判官に直接訴えたい」と語気を強めた。 「集団自決」から42年めのことだった。 1987年3月26日、村主催の慰霊祭に、元戦隊長の梅澤さんが戦後初めて参加した。(略)
芳和さんによると、このとき慰霊祭の夜の懇親会で初めて梅沢さんと話をしたという。梅沢さんは、隊長命令だと報じられたことで家族にも戦争犯罪者と言われていると、苦しい胸の内を語った。 そのため、芳和さんは、「梅澤さんの責任ではない、戦争がいけなかった、あなたのことを恨んでいる村民はいない」という主旨の話をした。 梅沢さんはとても喜び、「家族にもそれを話してほしい」と言った。 芳和さんは梅澤さんの申し出に応じ、近くにあった公衆電話で梅澤さんの妻と話をしたという。 妻も喜んだ。 「これで戦後処理がいいかたちでできたら」と芳和さんも安堵したという。
「それから、翌々日の朝九時ごろでした。 民宿の一階のマチャグワー(雑貨店)いつも店番をしている幸延おじさんがいません。 奥をのぞくとおじさんと梅澤さん、ほかに男の人が二人いて、おじさんは梅澤さんの前で何か書いていました。 横にお酒があって、一人の男の人は中腰になって上から見ていて、もう一人は後ろからカメラで撮影していました」
それから一か月後のことだった。 「幸延を呼んでこい!」。 当時の田中登村長の激しい剣幕に気圧されるように、芳和さんは慌てて幸延さんを呼びに行った。
「村長は『お前は、慶良間戦も知らんのに、あんなこと、どうして書くか!』と、おじさんを怒鳴りつけたのです」
4月18日付けの神戸新聞に《座間味村の集団自決の命令者は助役だった 遺族補償得るため “隊長命令”に》、さらに23日付け東京新聞でも《大戦通史 勇気ある訂正》と大きく報じられていた。
いずれも、幸延さんは匿名扱いだが、「集団自決は部隊長の命令ではなく、戦時中の兵事主任兼役場助役だった兄の命令で行われた。 弟の私が遺族補償のためやむをえず隊長命令として補償を申請した」と「親書」を寄せた、という内容になっている。
幸延さんは遺族年金のための業務を長く中心的に執り行い、島の人からの信望も厚かった。
芳和さんは「おじさんは、梅澤さんから『家族にも戦争犯罪者と言われて苦しんでいる。 家族にしか見せないので書いてほしい」と頼まれ、やむなく書いた、と泣きながら説明していた」という。>
*
引用文の冒頭に出てくる宮平春子氏は、宮村幸延氏の妹であり、宮里芳和氏も含めて全員が親族である。
彼らは軍命を出したとされる宮里盛秀助役の為に「軍命を下したのは梅澤隊長である」と「親族の証言」をする点では全員一致している。
さらに宮平春子氏は『母の遺したもの』の著者宮城晴美氏が法廷証言のわずか一か月前に母の証言を踏みにじる根拠となった「重要証言」をした人物である。
琉球新報がその証言を掲載しているが、どう読んでも本人が直接軍命を聞いたというのではなく、盛秀氏が父盛永氏に話したのを父から聞いたという「伝聞のその又伝聞」である。
>おじさんは、梅澤さんから『家族にも戦争犯罪者と言われて苦しんでいる。 家族にしか見せないので書いてほしい」と頼まれ、やむなく書いた、と泣きながら説明していた
芳和氏の「侘び状」作成時の目撃証言や、上記証言を読む限り、「泥酔云々」は苦し紛れのウソであることが分かる。
また宮村幸延氏は「侘び状」を書く前、梅澤氏の妻に電話をして「侘び状」と同じ内容のことを伝えているが、この行為も泥酔していたら考えられないことである。
2007年7月7日
「生涯忘れることができないことをなくすのはおかしい」と語る宮平春子さん=6日、座間味コミュニティーセンター
「集団自決」のあった座間味島を視察で訪れた県議会文教厚生委員会の委員らに対し、座間味村阿佐の宮平春子さん(80)は6日、当時助役を務めていた兄の宮里盛秀さんが米軍の上陸が目前に迫った時、父の盛永さんに「軍から玉砕するように言われている」と伝えていたことを証言した。宮平さんは教科書からの「集団自決」の日本軍関与削除について「あの悲しみ、苦しみは私にとって一生涯忘れることができない。それを(教科書から)なくすのはおかしいのではないか。戦があったら悲しいし、苦しい。平和である教育をしてほしい」と訴えた。
米軍の激しい艦砲射撃があった1945年3月25日。春子さんは盛永さんや親類ら約30人と壕に避難していた。夜になって盛秀さんが壕に来た。盛秀さんは、父の盛永さんに「軍から米軍が上陸するのは間違いないので敵の手に取られないように玉砕するよう命令があった。だから潔く死のう」と話したという。
びっくりする盛永さんに、盛秀さんは「いろいろ生きている間は親孝行できなかったけどあの世に行って孝行する」と伝えた。
春子さんは「兄が4歳から7歳までのわが子3人を抱きしめ、涙を流しながら『こんなに大きく育てて、軍の命令でなくすというのは生まないほうがよかったのか。お父さんが一緒にいるからね』と語り掛けていた。今でもあの姿を思い出すと涙が出る」と述べ、兄の無念さを思い出し、言葉を詰まらせた。
盛永さんは、盛秀さんに最後の別れとして水杯を勧め交わしたという。
集合時間の午後11時半に合わせ、春子さんらは盛秀さんに続いて集合場所の忠魂碑に向かった。しかしそこに照明弾が落ちたことを知らされ「集団自決」で多くの犠牲者が出た産業組合壕に移動した。
組合壕にはすでに多くの住民がおり、中に入ることができなかった春子さんらは生き延びたが、壕の中にいた盛秀さん家族はそこで「集団自決」で亡くなった。
教科書検定問題については「みんな苦しんで犠牲になった。(記述を)なくしてはならない」と訴えた。
◇
原告側はこの「親族による伝聞証言」である宮平春子氏の証言に基づく宮城晴美氏の証言を完膚なきまで論破するのであるが、常識欠落の裁判官は、ことごとくこれを退けている。
以下は原告側サイトによる論告の引用です。(太字強調は引用者)
(5)宮平春子の証言について
宮城晴美は、これまで隊長命令については、証拠上も自らの直感においても存在しなかったという立場を明確にしてきたのだったが、平成19年6月に宮平春子の新証言なるものに接した後に「あったかなかったわからない」との認識に変わったと証言した。
しかし、宮城晴美の証言は、宮平春子の新証言なるものに対する根本的な疑問を提起することになった。
すなわち、前記のとおり宮城晴美は、過去にも宮平春子から綿密な聞き取りを行い、これに基づいて『母の遺したもの』の白眉ともいうべき場面を記述している。自決の覚悟を固めた助役の盛秀が、幼い子供達を膝間付いて抱擁し、盛永に、十分な親孝行ができなかったことを詫び、水杯を交わして壕の外に出て、忠魂碑前に向うも途中で引き返し、結局、自決を免れたシーン(甲B5 p216~219)は、宮平春子の証言に基づくものである(調書p43~47)。
これだけの場面を描くのには、相当の聞き取りを要することが推測される。しかも、その場面には、盛永の『自叙伝』から「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから、着物を着換えて集合しなさい」との盛秀の言葉が挿入されており、そこから宮城晴美が、予め『自叙伝』を読み込み、そこに記載された盛秀の言葉を強く意識していたことが推認できるのであり、宮平春子からの聞き取るにあたっては、このことについて宮城晴美が質問するのを忘れていたなどということはありえない。
晴美は、この点を問う反対尋問に対し、聞き取りが春子の作業中になされたとか、他の仕事に追われて忙しかったと陳弁するが、『母の遺したもの』の白眉ともいうべき感動的場面、しかも《盛秀助役命令説》をうち出すにあたって最も重要な場面を書くにあたってなされた取材が、そうした杜撰なものであったとは到底信用できるものではない。
すなわち、『母の遺したもの』に書かれた盛秀が壕に戻ってきてから盛永と水杯を交わし、壕を出て忠魂碑前に向う場面が、宮平春子に対する取材に基づくものであるという晴美の証言は、相当の時間をかけて綿密になされたはずの取材のなかで宮平春子は、陳述書に記述された「軍の命令がすでにでた」との内容の発言はしなかったことを意味しており、春子の新証言なるものの信用性に対する最大の弾劾である。
更に、その証拠価値については、盛永の『自叙伝』(乙28)における盛秀の言葉との齟齬のことを吟味しなければならない。『自叙伝』では、「軍」という主体がなく、盛秀の「今晩 -中略- 命令があるから」という予想を語ったにすぎない(結局、その後、出る予定だった命令が、現に出されたという記述はない)。春子の陳述書(乙51)では、「軍から」、既に「命令で -中略- 言われている」とされている。
そのときの言葉は、盛永は盛秀から直接告げられており、春子はそれを傍観していたに過ぎない。そのときの盛秀の言葉が、春子のいうようなものであったとすれば、そのことを直接聞いていた盛永が書き漏らすはずがないのである。
軍命令があったとする春子の新証言は、60年もたった後に突如出てきたものであり、しかも盛秀が盛永に語るのを傍観したというものである。しかも、これまで晴美の綿密な取材のなかでも一言も話されたことがなかったのであるから、春子の証言自体、その信用性は甚だ疑わしいといわざるをえない。
さらに指摘すれば、宮城晴美は、盛秀の言ったという言葉についての盛永の『自叙伝』の記述も、宮平春子の新証言も「同じことが基本的に言われている」との旨証言した(宮城調書p49)。
そうなのである。宮平春子の新証言に新味はないというべきであろう。
宮城晴美は、『母の遺したもの』において「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから」という盛永の言葉を引用しており、その言葉を踏まえたうえで、原告梅澤が自決命令を出したことを否定し、かつ、命令を出したのは助役の盛秀だったと判断したのである。
春子の新証言なるものは、その信用性においてもその証拠価値においても甚だ問題を抱えるものであり、それをもって軍命の証拠だということができないことは明かである。
(6)まとめ
結局、宮城晴美の証言は、彼女が丹念に積み重ねてきたライフワークともいうべき調査研究の成果や、秘められた真実を世に広く明らかにし社会的にも非常に評価の高い自著『母の遺したもの』の歴史的意義、周囲を敵に回してでも原告梅澤の社会的名誉を回復せねばならないと決意した母初枝の遺志などを、ことごとく否定するものであった。
種々の政治的圧力に屈しての不本意な証言であったろうとは想像するが、近年までの、宮城晴美の歴史家としての誠実な足跡、業績を顧みるとき、その価値を、今回の証言をもって自ら貶める結果となったことは、強く惜しまれるところである。
沖縄戦「集団自決」の謎と真実 |
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