地べたの記者論(3)

 私のツイッターアカウントに繰り返し送られてくる画像がある。私がテレビニュースの取材に、「中間中立で報道しているという気は確かにない」と答えている場面だ。字幕が付いている。「沖縄の立場に偏っているというのは言えるかもしれない」というバージョンもある。

 
【写真】朝日放送が沖縄タイムスを取材し、関西圏で放送した特集の一場面。切り出した画像がネット上に出回っている

 私が、あるいは沖縄タイムスが偏向報道をしている「証拠」として送ってくるネトウヨが多い。あまりに多いので、送られてきた画像を自分で貼って拡散したことがある。「私は今も胸を張って同じことを言っています。 政府が沖縄を差別している中で、中間中立を装うのは単なる差別への加担です」と書いた。
 
 いじめと似ている。傍観する者は決して中立ではない。加害の側に立っている。いじめを見たら、まずは被害者に肩入れして止めなければならない。仮に被害者にも欠点がある、加害者にもいいところがある、などという話があったとしても、全ては加害者にいじめをやめさせ、謝罪させてからの話だ。
 
 中間中立の点なんて、探しても探しても、この世のどこにも存在しないという確信もある。人の数だけ考えがあって、しかも常に移ろっていて、その全てと等距離を保つのは不可能だ。意図的なデマが大量に流通する中、全ての主張に同じ重さがあるとも到底言えない。
 
 私は、報道で心がけるべきなのは中立ではなく公平だと考えている。批判すべき相手にも一度はアプローチしてみる。反論の機会を提供する。その上で、ジャーナリズムの倫理に従って事実を曲げずに記す。
 
 これさえ守っていれば、メディアに載る弱者の声が強者の声より多くても全く構わない。強者はもともと多くの人に届く大きな声を持っているのだから。メディアが弱者の拡声器にならなければ、そもそも強者を相手に議論が成立しない

 こう考える私が、行く現場を考え、話を聞く人を決め、言葉を取捨選択してつづる記事が沖縄タイムスに載っている。客観的事実を書いていても、その事実は私の主観が見いだしたものだ。私は偏っていて、記事も偏っていている。同時に、この文章を読んでくださっているあなたも、ネトウヨも、弱者も、強者も、みんな偏っている。
 
 受け手はとっくに気づいている。メディアだけが、過去に掲げた「中立」「客観報道」という看板に縛られて本当のことを言い出せずにきた。でも、1990年代から一貫して新聞の署名記事は増えている。記者がSNSで発信するようになり、さらに「顔が見える」ようになった。少しずつ、呪縛を解いていく過程の中に私たちはいる。
 
 誰もが違い、誰もが偏っている。そのことを確認した地点から、新しいジャーナリズムを語り合いたい。
 
 みんな偏ってみんないい