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※中間部に【追記】しました。
ご参照ください。
日本統治時代の台湾で日本人として生まれ、日本人として教育を受け、日本兵として戦った 楊馥成(ようふくせい)さんら三人の台湾籍元日本兵が、日本政府を相手取って日本国籍の確認を求める訴訟を行った。
大阪で行われた記者会見には多くのマスコミが押しかけ、予定の1時間を大幅に超過するほど注目を浴びる訴訟だった。
以前、台湾と同じように日本統治下の韓国人が、徴用工問題で提訴。日本政府にお補償金を求めている。
しかし、台湾と韓国では同じ日本統治下ではあっても、似て非なるものであり、根本問題が異なる。
韓国人による戦後補償の請求権は1965年の日韓基本条約の関連法で既に決着済であり、請求は韓国にすべきであり日本への請求はお門違い、というのが日本政府の立場。
一方、台湾人は戦後、日本国籍を喪失したため政府補償を受ける資格を失っていた。(※注)
戦後台湾に帰国した台湾人元日本兵約200人は、国民党政権下の台湾で捕虜監視などで罪に問われたりBC級戦犯で有罪判決を受けている。
台湾人と韓国人では同じ日本人として戦っていながら公平性を著しく欠くとして昭和52年から、台湾人元日本兵が日本政府を相手取り、平等な補償を求めて起こした訴訟は最高裁まで争われたものの、国籍が壁となり訴えは退けられた。
(※注)
ところで、サンフランシスコ平和条約は第2条b項で「日本国は、台湾及び膨湖諸島に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する。」としたが、放棄された台湾の主権がどこに帰属するかは明確にされず、同条a項や第21条のいわゆる「朝鮮条項」のように、直接独立が認められることもなかった。
4 最高裁昭和37年12月5日大法廷判決
台湾人男子と婚姻した内地人女子につき、外国人登録法の適用に関し、台湾系日本人の日本国籍の離脱が争点となった事案につき、最高裁大法廷判決昭和37年12月5日・刑集16巻12号1661頁は、日華平和条約第2条の発効により、日本国籍を離脱したとするが、日華平和条約では、サンフランシスコ平和条約に基づき、台湾、膨湖諸島、新南群島および西沙群島の一切の権利や請求権を放棄することが改めて承認されたが、放棄された台湾の主権がどこに移ったのかは明らかにされていない
今回の台湾籍元日本兵の訴訟について、保守系団体の中にも反対するする意見がある。
理由は、韓国人の元徴用工の保証金請求と台湾人の元日本兵の訴訟を混同して、一度訴訟で敗訴した問題を「金が欲しさ」のため、ぶり返した訴訟と誤解されたからだ。
ところが原告の楊さんら三人の原告は、「金が欲しいのではない」「最後は日本人として死にたい」という切実な願いから提訴したと明言している。
その証拠に今回の訴訟では「日本国籍確認の請求」だけで、「戦後補償」は求めていない。
これで一部の保守派の反対も誤解が解けたと確信する。
「最期は日本人として」 歴史に翻弄された97歳元日本軍属

日本統治時代の台湾で生まれ育った台湾人3人が日本国籍の確認を求めて起こす訴訟に、原告として名を連ねる農業技術者の楊馥成(ようふくせい)さん(97)。
日本人として育ち、先の大戦では軍属として食料確保などに従事した。歴史の波に翻弄された人生だが、日本人としてのアイデンティティーは見失ったことはない。「最期は日本人として死にたい」と願うだけだという。(矢田幸己)
大正11年、旧台南州の農家に5人きょうだいの次男として生まれた。旧日本名は大井満。姓は生家の地名にちなみ、名には井戸の水が満ちるように、との意味が込められた。
学校では、日本語を主とする初等教育を受け「日本人の先生によくかわいがってもらった」。本土と同じく「修身」の科目があり、幼少期から日本人としての素養を身につけた。
台湾から夏の甲子園大会に出場し、準優勝を遂げたことで知られる嘉義(かぎ)農林学校(現・国立嘉義大学)を経て、州の農林技士に。ある日、新聞広告の「軍属募集」が目に留まった。外地の台湾では当時、特別志願による募集があり、「いずれ軍に行くのだから」と応募。50人枠に約千人が殺到する中、合格した。
戦時中は第7方面軍の補給部隊に配属。食料確保のため、シンガポールで10ヘクタールもの牧場を耕し、野菜を作るなどした。「軍属とはいえ、日本のためを思って働いた」
終戦後、台湾へ復員し、農林関係の仕事を再開した。しかし、中国大陸から台湾へ移った蒋介石・国民党政権の異端分子との嫌疑をかけられ、1950年8月に投獄された。獄中生活は7年に及び、激しい拷問で奥歯が2本欠けた。「私は罪を認めず耐え続けたが、多くの同胞がいわれなき罪で虐殺された。貴重な青春時代を奪われ、灰色の7年だった」
日本政府は昭和27年、国民政府との間で日華平和条約を締結。日本の最高裁判決によると、同条約の発効(同年8月)をもち、台湾出身者は日本国籍を失ったとされる。祖国に見放されてしまったとの喪失感と「母国を持ちたい」との思いが募る。
先の大戦で日本統治下の台湾から戦地へ赴いた日本軍人・軍属は20万人以上。うち約3万人が命を落としたとされる。日本統治は功罪両面だが、独裁政権による戦後の戒厳下とは「比べるまでもない」とこぼす。
歴史の波に翻弄された97年の人生。それでも、日本人としてのアイデンティティーは忘れたことがない。「過去は取り戻せない。ただせめて、最期を日本人として迎えることができれば」と願っている。
★
原告側代理人の徳永信一弁護士(大阪弁護士会)は「これまで国は戦後、中国との関係に遠慮して台湾の現実に目をそむけ続けてきた。今回の訴訟は切実な人権問題。日本人のアイデンティティーを持つ人の声に真摯(しんし)に耳を傾けるべきだ」と話している。
きょう(10月25日)午後7時から放映のチャンネル桜「沖縄の声」では特別番組を企画。
三人の原告の最長老である楊馥成さん(98)をゲストにお招きした。
楊さんは、「裁判を通じてこういう歴史があったことを日本国民に分かってもらいたい」と訴えている。
楊さんの動画⇒ http://www.youtube.com/watch?v=lB3evM9J09g
訴状によると、原告は楊馥成(ようふくせい)さん(97)、許華杞(きょかき)さん(85)、林余立(りんよりつ)さん(92)の3人。
いずれも日本の領土だった台湾で生まれ、戦中も台湾出身の日本人として過ごした。
日本政府は、昭和27年4月のサンフランシスコ平和条約発効をもって台湾などの領土権を放棄。
また37年12月の最高裁判例は、27年8月の日本と中華民国(台湾)との間の日華平和条約発効により、台湾系日本人は日本籍を喪失した、としている。
原告側は「何人もほしいままに国籍を奪われない」とした国連の世界人権宣言などに照らし、「本人の同意なしに国籍を剥奪されることはない」と主張。「今も生まれたときと変わらない日本人であり、日本国籍を持ち続けているといわざるを得ない」と訴えている。
※きょう(10月25日)午後7時から放映のチャンネル桜「沖縄の声」で台湾籍元日本兵日本籍確認訴訟原告の一人である楊さんをゲストにお招きして日本人としての誇りを語っていただきます。
【動画】【沖縄の声】日台の絆を深める交流~保安堂に見る日台の歴史~/「最期は日本人として」~台湾人日本国籍確認請求事件訴訟~[R1/10/25]
【追記】
ブログ大師小100期生集まれ!より引用
台湾籍日本人の国籍復帰と戦後補償
前のエントリーでも『台湾之塔』の建立に尽力された「日本台湾平和基金会」についてメモしておきましたが、やはり想像したとおり、この団体がこの件でも活動していらっしゃるらしく、楊 馥成(よう・ふくなり)氏は現在、沖縄に住み、この会の副会長もなさっているそうです。
前回書いたように、日本人として生まれ、日本軍人として国のために戦った台湾の方々は、終戦と共に台湾では敵のために戦った国賊とされ、楊氏は7年間投獄、拷問も受けたそうです。
その後も続く国民党政権下で迫害されたため、中国で暮らしていたそうで、その間、朝鮮戦争で亡くなった日本人の供養のために墓地に桜を植える活動(※)などもなさっていたそうです。
つまり、楊氏はずっと日本人として生きてこられ、日本人として死にたいと、帰化申請もされていましたが、他の台湾籍日本軍属の生存者とともに、そのことを認めて欲しくて、現在、戦後補償の裁判の準備を進めているとのことで、それに関わっていらっしゃるのが、孔子廟訴訟の原告側弁護士のお一人、徳永氏、ということらしいです。
韓国の「慰安婦訴訟」や「(自称)徴用工訴訟」とは意味が全く異なるのです。
このあたりを勘違いされないよう、どこかの新聞が上手く報道してくれないだろうかと思っているのですが...
※番組では大連市の近くの瓦房店(がぼうてん/ワーファンティエン)の墓地に眠る日本人のために桜を植えた話が出てきました。画面に表示される新聞は鮮明ではないので細部が不明なのですが、お話と総合すると南満鉄道の付属病院で働いていた女性で、墓地に眠る日本人の供養をされていた方がいて、その方の遺志を受け継いだそうで、しかい、日本人ためだけに桜を植えるというわけにはいかず、墓地全体に5880本の桜を植えたということです。
場所は、「烈士陵園」(簡体字では「烈士陵园」)という墓地らしく、新聞記事に添えられた写真のキャプションは「人民解放軍兵士らと桜を植える楊さん」となっています。
下の画像は『NHKの偏向番組「Japanデビュー」1万人訴訟に見る、メディアに対する訴訟の難しさ』というエントリーに掲載したチャンネル桜の動画のキャプチャで(2009年頃/台湾)すが、一昔ほど前にはこのようなお年寄りが台湾にはたくさんいらしたのです。
台湾の鳳山紅毛港保安堂で供養されている日本人
今回、護国神社の春季例大祭に台湾から参加された方々がいらっしゃいました。この方達は、動画でも説明されるとおり、台湾沖で沈んだ軍艦の乗組員(145名)の内、9名の沖縄出身者を供養するために来沖されました。要するに、9柱の御魂(みたま)を沖縄に連れて帰ってきてくれたものです。
今後は保安堂と沖縄護国神社とで交流していきたいとのことです。
番組では詳しい説明は省略されていましたが、「保安堂」と呼んでいるのは、台湾で蓬(よもぎ)38号の英霊を供養してくれている「鳳山紅毛港保安堂」のことです。ここは、知っている人は知っているという場所で、前述のように日本人を祀ってくれているのですが、軍艦の模型がご神体と共に祀られていることで有名なのです。
動画のキャプチャ、中央左寄りに「蓬(よもぎ)38號(号) 艦長 高田又男」という文字が見えますが、上の模型の軍艦にも「38にっぽんぐんかん」という文字が見えます。
詳しい経緯は『日華(台)親善友好慰霊訪問団』のサイトにある「保安堂」の項に詳しいので、ここでは、この模型が作られるきっかけとなったエピソード部分のみを引用させて戴きました。(全文は上記リンク先でお読み下さい。)
戦後まもなくのことである。大東亜戦争時に沈没した大日本帝國海軍艦艇のある沖合いで漁をしていた漁民の網に2つの頭蓋骨が掛かった。漁民はその頭蓋骨を丁寧に引き上げ埋葬し、手厚く供養した。すると、それ以降、大漁が続いたため、昭和28年(1953)には保安堂を建設して祈りを捧げ、いつしか守り神として信仰を集めるようになった。
昭和43年(1968)、蘇現という年老いた漁夫が朝早く出漁したときのことである。その日は湿った空気が流れ込んで妙に蒸し暑く、つい船上で居眠りをしてしまった。すると、夢の中に弔われた2人のうちのひとりという男が現れた。「私は日本海軍38号哨戒艇の艦長だが、大東亜戦争で戦死した。ついては帰国したい。船を造ってもらえまいか」と告げた。
こうして平成10年(1998)、満艦飾の軍艦模型が完成した。全長2メートルほどの大型で、電源を入れると4つの砲台がくるくる回り始める。当時、日本海軍が持たなかったミサイルまで載せ、漁民たちが霊が喜ぶよう想像を凝らす姿が目に浮かぶ。船体には「にっぽんぐんカん」と記されて、御神体同様に安置されている。日本に帰れるようにとの思いを込めて造られたもので、漁民は海の安全や大漁を願って朝晩に祝詞として「軍艦マーチ」を流す。
【おまけ】
台湾籍の元日本兵と元軍属が訴え 「私たちを忘れないで」
日本による台湾統治時代に日本兵や軍属として、アジア・太平洋戦争に駆り出された「台湾籍元日本兵」4人を含む計25人が22日、慰霊と平和交流のため来沖した。90歳を超えた元日本兵らは激戦地に動員される一方、終戦後は財産が凍結され、経済的に追い詰められた。8万人以上の台湾籍元日本兵と12万人の軍属がいた記憶が薄れる中、元日本兵らは「国に翻弄(ほんろう)された私たちの存在を知ってほしい」と呼び掛けている。(特報・新崎哲史)
趙さんも飢えに苦しみ、森の中でヘビや虫を捕って食べた。病で歩けなくなった同僚は三八式銃の銃口をくわえ、足の指で引き金を引いて自殺した。
捕虜となり、台湾に戻ったが日本からの戦後補償もなく、多くの元日本兵が苦労する姿を見てきた。
「『日本のため』と尽くしてきたが戦後は放置された。インパールから生還した台湾人は今、20人弱ほど。私たちのことを忘れないでほしい」
廖淑霞さん(90)は上海の女子商業高校を卒業後、陸軍病院の従軍看護婦に採用された。南洋戦線で栄養失調から肺病を患った兵士の看護にあたった。
終戦後、台湾に戻ったが国民党政権が台頭。日本軍の協力者は迫害されると聞き、経験を隠して生きた。「誰にも頼れない。台湾も米軍に統治された沖縄も、アジアの孤児のようだ」
戦中の貯金は凍結されていたが、日本政府は90年代、物価変動に合わせた額の支払いを決定。しかし、2千円の貯金額は約20万円にしかならなかった。
一方、台湾など旧植民地の未払い貯金額は現在も40億円ほどあるといわれる。廖さんは「証明書がなかったり、高齢で引き出せないお金も多い。それを資金に、平和の礎のような慰霊碑を台湾に造り、私たちの記録を残してほしい」と訴えている。
【一筆多論】台湾人元日本兵への補償 河崎真澄
他方、捕虜監視などで罪に問われた台湾人元日本兵約200人もBC級戦犯で有罪判決を受けている。
公平性を著しく欠くとして昭和52年から、台湾人元日本兵が日本政府を相手取り、平等な補償を求めて起こした訴訟は最高裁まで争われたものの、国籍が壁となり訴えは退けられた。
それでも同じ日本軍の一員として戦場に向かった台湾人に、可能な限り報いたいと考えた人々がいた。62年9月、議員立法で「弔慰金」制度が作られ、平成4年まで総額約563億円が支給された事実がある。
日本でも台湾でも忘れ去られつつあるが、「戦後補償で成功した希有(けう)な例ではないか」と、台湾独立建国連盟の日本本部委員長を務める王明理さんは話す。
きっかけは、終戦を知らぬままインドネシアのモロタイ島に潜伏していたところを、49年12月に発見された台湾先住民出身で元日本兵のスニヨンさん(日本名・中村輝夫)の生還だ。
このとき未払い給与などの名目で日本政府から支払われたのは、わずか6万円ほど。義援金は集まったものの、この元日本兵より前に生還した横井庄一さんや小野田寛郎さんへの補償との落差や冷淡な対応に、義憤を感じた人物がいた。
台湾南部で生まれ、戦後の国民党政権による弾圧から逃れて日本に政治亡命していた明治大教授の王育徳氏だった。王明理さんの父だ。王氏は50年2月、「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」を結成し、事務局長として、署名集めや政府、議員らへの陳情、訴訟の支援に走り回った。
無償で協力した7人の弁護団や、戦地で台湾出身者と親しかった元日本兵、戦後生まれのボランティアら支援の輪も広がったが、さらに「縁」が味方した。
王氏が15年から17年まで学んでいた旧制台北高等学校のOBの存在だ。衆院議員だった有馬元治氏もそのひとりで、政府や国会などの調整を買って出た。
2審の東京高裁では偶然にも、王氏の台北高同級生が裁判長として現れた。
吉江清景氏だ。60年8月に吉江氏は、原告の訴えを退けるのはやむを得ないと司法上、判断したが、そこに異例の付言をつけた。
「控訴人が同じ境遇にある日本人と比べて著しい不利益を受けていることは明らか。外交上、財政上、法技術上の困難を克服、早急に不利益を払拭することを国政関与者に期待する」
この付言が62年の議員立法を後押しした、と王明理さんは考えている。台北高OBは台湾人の心情を理解していた。王氏は吉江氏の判断の翌月、心臓発作のため急死したが、その思いは関係者に引き継がれた。
台湾では元日本兵への補償問題で、「戦後の日本人は血も涙もない」と憤る声があった。確かに時期は遅すぎ、弔慰金も補償の範囲も決して十分ではない。
しかし、王明理さんによれば、台湾と外交関係のない中で、日本政府は日本赤十字社を通じた戦没者らの調査をキメ細かく行い、弔慰金の支払いでも努力を惜しまなかった。「日本人の善意を感じた」という。(論説委員)
現在日本があらぬ話で困っている多くは日本のお金を使ったものという馬鹿らしい状態だ。
許可している方から手を入れる必要があると思う。