以前から要望のあった沖縄方言講座を再開します。
ちなみに当講座は筆者の独断と偏見で纏めたものであり、方言学者と称する諸氏の感想は受け付けるが、批判は一切受け付けない。
冒頭部分は重複するが読み飛ばしていただきたい。
古いテレビ捕り物ドラマの「銭形平次」でで平次親分宅に子分の八五郎が「親分、テーヘンダ、テーヘンダ」と事件の注進に駆け込むシーンが定番である。
コロナ禍について、毎日のように「テーヘンダ」「テーヘンダ」とテレビが煽るので遂に北杜夫先生もビックリの「マンボウ」まで飛び出してきた。
マンボウが顔を出したのに元気が出たデニー知事は、ジュゴンを忘れてマンボウに「テーヘン」じゃなく沖縄方言で「★イチデージ」「★イチデージ」と煽り立てるのだろうか。
交付金が欲しさに。
ジュゴンの次にマンボウで「★メーニチ」強請タカリとは「★ガティン・ナラン」。
「★テーゲー」にしてほしい。
「★ヘークナー」「★へーべートゥ」「★ヤミティキレ」。
無能知事よ、次の知事選は落選だろう。
「★ウビ―トーキヨー」
新・方言講座
「★デージ」⇒大事
「★イチデージ」⇒一大事
「★メーニチ」⇒毎日
「★テーゲー」⇒大概
「★ヘークナー」⇒早くに(早々に)
「★へーべートゥ」⇒早々と
「★ヤミティキレ」⇒辞めてくれ
「★ウビ―トーキヨー」⇒覚えておけえよ
◆その男はいつも「その季節」がやって来ると落ち着かなくなる。
その男は千葉のとある街で代々続く理髪店を経営していた。
沖縄出身の父親から引き継いだ「千葉理容館」がその店だ。
今日は朝から仕事も手につかない。
遂に「その季節」がやってきたのだ。
◇ ◇ ◇
最近ではテレビを通じて沖縄の言葉が頻繁に話題になる。
そのせいか沖縄訛りの標準語にもそれほど違和感を感じないようになった。
それでも沖縄旅行中に、突然お年寄りに沖縄方言で話し掛けられたら、初めての観光客ならきっと面食らう事だろう。
外国語で話し掛けられたような気分にさえなるかもしれない。
そしてこんな感想をきっと持つだろう。 ≪沖縄語はやはり日本語とは全く異質の言葉だ。 外国語に等しい≫と。
沖縄方言が日本の古い言葉に起源を辿ると言う事は意外と知られていない。
沖縄語は日本の古語と地元独特の言葉に加えて、中国の影響も受けている。
二つだけ例を挙げて説明する。
「気張る」と言う言葉は沖縄では「ちばる」と訛る。
「気張る」には息を詰めて力を入れるという意味の他に「気力を奮い起こす。
いきごむ」と言う意味がある。
沖縄で「ちばる」と訛り、意味は主に「頑張る」と言う意味に使われる。
「頑張れ・よ」と声援を挙げるのは「ちばり・よ」となる。
沖縄では母音「E(え)」は「I(い)」に変化する。
子音「K」は「CH]に変化する場合がある。
例として「 カッチンヌミサチ 」は沖縄の若い人は理解できないだろう。
「勝連の岬」と漢字に置き換えるとぼんやり判りだす。
勝連岬は沖縄本島東海岸にある岬。
★『岬みさき」の「MISAKI]が「MISACHI」に訛って変化する。
甲子園に沖縄代表の高校が出場すると「チバリヨー」の横断幕が張られ、独特の指笛とともに「チバリヨー」の歓声が球場に響き渡る。
「チバリヨー」だけを聞くと異質感を感じるだろうがこれも日本語の一地方訛りに過ぎない。
もう一つだけ例を挙げよう。
「まる」をパソコンで変換させると「○とか丸、円」しか出てこない。
「まる」の動詞形は日本語では既に死語になっているが、古い日本語では動詞として使われていた。
今でも「おまる」としてその意味の痕跡を名詞形で残している。
「放(ま)る」には大小便をする、排泄(はいせつ)するという意味がある。
沖縄ではそのままの発音で、現在でも同じ意味に使われている。(主に大のほう)
◇ ◇ ◇
これは沖縄がまだアメリカの占領下にあった半世紀前ほどの話である。
その頃は学生が勉学の為上京するのは大変な事だった。
今時の学生のように飛行機で2時間で一飛びという訳には行かなかった。
先ず那覇の港を発つと、一昼夜かかる船旅で鹿児島に着く。 鹿児島に上陸するとそこで一泊すると、翌日の急行で東京に向かうのだがその間社中で更に一泊する。
その頃東京と鹿児島を結ぶ最速の汽車は急行「霧島」だった。
勿論寝台車などは無く、硬い椅子の2等車に揺られての長旅だった。
それでも座席が取れればいい方で、満員の時などは新聞紙を通路に敷いてそこで寝た話などは珍しい事ではなかった。
那覇を発って東京へ着くまで三泊四日の大旅行であった。
◇ ◇ ◇
東京駅には先輩が出迎えに来ていた。 東京生活も三年にもなるという先輩。
今のようにテレビが普及する前の話である。
全く未知の東京では心強い先輩だった。
長旅で疲れていたが、其れよりも先ほどから腹の調子がどうもおかしい。
車内で食べた弁当のせいか。
先輩の下宿に着くまで我慢をしようか思ったが、ここから1時間も電車を乗り換えていかねばならぬという。
沖縄を発つ時母に言われた言葉を想いだした。
「お前は東京の事情は何も知らない田舎者だから、何でも先輩に聞いてその通りやれば間違いない」
ホームにはベンチはあるが他にそれらしいところは無い。
意を決して、先輩に相談した。 「先輩! トイレに行きたいのですが・・・もう我慢出来そうも有りません」
「そうか。 下宿まで我慢できないか」 慌てた先輩、次の言葉を残して何処かへ消えてしまった。
「其処でまってろ!」
「へー、東京はやっぱり進んでいる」
「緊急の場合はこんな所ででも、まっていいのか」 そういいながらズボンのボタンを緩めつつベンチの陰にしゃがみ込もうとした男の耳に、間一髪先輩の声が届いた。
「すぐ其処にトイレがある。 あー! そんな所で放(ま)ってはいかん!」 沖縄では今でも雅(みやび)な古語「放(ま)る」が日常で生きている。
★「クソマルの神話学」 http://am.tea-nifty.com/ep/2004/04/post_15.html
◇ ◇ ◇
◆遂にその男が待つ季節はやって来た。
全国選抜高校野球選手権大会。
春の甲子園大会の開幕だ。
千葉県の理髪店「千葉理容館」の主はテレビの前に釘付けになった。
テレビでは沖縄代表高の熱戦が繰り広げられていた。
画面から沖縄応援団の声援が地鳴りのようにテレビを揺るがした。
男の店の名前が横断幕に一杯に書かれ画面を占拠した。
この理髪店を観客皆で応援するかのように。
「チバリヨー!」
「チバリヨー! 千葉理容!」 ・・・誰か! 座布団一枚持っていけ!
◇
沖縄語は耳で聞くと外国語のようだが、文字で書くと大体の意味は分かると言う人がいる。 沖縄民謡の歌詞などは確かに文字で書くと沖縄語を知らなくとも、意味が分かったような気がする。
だが、沖縄語の中にも日本語の類推で分かる言葉と、全く理解不能な言葉がある。
例えば「嘘つき」と「正直者」の沖縄語は夫々「ユクサー」と「マクトゥー」というが、「ユクサ-」はさておいても、「マクトゥ-」が誠の類推から正直者を表すことは容易に類推できる。
沖縄語には語尾を伸ばすことにより、その動作や状態を表す人や物に変化する法則があるので、「マクトゥー」が正直者になるのは、分かっても「ユクサー」となるともはや類推では手も足も出ない。
「ユクサー」は「ユクシム二ー」(嘘)から派生した言葉「ユクシ」の語尾が伸びた時「シ」が長音につられて「サ」に変化し「ユクサー」になったものである。
で、「ユクシムニー」は「ユクシ+ムニー」に分解され日本語を当てると「邪(よこしま)+物言い」となり、これを例の通りローマ字で書くとこうなる。
YOKOSIMAMONOII
そこで、O→Uと変化する法則にしたがえばこうなる。
YUKUSIMUNUII
そのまま発音すると「ユクシムヌイイ」
続けて発音していくと「ユクシムニー」つまり、「嘘つき」の沖縄語となる。
従って元来「嘘つき」は「ユクシムナー」と言うべきだが、通常は「ユクサー」のような短縮形でも意味は充分通じる。
前稿のコメント欄で日本語より沖縄語の方が大和言葉風な言葉がが多いと書いたが、「嘘」というシナ風の表現より「邪(よこしま)物言い」がウソになるとした表現の方が優雅で優れて大和風ではないか。
「正直」を表す沖縄語は「誠」の類推が容易な「マクトゥ 」で正直者は「マクトゥー」と簡単だが、「マクトゥ」にはほかにも「真実」の意味がある。
関連語に「マットーバ」という沖縄語があるが意味は、
(1)まっすぐ。 一直線。 正しいこと。
(2)単純な人。 馬鹿正直な人。
語源を辿れば、日本語の「真っ当」に行き当たる。
沖縄で「あの人はマクトゥーよ」と言われたら正直者の他に誠意のある人といった褒め言葉になる。 誠意より正直だけを強調されると「あの人はマットーバよ」と言われる。
くれぐれも「あの人はユクサーよ」とか「ユクシムナー」と言われないようにしたいものである。
何ですって?
沖縄語の研究者達が「狼魔人はユクシムナーだ」と怒っているって?
「マットーバ」を言っているつもりなのですが・・・。
◇ ◇