宮村幸延氏の「詫び状」について、常識ある人間なら当然抱くはずの疑問を、KOBAさんと涼太さんのコメントで代表させていただきました。
「酔った状態で書いた」なら判読しがたい筆跡になっていると思うのですが、誰が観ても判読可能な筆跡なら、「酔って書いた」というのは無理があるのではないでしょうか?
裁判官はどういう判断で、「詫び状」を「泥酔した状態で書かされた」と判断したのでしょう?
*
Unknown (涼太)
2009-08-22
<何より信じられないのは、酒を飲まされて詫び状を書いた。です。そしてそれを認めた異常な判決です。もしそんなことが認められたら、契約社会そのもが崩壊します。人を殺しても酒を飲んで覚えていない。婦女暴行しても酒を飲んで覚えていない。こんな言い訳が通用するような判決です。>
◇
自筆押印の書類を、「泥酔して書いたから」と否定されたら、涼太さんのご指摘を待つまでもなく契約社会の屋台骨が崩壊してしまう。
署名捺印の借用書を差し入れて、借用書も「泥酔していたので記憶にないから無効」で通ってしまうわけである。
裁判官は社会常識に欠けるので、一般社会人の常識を判決に導入するのが「裁判員制度」であるとすれば、署名押印の書類を、泥酔を理由に無効とする裁判員は一人もいないだろう
さて、問題の「侘び状」に関連する部分を「大阪地裁判決 文」から抜粋して引用する。
引用は当日記に時折「一太刀」を浴びせておられni0615さんのサイトを利用させて頂いたが、立場こそ違っても資料保管・整理の労力には謝意を表しておきます。(太字強調は引用者)
なお、「大阪地裁の判断」で出てくる、梅澤氏作成と思われる類似文面のもう一枚の「侘び状」とは、実際に詫び状を書く際に良く生じる例である。
口頭で謝罪した経験はあっても、侘び状を書いた経験のある人は少ない。
そこで、「あなたが見本を書いたら、それに倣って書きます」と見本を要求する例が多い。 ただ、その見本を破棄するのが普通だが、梅澤氏は迂闊にもその見本が相手方の手に渡るのを気にしなかったようだ。
裁判官は、世間ではよくある「見本文」の存在でもって、「侘び状」の信憑性を否定する重要な根拠にしているが、それこそ裁判官の社会常識が欠落しているという証左である。
以下引用。
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◆被告らの主張
宮村幸延の証言について
宮村幸延は,「証言」(甲B8)を作成し押印した記億はなく,宮村幸延が作成し押印したものではないと述ぺている(乙17及び18)。
宮村幸延は,その経営する旅館に宿泊した原告梅澤から,昭和62年3月26日,
「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく,家内に見せるためだけだ。」
と迫られたが,これを拒否した。同月27日,原告梅澤が同行した2人の男が宮村幸延に泡盛を飲ませ,宮村幸延は泥酔状態となった。宮村幸延は,この時に「証言」を書かされた可能性があるが,そうだとすれば,「証言」は仕組まれたものであり,宮村幸延の意思に基づくものではないことは明らかである。
宮村幸延は,座間味島の集団自決があった当時,山口県で軍務についており,集団自決の経緯について証言できる立場になかったし,また,実兄である盛秀助役が自決命令を出したなどと証言するはずがない。
d 宮村幸延の「証言」
(a) (親書の手交)*
座間味村の遺族会長であり,当時の援護係として「座間味戦記」を取りまとめた宮村幸延は,原告梅澤に対し、昭和62年3月28日,「証言」と題する親書(甲B8)を手交した。この親書には,「昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず ママ 隊長命として申請した,ためのものであります」と記載されている。
宮村幸延の談話は,昭和62年4月18日付けの神戸新聞にも記載されている。
(b) (原告梅澤が語る経緯)*
被告らが主張する「証言」の作成経緯は全く理由がない。
原告梅澤は,合同慰霊祭が行われた昭和62年3月28日,集団自決に関する座間味村の見解を尋ねるぺく,村長の田中登に会ったが,補償問題を担当していた宮村幸延に聞くように言われたため,1人で宮村幸延を訪ねた。原告梅澤と宮村幸延は,面識があったため,再会を懐かしんだ。
原告梅澤が訪問した理由を話すと,宮村幸延は,突然謝罪し,援護法を適用するために軍命令という事実を作り出さなければならなかった経緯を語ったのである。
「証言」(甲B8)は,このような経緯で宮村幸延が述ぺたことを文書にしてほしい旨,原告梅澤が依頼し,宮村幸延自身が一言一言慎重に言葉を選んで作成したものである。決して,原告梅澤が原稿を書き,宮村幸延に押印だけさせたものでもないし,泥酔状態の宮村幸延に無理矢理書かせたものでもない。原告梅澤が原稿を書いたのであれは,末尾宛名の「裕」の字を間違えるはずがないし,宮村幸延が泥酔状態であれば,筆跡に大きな乱れが生じるはずである。
また,宮村盛永の息子である宮村幸延は,集団自決当時,山口県にいたとしても,その後,村に帰ってから,集団自決の真相を知ったことは明らかであり,「証言」を作成する立場になかったとの被告ら指摘も当たらない。
また,神戸新聞の中井和久記者は,宮村幸延に対する電話取材を確かに行い,記事記載のコメントも確かにもらったと述べている(甲B34)。神戸新聞が,記事中で「Aさん」とされている宮村幸延のコメントを捏造する理由はない、宮村幸延から神戸新聞に対し抗議があったこともない。
◆大阪地裁の判断
(ア)(「証言」の記述)*
盛秀助役の弟である宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)には、
「昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(*兼)村役場助役の盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります 右 当時援護係 宮村幸延 」 との記載がある。
(イ)(経緯から真意かどうかの疑問)*
しかしながら,宮村幸延は, 「別紙証言書は,私し(宮村幸延)が書いた文面でわありません」 との書面(乙17)を残しているほか,証拠(甲B5,33,85,乙18,41,宮城証人及び原告梅澤本人)によれば,昭和62年3月26日の座間味村の慰霊祭に出席するために座間味島を訪問した原告梅澤は宮村幸延の経営する旅館に宿泊したこと,宮村幸延は,原告梅澤から,昭和62年3月26日, 「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく,家内に見せるためだけだ。」 と迫られたが,これを拒否したこと,同月27日,原告梅澤が同行した2人の男が宮村幸延に泡盛を飲ませ,宮村幸延は泥酔状態となったこと,その際,原告梅澤は,宮村幸延に対し,自らが作成した 「昭和二十年三月二十六日よりの集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく助役盛秀の命令であった。之は遺族救済の補償申請の為止むを得ず役場当局がとった手段です。右証言します。昭和六十二年三月二十八日元座間味村役場事務局長宮村幸延」 と記載された文書(甲B85)を示したこと,宮村幸延は,これを真似て前記昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)を作成したことが,それぞれ認められる。
こうした事実によれば,宮村幸延の昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲b8)が,その真意を表しているのかは疑問である。
(ウ)(証言間で異なる梅澤証言は措信しがたい)*
原告梅澤は,その陳述書(甲B33)で,宮村幸延が前記「証言」と題する親書(甲B8)を,その意思で作成したかのように記載する。そして, 原告梅澤の陳述書(甲B33)では, 「私は宮村幸延氏に,是非とも今仰った内容を一筆書いて頂きたいとお願いした。宮村幸延氏はどのように書いたら良いでしょうかと尋ねられたので,私は,お任せします,ただ,隊長命令がなかったことだけははっきりするようお願いしますとお答えしました。」
「大手の清水建設に勤務され,その後厚生省との折衝等の戦後補償業務にも携わっていた経歴をお持ちの宮村幸延氏は,私の目の前で,一言々々慎重に『証言』(甲B8)をお書きになりました。」 と記載されている。
しかし,そのような作成状況であれば,前記「証言」と題する親書(甲B8)と酷似する文書(甲B85)が存すること自体不自然で,原告梅澤の陳述書(甲B33)は,この部分で措信し難いし,原告梅澤が沖縄タイムスの新川明に前記「証言」と題する親書(甲B8)の作成状況として語った内容(乙43の1及び2・5頁)とも異なり,措信し難い。すなわち,原告梅澤は,新川明に対しては, 「今度,忠魂碑を,部下の切り込んだやつの忠魂碑を建てるために今度行った。その時に聞いたら,彼はまあ,酔ってないとは言いませんが,彼がそういう風に私に 『本当に梅澤さん,ありがとうございました。申し訳ございません』 とこうやってね,手をこうやってね,謝りながら書いたんですよ。
『一筆書いてくれんか』 って。
『いやー書くのは苦手だけれどもなあ』 と。
『だってあんたは役場におった人でいろいろ文書も書いたろうと。わかるだろう』 と。
『どういうふうな書き出しがいいでしょうか』 と言うから,
『そうか』 と,
『書き出しはこれぐらいのことから書いたらどうですか』
と私は2,3行鉛筆で書いてあげました。そしたら彼は
『あ,分かった分かった,もういい。あとは私が書く』
と言って,全然私が書いたのと違う文章を彼が書いてああいう文書をつくったわけです。まあ,よく聞いてくださいよ。それで結局私は 『ありがとう』 と。
『ついでに判を押してもらえたらなあ』 と言ったら,彼は商売しておるから店の事務所の机の上から判を持ってきて押して
『これでいいですか』 と。
『ありがとう』 と。
『これはしかし梅澤さん,公表せんでほしい』
と言った。
『公表せんと約束してくれと』 と。
私はそれについては
『これは私にとっては大事なもんだと。家族や親戚,知人には見せると。しかし公表ということについては,一遍私も考えてみよう』 と。
公表しないなんて私は言っておりませんよ。やっぱりこれはですね,沖縄の人に公表したら大変だろうけれども,内地の人に見せるぐらいは,しらせたいというのが私の気持ちだから。そういうふうなことで別れた。」
「あの人はね,まあ言うたらやね,毎日,朝起きてから寝るまで酒を続けています。」 と語っており,この新川明に語った作成状況と原告梅澤の陳述書(甲B33)の前記記載内容は異なっており,原告梅澤の陳述書(甲B33)の記載に疑問を抱かせる(なお,原告梅澤の陳述書(甲B33)には,沖縄タイムスの新川明との対談の経緯等についての記載もあるところ,この陳述書(甲B33)が被告らからの反論を踏まえて検討して書かれたものであるにもかかわらず(同1頁冒頭),前記新川明との対談の経緯等は,乙第43号証の1及び2に照らして措信しがたく,この陳述書(甲B33)全体の信用性を減殺せしめる。)。
また,前記のとおり,証拠(乙43の1及び2)によれば,原告梅澤が沖縄タイムスの新川明に語った前記「証言」と題する親書(甲B8)の作成状況では,宮村幸延がこれを酔余作成したことを認めている(乙43の2・5頁)。
(エ)(宮村幸延の集団自決時不在と座間味村の回答)*
そして,原告梅澤が沖縄タイムスの新川明との会談で認めていたとおり(乙43の1及び2),宮村幸延は,座間味島で集団自決が発生した際,座間味島にいなかったのであって,前記「証言と題する親書(甲B8)にあるように, 「昭和20年3月26日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の盛秀の命令で行われた。」 と語れる立場になかったことは明らかで,この点でも前記「証言」と題する親書(甲B8)の記載内容には疑問がある。
沖縄タイムスが,昭和63年11月3日,座間味村に対し,座間味村における集団自決についての認識を問うたところ(乙20),座間味村長宮里正太郎は,同月18日付けの回答書(乙21の1)で回答したことは,第4・5(2)ア(ア)mに記載したとおりである。座間味村長宮里正太郎は,前記回答書(乙21の1)で 「宮村幸延氏も戦争当時座間味村に在住しておらず,本土の山口県で軍務にあった。」 として,その記載に疑義を呈するとともに,
「遺族補償のため玉砕命令を作為した事実はない。遺族補償請求申請は生き残った者の証言に基づき作成し,又村長の責任によって申請したもので一人の援護主任が自分勝手に作成できるものではな」い,「当時の援護主任は戦争当時座間味村に住んでなく,住んでいない人がどうして勝手な書類作成が出来るのでしょうか。」 とも記載している。
(オ)(まとめ)*
こうした事実に照らして考えると、宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)の記載内容は、
「昭和20年3月26日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(*兼)村役場助役の盛秀の命令で行われた。」
との部分も含めて措信しがたく,併せて,これに関連する原告梅澤の陳述書(甲B33)も措信し難い。
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