狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

日米安保のグレイゾーン、米、尖閣演習の停止指示 78年 中国との対立回避 領有権で日本と距離

2021-04-05 13:47:21 | 資料保管庫

沖縄タイムス紙面掲載記事

米、尖閣演習の停止指示 78年 中国との対立回避 領有権で日本と距離

2021年4月5日 05:00有料

 尖閣諸島の大正島で日本が米海軍の演習場として提供している射爆撃場について、米政府が1978年6月、尖閣の領有権を巡る日中対立に巻き込まれる恐れがあるとして、米軍に使用停止を指示していたことが4日までに機密解除された米公文書で分かった。翌年に米軍が使用再開を要請したが、米政府が容認しなかった。日本政府によれば、米軍による尖閣の射爆撃場の使用通告は78年6月以降なく、当時の米政府の指示が現在も実質的に継承されている可能性がある。

 現在のバイデン政権を含む歴代米政権は尖閣を、対日防衛義務を定めた日米安全保障条約第5条の適用対象としているが、領有権については「当事者間の問題」とする中立政策を維持。実際の有事で米国が尖閣防衛に関与するのか不確実との見方もある中、尖閣を巡っては中国と直接対立するのを避けるため、主権の所在に関して同盟国日本とも距離を取ってきた実態が浮き彫りになった。文書は共同通信が米国立公文書館から入手した。

 米国は72年の沖縄返還で、沖縄の一部として尖閣の施政権を返還。その際に米軍が使用していた射爆撃場については、日本が日米地位協定に基づいて提供するという形式を取った。

 79年11月に米国務省、在日米大使館、在中国米大使館がやりとりした一連の公電によると、国務省は前年78年6月に大正島の射爆撃場について「尖閣領有権を巡る日中対立の激化」を理由に使用停止を指示した。これに先立つ同年4月、多数の中国漁船が尖閣周辺の領海に侵入し、退去を拒む事態が発生。日本が「尖閣は日本固有の領土だ」として抗議するなど日中関係が悪化していた。

 翌79年11月6日、当時のマンスフィールド駐日米大使は、在日米軍による射爆撃場の使用再開を許可するよう国務省に要請。この間の78年8月に日中は平和友好条約に調印したが、バンス国務長官は「日中の法的管轄権を巡る問題は未解決」として、使用再開に同意しないとの立場を伝達した。国務省から見解を求められたウッドコック駐中国大使も「日中いずれかの(領有権)主張に肩入れするような行動を避けるのが米国の利益だ」との見方を示した。

 日本は尖閣で、久場島でも射爆撃場を米軍に提供。同島も78年6月以降は使用通告はなく、米側は射爆撃場使用について大正島と同様の方針を適用している可能性がある。

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新講・・狼魔人流沖縄方言講座

2021-04-05 13:26:50 | 沖縄語講座

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以前から要望のあった沖縄方言講座を再開します。

ちなみに当講座は筆者の独断と偏見で纏めたものであり、方言学者と称する諸氏の感想は受け付けるが、批判は一切受け付けない。

冒頭部分は重複するが読み飛ばしていただきたい。

 

古いテレビ捕り物ドラマの「銭形平次」でで平次親分宅に子分の八五郎が「親分、テーヘンダ、テーヘンダ」と事件の注進に駆け込むシーンが定番である。

コロナ禍について、毎日のように「テーヘンダ」「テーヘンダ」とテレビが煽るので遂に北杜夫先生もビックリの「マンボウ」まで飛び出してきた。

マンボウが顔を出したのに元気が出たデニー知事は、ジュゴンを忘れてマンボウに「テーヘン」じゃなく沖縄方言で「★イチデージ」「★イチデージ」と煽り立てるのだろうか。

交付金が欲しさに。

ジュゴンの次にマンボウで「★メーニチ」強請タカリとは「★ガティン・ナラン」。

「★テーゲー」にしてほしい。

「★ヘークナー」「★へーべートゥ」「★ヤミティキレ」。

無能知事よ、次の知事選は落選だろう。

「★ウビ―トーキヨー」

 

新・方言講座

「★デージ」⇒大事

「★イチデージ」⇒一大事

「★メーニチ」⇒毎日

「★テーゲー」⇒大概

「★ヘークナー」⇒早くに(早々に)

「★へーべートゥ」⇒早々と

「★ヤミティキレ」⇒辞めてくれ

「★ウビ―トーキヨー」⇒覚えておけえよ

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◆その男はいつも「その季節」がやって来ると落ち着かなくなる。

その男は千葉のとある街で代々続く理髪店を経営していた。

沖縄出身の父親から引き継いだ「千葉理容館」がその店だ。

今日は朝から仕事も手につかない。

遂に「その季節」がやってきたのだ。

               ◇        ◇         ◇

最近ではテレビを通じて沖縄の言葉が頻繁に話題になる。

そのせいか沖縄訛りの標準語にもそれほど違和感を感じないようになった。

それでも沖縄旅行中に、突然お年寄りに沖縄方言で話し掛けられたら、初めての観光客ならきっと面食らう事だろう。

外国語で話し掛けられたような気分にさえなるかもしれない。

そしてこんな感想をきっと持つだろう。 ≪沖縄語はやはり日本語とは全く異質の言葉だ。 外国語に等しい≫と。

 沖縄方言が日本の古い言葉に起源を辿ると言う事は意外と知られていない。

沖縄語は日本の古語と地元独特の言葉に加えて、中国の影響も受けている。

二つだけ例を挙げて説明する。

「気張る」と言う言葉は沖縄では「ちばる」と訛る。

「気張る」には息を詰めて力を入れるという意味の他に「気力を奮い起こす。

いきごむ」と言う意味がある。

沖縄で「ちばる」と訛り、意味は主に「頑張る」と言う意味に使われる。

 「頑張れ・よ」と声援を挙げるのは「ちばり・よ」となる。     

沖縄では母音「E(え)」は「I(い)」に変化する。     

子音「K」は「CH]に変化する場合がある。     

例として「 カッチンヌミサチ 」は沖縄の若い人は理解できないだろう。    

 「勝連の岬」と漢字に置き換えるとぼんやり判りだす。     

勝連岬は沖縄本島東海岸にある岬。     

★『岬みさき」の「MISAKI]が「MISACHI」に訛って変化する。

甲子園に沖縄代表の高校が出場すると「チバリヨー」の横断幕が張られ、独特の指笛とともに「チバリヨー」の歓声が球場に響き渡る。

 「チバリヨー」だけを聞くと異質感を感じるだろうがこれも日本語の一地方訛りに過ぎない。

もう一つだけ例を挙げよう。

「まる」をパソコンで変換させると「○とか丸、円」しか出てこない。

 「まる」の動詞形は日本語では既に死語になっているが、古い日本語では動詞として使われていた。

 今でも「おまる」としてその意味の痕跡を名詞形で残している。

「放(ま)る」には大小便をする、排泄(はいせつ)するという意味がある。

沖縄ではそのままの発音で、現在でも同じ意味に使われている。(主に大のほう)

           ◇         ◇        ◇

 これは沖縄がまだアメリカの占領下にあった半世紀前ほどの話である。

その頃は学生が勉学の為上京するのは大変な事だった。

今時の学生のように飛行機で2時間で一飛びという訳には行かなかった。

先ず那覇の港を発つと、一昼夜かかる船旅で鹿児島に着く。 鹿児島に上陸するとそこで一泊すると、翌日の急行で東京に向かうのだがその間社中で更に一泊する。

その頃東京と鹿児島を結ぶ最速の汽車は急行「霧島」だった。

勿論寝台車などは無く、硬い椅子の2等車に揺られての長旅だった。

それでも座席が取れればいい方で、満員の時などは新聞紙を通路に敷いてそこで寝た話などは珍しい事ではなかった。

那覇を発って東京へ着くまで三泊四日の大旅行であった。

             ◇         ◇        ◇

東京駅には先輩が出迎えに来ていた。 東京生活も三年にもなるという先輩。

今のようにテレビが普及する前の話である。

全く未知の東京では心強い先輩だった。

長旅で疲れていたが、其れよりも先ほどから腹の調子がどうもおかしい。

 車内で食べた弁当のせいか。

先輩の下宿に着くまで我慢をしようか思ったが、ここから1時間も電車を乗り換えていかねばならぬという。

沖縄を発つ時母に言われた言葉を想いだした。

 「お前は東京の事情は何も知らない田舎者だから、何でも先輩に聞いてその通りやれば間違いない」

 ホームにはベンチはあるが他にそれらしいところは無い。

意を決して、先輩に相談した。 「先輩! トイレに行きたいのですが・・・もう我慢出来そうも有りません」

「そうか。 下宿まで我慢できないか」 慌てた先輩、次の言葉を残して何処かへ消えてしまった。

 「其処でまってろ!」

 「へー、東京はやっぱり進んでいる」

 「緊急の場合はこんな所ででも、まっていいのか」 そういいながらズボンのボタンを緩めつつベンチの陰にしゃがみ込もうとした男の耳に、間一髪先輩の声が届いた。

「すぐ其処にトイレがある。 あー! そんな所で放(ま)ってはいかん!」 沖縄では今でも雅(みやび)な古語「放(ま)る」が日常で生きている。  

★「クソマルの神話学」 http://am.tea-nifty.com/ep/2004/04/post_15.html  

   

             ◇         ◇         ◇

◆遂にその男が待つ季節はやって来た。

全国選抜高校野球選手権大会。  

春の甲子園大会の開幕だ。

千葉県の理髪店「千葉理容館」の主はテレビの前に釘付けになった。

 テレビでは沖縄代表高の熱戦が繰り広げられていた。

画面から沖縄応援団の声援が地鳴りのようにテレビを揺るがした。

 男の店の名前が横断幕に一杯に書かれ画面を占拠した。

この理髪店を観客皆で応援するかのように。

 「チバリヨー!」 

「チバリヨー!  千葉理容!」 ・・・誰か! 座布団一枚持っていけ!

           ◇    

  

 

沖縄語は耳で聞くと外国語のようだが、文字で書くと大体の意味は分かると言う人がいる。 沖縄民謡の歌詞などは確かに文字で書くと沖縄語を知らなくとも、意味が分かったような気がする。

だが、沖縄語の中にも日本語の類推で分かる言葉と、全く理解不能な言葉がある。

例えば「嘘つき」と「正直者」の沖縄語は夫々「ユクサー」と「マクトゥー」というが、「ユクサ-」はさておいても、「マクトゥ-」が誠の類推から正直者を表すことは容易に類推できる。 

沖縄語には語尾を伸ばすことにより、その動作や状態を表す人や物に変化する法則があるので、「マクトゥー」が正直者になるのは、分かっても「ユクサー」となるともはや類推では手も足も出ない。

「ユクサー」は「ユクシム二ー」(嘘)から派生した言葉「ユクシ」の語尾が伸びた時「シ」が長音につられて「サ」に変化し「ユクサー」になったものである。

で、「ユクシムニー」は「ユクシ+ムニー」に分解され日本語を当てると「邪(よこしま)+物言い」となり、これを例の通りローマ字で書くとこうなる。

YOKOSIMAMONOII

そこで、O→Uと変化する法則にしたがえばこうなる。

YUKUSIMUNUII

そのまま発音すると「ユクシムヌイイ」

続けて発音していくと「ユクシムニー」つまり、「嘘つき」の沖縄語となる。

従って元来「嘘つき」は「ユクシムナー」と言うべきだが、通常は「ユクサー」のような短縮形でも意味は充分通じる。

前稿のコメント欄で日本語より沖縄語の方が大和言葉風な言葉がが多いと書いたが、「嘘」というシナ風の表現より「邪(よこしま)物言い」がウソになるとした表現の方が優雅で優れて大和風ではないか。

 

「正直」を表す沖縄語は「誠」の類推が容易な「マクトゥ 」で正直者は「マクトゥー」と簡単だが、「マクトゥ」にはほかにも「真実」の意味がある。

関連語に「マットーバ」という沖縄語があるが意味は、

(1)まっすぐ。 一直線。 正しいこと。

(2)単純な人。 馬鹿正直な人。

語源を辿れば、日本語の「真っ当」に行き当たる。

 

沖縄で「あの人はマクトゥーよ」と言われたら正直者の他に誠意のある人といった褒め言葉になる。 誠意より正直だけを強調されると「あの人はマットーバよ」と言われる。

くれぐれも「あの人はユクサーよ」とか「ユクシムナー」と言われないようにしたいものである。

何ですって?

沖縄語の研究者達が「狼魔人はユクシムナーだ」と怒っているって?

「マットーバ」を言っているつもりなのですが・・・。

   ◇         ◇

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民間人主導の集団自決、毒薬注射を待つ列に並んだ…85人が亡くなった「集団自決」からの生存者が語る壮絶な記憶

2021-04-05 05:36:22 | ★改定版集団自決

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いわゆる「慰安婦問題」と「沖縄集団自決問題」は奇妙な共通点を持つ。

「慰安婦」も「集団自決」も実際に存在した。

だが、両者で問題となっているのは次の争点だ。

慰安婦問題⇒強制連行の有無

集団自決問題⇒軍命の有無

沖縄の集団自決問題に絞ると、現在軍の強制を示す客観的証言・証言は存在しない。

従がって2007年9月、宜野湾市で開催された「11万人県民大会」(「教科書検定意見の撤回を要請する県民大会)で撤回要請された検定意見は、約14年経過した現在でも有効である。したがって教科書に「軍の命令による集団自決」を意味する文言は記述できない。

ところが沖縄2紙は「集団自決」代わる「集団自決(強制集団死)」と言う文言を多用して「軍の命令」の印象操作に懸命である。

チビチリガマで慰霊祭2011年4月3日 09時21分  

 【読谷】66年前の4月2日に「集団自決(強制集団死)」が起きた読谷村波平のチビチリガマで2日、遺族会(與那覇徳雄会長)が慰霊祭を開いた。遺族が高齢化する中、孫やひ孫世代も訪れ、普段は立ち入れない壕(ごう)の中で平和の継承を誓った。

 1945年4月1日に米軍が沖縄本島に上陸。翌日にはチビチリガマ周辺にも侵攻し、避難した住民約140人中、83人が強制集団死に追い込まれた。

 

左翼勢力が主張する論に「軍隊のいた場所では集団自決が起きた」「軍隊のいなかった場所では集団自決は起こらなかった」という主張がある。 

この勝手な思い込みを根拠に、「集団自決は軍の命令だった」と断定する。誰が考えても乱暴な話である。

上記引用の記事で事情の知らない読者は、「チビチリガマ」には軍人と住民が混在し、仮に命令は無くとも、軍が強制的に住民を自決に追いやった」とミスリードされてしまうだろう。

では、実際はどうであったのか。

チビチリガマに避難したのは近隣の住民だけであり、軍人は一人もいなかった。

そこで集団自決した手段は、軍装備品の手りゅう弾でもなければ銃剣でもなかった。

病院勤めをしていた地元の女性看護師Cさんが、病院から持ち出した毒薬を配布しようとしたら希望者で行列ができた。 結局毒薬は全員には行き渡らずに、各自で持ち込んでいた毛布、布団等に火を付け煙による窒息死が多かったという。(読谷村史)

上記記事の「避難した住民約140人中、83人が強制集団死に追い込まれた」の部分は、主語が無いため読者は日本軍が自決を強制したとミスリードされる。

だが、これは真っ赤なウソである。

チビチリガマの壕の中には軍人は一人もいなかった。

毒薬注射を待つ列に並んだ…85人が亡くなった「集団自決」からの生存者が語る壮絶な記憶

配信

沖縄タイムス

ガマの中に設けられた祭壇に手を合わせる遺族ら=3日午後1時10分ごろ、読谷村波平のチビチリガマ(代表撮影)

「集団自決」は、軍命ではない2016-04-03

の再掲です。

 

チビチリガマの集団自決は民間人の主導であり、軍命ではない。

「集団自決」犠牲者に祈り 読谷チビチリガマ

 
祭壇に線香を手向け、手を合わせて犠牲者の冥福を祈る遺族ら=4日、読谷村波平のチビチリガマ

 【読谷】沖縄戦で米軍沖縄本島上陸直後の1945年4月2日、住民83人が「集団自決」(強制集団死)をした読谷村波平のチビチリガマで4日、慰霊祭(遺族会主催)が行われた。遺族や関係者ら約20人が集まり、70年前に起きた惨劇で犠牲となった肉親の冥福を祈り、平和を願った。

沖縄戦終結から70年たったいま、住民が体験した「戦争」の記憶の継承に危機感が募る一方で、「戦争のできる国」の流れが進む中、体験者や遺族らは「不戦」への思いを新たにしている。
 チビチリガマでは、米軍上陸に際して住民が避難していた。米兵が投降を呼び掛ける中、殺されると思い込んだ男がガマ内の布団などに火を付け、避難していた住民140人のうち83人が「集団死」した。そのほとんどが煙による窒息死だったが、注射や刃物で命を絶った人もいた。
 背景には、米兵に捕らえられれば残虐行為をされるとの考えが住民らの間に広まっていた状況がある。一方、チビチリガマにほど近いシムクガマでは、ハワイから帰国した英語を話せる住民がいたため、避難民ら約千人が投降して全員の命が助かっている。
 チビチリガマでの「集団自決」が起きた4月2日の時点で、大本営はすでに沖縄を見捨て「本土」襲来を想定していた。
 本島上陸に先立つ慶良間諸島での「集団自決」も合わせて、ガマでの犠牲は、米軍の侵攻に伴って住民を巻き込んだ沖縄戦の象徴的な出来事であり、「軍隊は住民を守らない」中で、南部戦線に拡大していく悲劇の幕開けの一つとも位置付けられる。
 慰霊祭で、遺族会の与那覇徳雄会長(60)は「戦後70年を迎え、当時を知る人が少なくなっている」と危惧を示しつつも、「チビチリガマから平和を発信するため、いろいろな形で子や孫に歴史を継承していきたい」と語った。

               ☆

集団自決に軍の命令があったか否かの論争は、すでに決着が付いている。

軍の命令があったという客観的証言や証拠は皆無だ。

沖縄2紙は「軍命はあった」と印象操作に懸命だが、2005年に提訴された大江・岩波訴訟では被告の大江氏・岩波書店に対する名誉毀損請求は棄却されたが、原告である梅沢・赤松両氏の「軍命」は法廷で立証出来ず、事実上「軍命はなかった」と証明された。

2007年の「11万人集会」(「高校歴史教科書検定意見の撤回を求める県民大会」)でも、文科省は、集団自決を削除せよとの検定意見を現在でも撤回していない。

したがって教科書や新聞報道で「集団自決は軍の命令による」と記述することはできない。(ただ、当時の福田内閣が11万人のデタラメな数字に驚き、手榴弾による自決があったことを理由に「軍の関与」という曖昧な文言をを認めたことは残念である。)

沖縄2紙は、「軍の命令があった」とは記述できないので、「集団自決」(強制集団死)」などと姑息な手段で印象操作している。

「軍命あり派」の論拠の一つに「集団自決にあったところには必ず日本兵がいた」という主張があるが、チビチリガマには日本兵はおらず、自決を主導したのは村の長老である。

また渡嘉敷島で、集団自決に手を貸した金城重明氏の傍に日本兵はいなかった。

したがって「集団自決にあったところには必ず日本兵がいた」という論拠は覆っている。

>チビチリガマでの「集団自決」が起きた4月2日の時点で、大本営はすでに沖縄を見捨て「本土」襲来を想定していた。

本土来襲は想定していたとしても、「沖縄を見捨てた」というのは嘘である。

座間味島や渡嘉敷島で集団自決が起きた丁度そのとき、慶良間諸島を取り巻く米艦船に決死の特攻攻撃を仕掛けたのは米軍を震撼させたカミカゼ特攻隊であった。

また大本営が沖縄救援のため沖縄に戦艦大和を派遣した事実は「見捨てていない」証拠ではないか。

 

こんなバカなことを書く沖縄の「識者」もいた。

記事を書く識者も異常だが掲載する沖縄タイムスも異常である。

参考ブログ⇒戦艦大和の目的は「住民虐殺」だった

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