狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

自衛隊は放送禁止用語!沖縄に浸透進む自衛隊 駐屯の歴史、検証意義を専門家はどう見るか

2021-04-04 07:11:58 | マスコミ批判

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

 
防人」の肖像 自衛隊沖縄移駐50年
 
 

一時は自衛隊反対の立場で、自衛隊と言う言葉自体を放送禁止用語にしたほど自衛隊憎悪の沖縄タイムス。

(【おまけ】参照)

自衛隊の成人式参加を拒否するのみならず、隊員のアパート賃借や夜間大学入学にさえ反対していた。

だが、最近では自衛隊を米軍並みに「出ていけ」と言う記事は少なくなってきた

米軍への憎悪で「米軍基地撤去」を叫ぶが自衛隊に関して一時ほど「自衛隊反対」では「オール沖縄」でさえ意見が分かれてきた。

右往左往しているのはデニー知事だけである。

きょうの沖タイ一面左トップ

 

[「防人」の肖像 自衛隊沖縄移駐50年](16) 第2部 浸透の境界線 那覇市小禄(上) 成人式 自衛官を排除 労組が壁 地元に擁護論

2021年4月4日 05:00有料

 子どものころ以来、数十年ぶりに布団を並べて寝ていた母が、朝一番につぶやいたという。「これからは何か(紛争)があっても一番に出て行かなくて済むね」。陸上自衛官だった中原誠さん(68)=糸満市=が2006年、定年した54歳の誕生日に初めて聞いた親心だった。

 福岡の実家を離れ、父と同じ自衛官になる学校に入ってから39年半、いざという時に備え続けた。うち31年半を那覇駐屯地で働いてキャリアを終えた。妻と出会ってマイホームを構え、第2の故郷と呼ぶ沖縄で「あれだけは許せなかった」と成人式と隊を巡る記憶を振り返る。

 1970年代の終わりごろ、1月10日すぎの夜。那覇駐屯地の宿直室に詰めていると段ボール箱が一つ届いた。20歳になる隊員向けの記念品入りで、隊で配ってほしいとの表書きがあった。送り主の那覇市は自衛隊配備に反対し、成人式に来るのを拒んでいた。

 「大人の仲間入りに職業が関係あるか」。中原さんは式典の日、門出の後輩2人とともに那覇市小禄地区の会場へ。呼び止める人垣を突っ切った。

◇    ◇

 成人式に来る自衛官を阻み、抗議する動きは70~2000年代の那覇市で続いた。特に地域別で開かれていた間は、自衛隊基地のある小禄地区の会場前に労働組合員ら100人ほどが集まり、「色白の新成人には本土から来た隊員か、と声を掛けて止めた」という時期があった

 元労組幹部から「入れてあげなさいという地元の自治会長とも押し問答になった」との証言も出た。反戦の訴えとは別に、自衛官の肩を持つ人が小禄にいてもおかしくない-とは、戦後の地元にいた人の見方だ。

 「耕す畑もなくなって米軍と、日本復帰後は自衛隊と付き合うしか生きるすべがなかった」。同じことを言った一人は小禄かいわいで米軍人や自衛官に家を貸し、家族ぐるみで付き合った金城栄一さん(79)=豊見城市。もう一人は平和憲法を学ぶ「小禄九条の会」の代表世話人、平良亀之助さん(84)=那覇市=だった。

 2人の自衛隊を巡る賛否は異なる。が、故郷が旧日本海軍の飛行場とされ、沖縄戦で締め出された境遇は同じ。年上のきょうだいたちが米軍で働いていたことも共通するなど、軍事組織との距離が近い地域で生きてきた。

 (「防人」の肖像取材班・堀川幸太郎)

=随時掲載

(写図説明)中原誠さん

(写図説明)那覇市小禄地区の成人式で、私服の自衛官を「参加しないで」と呼び止める労働組合員ら=1979年1月15日

【おまけ】で引用の記事と、下記引用のタイムス御用識者の記事を見ると、沖タイの自衛隊報道に隔世の感を感じる。

ということは、県民の国防意識の覚醒により沖タイも自衛隊を認めざるを得なくなってきた。

偏向報道を続けると読者は減っていく!

 

沖縄に浸透進む自衛隊 駐屯の歴史、検証意義を専門家はどう見るか

2021年1月4日 08:54有料

[「防人」の肖像 自衛隊沖縄移駐50年]

 軍民混在の地上戦を体験し、米国による支配からの脱却を目指した日本復帰運動を通して反戦・平和意識を培った沖縄。自衛隊イコール旧日本軍と見る拒否感は、時代とともに変遷してきた。琉球弧への配備が進む今、3人の専門家に、駐屯にまつわる歴史と検証する意義を聞いた。(「防人」の肖像取材班・堀川幸太郎、山城響)

移駐3年後 「容認の兆し」

石原昌家さん 沖縄国際大学名誉教授

 沖縄戦体験の研究で知られる沖縄国際大学名誉教授、石原昌家さん(79)=社会学=は沖縄の自衛隊について「今も、配備が強化されている地域ごとの反対はある。ただ、民生協力などで反発は薄らぎ、米軍や辺野古新基地建設に対して県民一丸となったような運動は見られない」と話す

 初めて容認の兆しを読み取ったのは、NHKの県民意識調査からだったという。日本復帰の直前、1972年5月の調査で、自衛隊配備に「反対」「どちらかと言えば反対」が計61%、「賛成」「どちらかと言えば賛成」は計28%。設問は異なるものの、石原さんが調査を委託され始めた75年には日本の安全に「必要でない」「かえって危険」と否定的な見方は計35・7%となり、「必要」「やむを得ない」が計47・7%と上回った。

 わずか3年で何が変わったか-。自衛隊で聞き取りをした。復帰に伴って、日本政府が地主に払う借地代を一気に引き上げた以外に理由があった。隊員は不発弾処理や急患搬送に加え、面倒がる人の多いPTAや自治会の活動を買って出て、無料で書道教室や学習塾を公民館で開くなど地域に溶け込んでいた。

 石原さん自身は朝、ラジオで日常的に聞いていた自衛官の献血情報を印象深く覚えている。「復帰前の沖縄は大手術が難しく、献血の習慣も乏しかった。復帰後に医療が整う中で連日、部隊ごとに何十人も献血していて、輸血された人や家族らから感謝されていた」と述べ、反対が減った一因と考えている。

地縁血縁 議論遠ざける

高良沙哉さん 沖縄大学教授

 自衛隊は、住民を招いたダンスパーティーなども盛んに開いており、自衛官男性と沖縄女性らの結婚は1975年11月時点までに130組ほどに上っていたという。

 自衛官が地域コミュニティーに深く入り込み、地元に地縁・血縁意識を広げた中で、沖縄大学教授の高良沙哉さん(41)=ジェンダー・憲法学=は「『身近な人の仕事を悪く言えない』と、自衛隊について真っ向から議論することを避ける空気が生まれた」と考える。

 自衛隊が憲法違反かどうかには触れないで-。自衛隊が配備・増強される自治体で、反対する住民集会での講演前にこう頼まれたこともある。騒音など生活目線に問題を絞ることで、身内に自衛官がいる人にまで反対の輪を広げたいという思いは分かる。「でも、問題の切り分けは、沖縄全体で課題と向き合うことにはつながらない」とも感じる。

 政治の影響も大きいとみる。2000年、故翁長雄志さんが那覇市長に初当選し、自衛隊との対話を打ち出した。後に「オール沖縄」の中心となり、保守・革新の壁を越えて米軍の辺野古新基地建設に反対する一方で、「革新系の政治家でも、自衛隊に対する疑義を言いづらくなった」と時流を読み解いた。

国境配備 守るのは何か

我部政明さん 琉球大学名誉教授

 県民議論の大小にかかわらず、現に自衛隊はそばにいる。取材で「自衛隊は軍隊組織」と認める元自衛官たちの声も聞く。琉球大学名誉教授の我部政明さん(65)=国際政治学=は「軍隊は、いつの時代、どこの国でも統制が必要。国民が話し合える素地を保つことも大切だ。だが、自衛隊を巡る議論はなおざりにされ続けている」と指摘する。

 与那国島、石垣島、宮古島など基地の新設・増強が進む中、「政府は中国脅威論を強調し『最悪の事態に備える』という言い分に終始している。相手に対する分析やリスクの説明に乏しく、自らの拡張願望を並べているだけ」と懐疑的だ。

 敵の基地を攻撃できるとされる射程900キロほどの新型ミサイルを琉球弧に配備する想定はあっても、その必要性について十分な議論はまだない、とする。

 「なぜ国境の島しょ防衛をするのか。本土を守るためだとしたら、76年前の沖縄戦と同じ理屈」。沖縄を安全保障の「防波堤」と位置付けている日本政府を批判する。

 発展スピードの速い軍事テクノロジーの前で、島しょ部のもろさが際立つ今、「住民の逃げ場がない島々で、何を、どのように守るのか。考える視点は不可欠」だという。

 沖縄移駐から50年目となる自衛隊は、何を目指してきたのか。うまくいったのか否か。「軍事力を使わずに済む時代をどうつくっていくかを考えるために、検証する意義がある」と話す。

コメント (5)

続・沖縄住民「スパイ容疑虐殺」の真相 沖縄人スパイはいた!

2021-04-04 04:54:39 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

続・沖縄住民「スパイ容疑虐殺」の真相 沖縄人スパイはいた!2008-12-22 

の引用です。

米軍統治下の沖縄では、共産主義は禁じられていた。

だが、人民党という地元政党を隠れ蓑に共産主義者は増殖し続けていた。

1950年の朝鮮戦争や、中華人民共和国の成立等、「ドミノ現象」でアジア地域に共産主義が蔓延するのを恐れた米軍情報部は、

CICを中心に沖縄の共産主義勢力の監視に神経を使っていた。

米本国の政府高官が視察のため沖縄を訪問したとき、空港に出迎えにいったユースカー(在沖統治機関)の幹部が、同行した地元琉球政府の幹部を紹介した。

「こちらが、ミスターセナガです」

遠来の米政府高官に対し、歓迎の意をこめてにこやかに握手を求めて手を出したセナガ氏に対し、高官はアメリカ人らしからぬ奇妙な反応を示した。

「オー、ノー! セナガ」

と叫んだ件の高官、握手の手を引っ込めたのだ。

隠れ共産党の瀬長亀次郎氏の「悪名」は米国本土政府の中にも知れ渡っており、

空港に出迎えた「セナガ」氏に思わず握手の手を引っ込めたのだろう。

米政府高官に握手を拒否された哀れな男は、当時の琉球政府副主席・瀬長浩氏の「瀬長違い」であった。

米政府高官が本気で握手拒否をしたのか、それとも握手を求めた男が「セナガ」と聞いて、

とっさに思いついたアメリカ人特有のジョークだったのか、今となっては確認出来ない。

だが、とにかく、当時の米軍が共産主義の蔓延に対し、いかに神経過敏だったか知る上で、そしてその指導者としての瀬長亀次郎氏を要注意人物とみなしていたかを知る上で、この逸話は実に興味深い。

厳しい監視、家族まで 瀬長氏の長女にもスパイ
2006年5月31日 
<米国の調査機関が1950年代、元沖縄人民党委員長で那覇市長、衆院議員を務めた故・瀬長亀次郎氏の長女・瞳さん(68)=カナダ在住=の周辺にスパイを送り、瀬長氏の健康状態や日常生活を探っていたことが30日までに、米国国立公文書館が保管する資料で明らかになった。同館は瀬長さんが「人民党事件」(54年10月)で逮捕された後、宮古刑務所に収監されていた55年3月7日、獄中から瞳さんに送った手紙の英語訳も保管。手紙は瞳さんに届いていない。米当局が瀬長さんの家族にまで監視を広げ、詳細な身辺情報を逐一探っていたことがうかがえる。

  瞳さんに関する報告資料は2種類。ともに「極東空軍司令部が報告」と記され、情報源は瞳さん、提供者は「極秘の情報提供者」と記される。
 情報収集日が1958年5月20日の報告は「瞳の情報では、父親は深刻な肝臓病で近く入院する」と記載。31日の報告は「瞳が言うには父親(瀬長さん)は退院して家に帰った。政治の本を書く約束をし、本を売って妻のフミさんを8月の原水爆総決起大会に参加させる資金を稼ぎたいと言っている」と記す。米当局は同年8月、東京・横浜でフミさんを撮影している。
 瞳さんは「父から仕事や政治の話を聞いたことはなく、出版計画も当時は知らなかった。なぜ私が情報源なのか理解できない。スパイをした人が父の復帰闘争を弾圧するために無理に作ったのではないか」と話している。
 瞳さんに届かなかった手紙の英訳には米国のCIC(諜報(ちょうほう)機関)の名称を記述。文面は「刑務所からあなたの活躍を期待と希望を込めて見守っている」と娘への思いが切々とつづられている。
 沖縄テレビは同公文書館から収集した資料も盛り込んだ番組を制作。31日午後4時から55分間、逮捕、投獄、市長追放と時代に翻弄(ほんろう)された瀬長さんと支えた家族のきずなを描く「カメさんの背中」を放映する。>

                   

小林よしのり著『沖縄論』で、著者の小林氏が犯した唯一の過ちは、

元人民党委員長・瀬長亀次郎氏を沖縄の英雄と祭り上げて書いてしまったことである。

沖縄左翼を取り込む意図があったのだろうが、沖縄左翼のカリスマともいえる瀬長氏を沖縄の英雄に祭り上げてしまったことは、沖縄左翼に媚びるあまり、ミイラ取りがミイラになってしまったの感がある。

瀬長氏は、米軍政府と戦っていた姿勢と、方言交じりで演説する語り口で「カメさん」と呼ばれて年寄りには人気があったが、「沖縄の英雄」は沖縄左翼とマスコミが作り上げた神話である。

瀬長氏は共産党が禁じられていた米軍統治下の沖縄で、人民党でカムフラージュした共産党員であり、当時ソ連や日本共産党から密かに資金援助を受けているとの噂があった。

そのため、CICが情報取得の為本人は勿論、長女瞳さんの身辺をかぎまわっていたらしく、沖縄住民にも共産思想が入り込んでくることに神経質になっていた。

瀬長氏が沖縄に残した負の遺産が、現在でも日本共産党、社民党そして地元政党の社大党が県議会で与党を占める沖縄の特異性である。

瀬長氏は日本復帰と同時に日本共産党に正式入党し、共産党公認で衆議院議員に当選し、日本共産党副委員長も勤めている。

終戦後の米軍統治下の沖縄でCICが暗躍した様子は、『ナツコ 沖縄密貿易の女王』2005年文芸春秋社 奥野修司著)に、

自らCIC要員として働いていた金城良安氏が赤裸々に語っている。 

米軍統治下の沖縄でCICの代理人になった者は、教員、財界人、政治家と多士済々であったという。

CICの活動が目立たなかったのは、MPが制服であったのに対し、CICは私服で活動し、当時の合言葉であった「琉米親善」を口にする善良な民間アメリカ人を演じていたからだという。

沖縄のCICはライカム(Rycom=琉球軍司令部)の管理下にあった。八重山民政府からCICに移った金城良安によれば、「八重山には3人ぐらいしかいませんでした。その下に協力者はたくさんいました。つまり情報提供者です。CICは密貿易そのものには関心がなかったのです。関心があったのは外からはいってくる人物です。スパイは密貿易船を使って移動したりしますからね。たとえば中国大陸から誰が来ているとか、そういうことには神経質になっていました」  ちなみにどんな情報提供者がいたのか、当時の軍政府に勤務したことのある人物に尋ねると、「当時の八重山には30人ぐらいおりましたかな。トップは学校の先生で次は財界人と政治家。なぜ協力したのかって? そりゃ、いろいろ便宜を図ってもらえるからだよ。あの頃の米軍は神様よ。もうほとんど死んだが、あのときCICに協力した者はみな大物になっているよ」  自らすすんで協力する人もすくなくなかったという。 CICは諜報活動はするが、基本的に密貿易の取り締まりはしない。 米兵がからんだ場合はCID(陸軍憲兵隊犯罪捜査部)が民警と一緒に動く。 CICもCIDも基本的には私服である。>(『ナツコ 沖縄密貿易の女王』2005年奥野修司)

終戦後、CICに勧誘されて情報提供者になった住民のことは、よく聞く話だが戦時中に勧誘されてスパイになることは一か八かの大きな賭けであった。 もし、日本軍が勝利をしていたら間違いなくスパイ罪で死刑は免れないからだ。

一方、アメリカの勝利の場合は将来の豊かな生活を保障されていた。

事実南方帰りを自称して住民の中に混じって生活していた者が、戦後米軍服を着用して米軍ジープを乗り回している姿を目撃し、その男はその後ハワイで裕福な生活をしていたといった伝聞談は多い。

だが、自他共に認めるスパイで、戦後も「琉球王」とよばれたスパイの親玉の記事が本人の顔写真付きで、古い「月刊沖縄ダイジェスト」の記事になっている。

米軍のスパイといわれ臨時琉球王

沖縄戦の、4月3日、美里村で捕虜になって以来、米軍に積極的に協力、降伏勧告放送もやり、沖縄本島の東西分断も進言、志喜屋孝信らの諮詢委員会ができるまでは「臨時琉球王」で、日本が勝てばスパイとして処刑確実という男がいた。 その名は首里生まれの多嘉良朝朋(当時70歳)。 米軍はそのお礼として昭和24年、米軍政府のセーファ大佐から、コカコーラの民間への一手販売権を与えるーと口約束されたが、中城公園売店でのコーラ横流し事件が摘発されて、おあずけのまま、不遇のうちに死んだ。>(「沖縄事始・世相史事典」月刊沖縄社)

                   ◇

この「臨時琉球王」は、コカコーラの一手販売権をという美味しい果実を手にする前に悪事が露見して哀れな結末を迎えたが、終戦直後には、通常では考えられないようなアメリカの大会社の製品の一手販売権手にした人が多くいた。

それは戦時中彼らがスパイとして米軍に協力した報酬だという噂を良く聞いたが、それが「火の無いところに煙は立たぬ」だったのか、それとも単なる噂に過ぎなかったのか、今では事情を知る者のほとんどが墓場で眠っており真実を知る術はない。

 

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (涼太)
2008-12-23 01:30:01
狼魔人様

スパイ処刑の件は、集団自決裁判でも争点の一つになっていますね。沖縄の左翼団体は、「日本軍はスパイ容疑で住民を処刑し、自決に追い込んだ。」と主張しています。
32軍が「諜報に留意すべし。」と神経質になったのも理解できます。原告の梅澤さんもWILLで証言していますが、沖合いの米軍艦からきた潜水兵に情報を流すスパイがいたそうです。梅澤さんたちの動きは筒抜けだったそうです。でも終戦も近いから、梅沢さんは見逃したそうです。日本本土でも治安維持法の下、処刑された民間人はいましたので、特に沖縄だけの問題ではないと思います。
当初、上陸予定のなかった慶良間に、米軍が上陸したのも、スパイからの情報の所為でしょう。米軍の上陸がなかったら、集団自決もなかった。極端な言い方かもしれませんが、住民を自決に追い込んだのは、他ならぬ地元住民によるスパイ活動かも知れません。
反日左翼は、スパイ容疑で処刑された民間人のことをことさら強調しますが、逆にスパイの存在があったと証明するような結果になってしまいました。集団自決と同じケースですが、加害者と被害者が同じ共同体に住んでいるので、このことも、地元ではタブーだと聞いたことがあります。

話は変わりますが、もし先日の領海侵犯事件のように、中国が沖縄に侵攻してきたら、沖縄の左翼団体は真っ先に、スパイになるのでしょうね。残念です。
 
Unknown (狼魔人)
2008-12-23 09:46:08
涼太さん

>沖縄の左翼団体は、「日本軍はスパイ容疑で住民を処刑し、自決に追い込んだ。」と主張しています

仰るとおりで、彼らは「悪逆非道の日本軍」のイメージ作りのため、まったく論点の異なる「自決」と「スパイ容疑による処刑」を一緒くたにしています。

結局、「自決命令」が証明できない為、これも検証の困難な「スパイ容疑」を持ち込んで「残虐イメージ」を作りたいのでしょう。

伝聞証言でも「言ったもの勝」という作戦なのでしょう。

>話は変わりますが、もし先日の領海侵犯事件のように、中国が沖縄に侵攻してきたら、沖縄の左翼団体は真っ先に、スパイになるのでしょうね。

「スパイ防止法」の早急な整備が必要ですね。

⇒最後にクリックお願いします

コメント (2)