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アメリカが真珠湾攻撃で第二次大戦に巻き込まれる数カ月前
ルーズベルト米大統領は、米陸軍選抜パイロットグループを(特殊任務から)”退役”する極秘大統領令を発行していた。
選抜パイロットグループの殺傷能力は、マラヤ、フィリピンその他太平洋地域のどの同盟戦闘機より優れていた。
1945年12月、アメリカ上下院合同調査委員会で、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将は、共和党H・ファーガソン上院議員に次のことを認めた。
「アメリカ軍人は、日米開戦前、すでにフライングタイガー社の社員に偽装して中国へ行き、戦闘行為に従事していた」(『パール判事の無罪論』田中正明著)
「フライングタイガースは米国正規軍だった」
この事実は日本が開戦回避を必死で模索してワシントンで日米交渉を行っていた時、既に米国側は対日参戦にひそかに踏み切っていたことを示しているのである。
ルーズベルトは500機からなる部隊を準備し、中国派遣を命じた。これが「義勇軍」フライング・タイガース(AVG)の実態であった。
陸軍航空部隊長の1941年8月のメモによれば、米国正規軍としてのフライング・タイガース(AVG)の創設はすでに「大統領と陸軍省が承認していた」という。フライングタイガースが米国を出発してビルマに到着したのは昭和16(1941)年春のことであった。
日本への先行爆撃計画「JBー355」を承認したルーズベルト大統領のサイン入り文書
「1941年7月23日。 了解-但し、軍事使節団方式を採るか、アタッシェ方式を採るかについては検討されたし。 FDR」『「幻」の日本爆撃計画』(アラン・アームストロング著、塩谷紘訳(日本経済新聞社)
アメリカが「リメンバー・パールハーバー」と対で使う「SNEAK ATTACK」(卑劣なだまし討ち)は、真珠湾以前に既にアメリカによって行われていたのである。
フライング・タイガース アメリカの「卑劣なだまし討ち」【狼魔人日記】
【真珠湾攻撃、その真実の歴史 ~その3~】
【正しい日本の歴史】より
2005年5月28日、アーリントン墓地に約四百人の老いた退役軍人が終結した。
彼らはフライングタイガースの元隊員であった。
日米開戦の四年前、既に日本と交戦状態にあった中国に航空部隊として参戦した「アメリカ合衆国義勇軍」の事をフライングタイガースと称していた。
この軍戦没者慰霊祭に参列している一人の年老いた東洋系婦人がいた。
元軍人集団の中心にいるこの老婦人はフライングタイガースの創設者シェンノート元少将の未亡人、陳香梅であった。
シェンノート元少将
時は遡る1989年、あるアメリカの航空貨物会社が消滅した。
航空貨物会社「フライングタイガース」が世界最大のアメリカ航空貨物社「フェデックス」に吸収されたのだ。
この会社は大戦終了の年1945年に設立の44年の歴史を誇っていた。
しかしその社名の由来は終戦の年から更に時代をさかのぼり故シェンノートに辿りつく。
この航空貨物会社「フライングタイガース」の名前は1937年誕生のアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)に由来していた。
日本では天駆ける想像上の生き物として「天馬」があるが中国には飛竜と共に空を飛ぶ虎は無敵であるという故事から「飛虎」という想像上の無敵の動物がいるという。
中国を愛したシェンノートはこの中国の故事に因んでフライングタイガースという名の航空義勇軍を創設した。
因みに写真で見るフライングタイガース戦闘機は頭部に歯をむき出して大口を開けているサメの絵が描かれている。
戦闘機の体形上虎よりサメの方が描きやすかったのだろうが、フライングシャークス、飛鮫では大陸国家中国の空を雄飛するには格好がつかない。その代わり乗務員は翼の生えた虎のマークの入ったエンブレムを背中に貼り付けていたようだ。
フライングタイガースを創設した故シェンノート少将。
アーリントン墓地ではその夫人が約400名の退役軍人にエスコートされ、「中国人の誰もが知っているアメリカ軍将軍」として今でも中国人に愛されている故シェンノート少将といったいどんな人物なのか。
シェンノートは1893年9月6日テキサス州に生まれた。
1937年7月、中日戦争が全面戦争に突入すると、シェンノート大佐は昆明に航空学校を設立して、積極的に中国空軍の対日作戦を支援した。
大佐はパイロットの養成だけでなく、自ら戦闘機に操縦し戦闘にも参加している。
日米戦争が勃発すると、アメリカ政府は積極的に中国を支援する方針を採った。
1942年7月、航空志願部隊は第10航空隊中国特別派遣部隊に編入され、准将に昇進したシェンノート氏がそのまま指揮に当った。
1943年3月、部隊はアメリカ陸軍航空隊第14航空隊に再編入され、シェンノート氏は少将に昇進する。
1941年7月に組織されたアメリカ志願部隊は23戦闘機大隊から第14航空隊に編入されるまで、シェンノート氏は一貫して志願部隊の指揮を執り、自身も退役将校から少将にまで昇進した。
シェンノートン少将の中国に対する思いは深く、中国人を夫人にし、昆明に家を建てて、生涯を中国で過ごすことを希望していた。
1945年7月、日中戦争勝利を目前に、シェンノート少将は8年間暮らした中国を離れ、アメリカに帰国した。
このとき、中国人の群集がシェンノート少将を見送りに集まっている。
人々は彼の乗用車を取り囲み、まるで駕篭を担ぐように乗用車を担ぎ上げ、数時間かけて中心広場まで運んだという。
広場のひな壇はフライングタイガースのエンブレムで飾られ、花束でアーチが築かれていた。
別れを惜しんで握手を求める人々の長蛇の列にシェンノート少将は、感激の涙を流した。
この情景はマッカーサーがに離日した時の日本人のマッカーサーに対する惜別の表現を髣髴とさせるものがある。
日本人には馴染みの薄いシェンノートというアメリカ軍人がアメリカ人による「義勇航空隊フライングタイガース」を中国に創設した1937年という年度に注目して欲しい。
その年シェノートが義勇軍を創設して数ヵ月後に事実上の日中戦争の開始とも言うべき盧溝橋事件が起きている。
そのころの中国大陸は蒋介石率いる国民政府、毛沢東率いる共産政府が分裂し各地で内戦が行われていた。その間を掻い潜るように日本軍が侵略をはじめていた。
シェンノートは中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられた。
当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが蒋介石は空戦経験の豊富な彼を中国空軍の航空参謀長とし階級も大佐としての待遇を持って国民党政府に招き入れた。
着任したシェンノートはまず重慶の基地を見回り中国空軍内を視察してまわった。
そしてそれまで爆撃機を主軸に活動していた中国空軍に対しシェンノートは蒋介石に「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行っている。
この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国と協議の結果、承認された。
アメリカは当時中立政策をとっていたため表面だって中国を支援する事は国民の支持を得にくかった。 「リメンバーパールハーバー」より遡ること四年前の事である。
つまりアメリカは「真珠湾の卑劣な攻撃」の実に4年も前から日本と交戦していたのである。
これ嘘のような本当の話。
フライングタイガーを英雄的に描いた映画
若き日のジョン・ウェインが演じている
1958年7月27日、シェンノート少将はアメリカで死去したが、中国系アメリカ人の陳香梅夫人は今も健在である。
「フライングタイガーズ」のパイロットは、蒋介石の軍事顧問クレア・シェンノート氏によって、当時の新米パイロットの5倍相当に当たる月給600ドルと日本軍機1機撃墜ごとに500ドルという破格の報酬で、全米各基地から集められた。全員は農民や伝道師、エンジニアなどを装ってビルマに集結。蒋介石政権が米国に借金する形で資金を負担、弱体の中国航空部隊を裏で支えた」(読売新聞1991年7月8日)
さらに驚くべきは、フライングタイガーズが東京や大阪の奇襲攻撃を計画していた。
「作戦には350機のカーチス戦闘機と150機のロッキード・ハドソン長距離爆撃機が参加の予定で、うまくいけば(1941年)9月下旬には東京や大阪に大量の焼夷弾をばらまいて木と紙の日本の家屋を焼き尽くすはずだった。だが、「フライング・タイガース」が集結したビルマの英空軍基地には10月下旬になっても肝心の爆撃機は到着しなかったのである。(中略)需要の多い爆撃機はその年の暮れになっても届かず、41年12月7日の真珠湾攻撃で日米が開戦すると、中国大陸を経由した日本爆撃そのものがほごにされ、計画はやみに葬られた」(産経新聞2000年7月15日)
日米開戦 アメリカ最大のタブー -Japan-US open war America's largest taboo
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