狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

小沢幹事長は「小沢大統領」である

2009-09-05 07:10:51 | 県知事選

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鳩山チルドレンではなく、「小沢チルドレン」という言葉を何の抵抗もなく使うマスコミ。

そしてネット上を飛び交う次のような写真。

その顔の大きさの違いが、鳩山新内閣の前途多難な未来を予感させる。

党代表の経験者の二人に挟まれた鳩山氏は、まるで闇の帝王とフランケンに脅える小鳩。

これが鳩山新内閣の実態といえる。


090902-06vs.jpg

ちなみに小沢氏は「小沢チルドレン」という言葉を嫌ってマスコミに、使わないように牽制をかけているらしいが、そりゃ、そうだろう。

この言葉は、新内閣の「二重権力」を象徴する言葉だから。

その小沢氏が陰で権力を振るうのに最適のポスト、幹事長に落ち着いた。

幹事長といえば、自民党幹事長時代、総裁選挙の候補者の宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博の三氏を自身の個人事務所に呼びつけて、それぞれ総裁候補者として面談した。

当選回数・年齢も上の者を自分の事務所に呼びつけたことは傲慢であると批判されたが、「豪腕小沢」を示す逸話として記憶に新しい。

早速このような記事が、

権力の二重構造?「剛腕・小沢」に期待と警戒写真あり (9月4日 14:21)特集 

期待は建前で、本音は警戒。

そして、もう始まった小沢氏の「岡田潰し」がこれ。

民主、謎の自称・政権移行チーム…戸惑う霞が関

岡田氏が代表当時に策定した「岡田政権500日プラン」に基づき、閣僚予定者による「政権移行チーム」を計画したが、

これに対して、鳩山氏も当初は前向きの発言をしていたが、衆院選の民主党圧勝が決まると、これをを明確に否定した。

小沢氏がこれに反対したからだ。

その陰には、目の上のたんこぶの岡田潰しを目論む小沢の策動が考えられる。

小沢の構想は、これ。

現在小沢グループである「一新会」の議員の数は30人余り、同じく「一新会クラブ」には50人余りが加盟しており、今の時点でも党内最大の会派だが、

これに民主党議員308人中、半数に迫る143人の小沢チルドレンを加えると、連立しても与党の過半数を小沢が握ってしまうという壮大なもの。

鳩山内閣が、いくら側近の平野博文氏を官房長官に添えて、鳩山色を演出して見せても、平野氏はただのメッセンジャーボーイにしかなれず、鳩山内閣は所詮小沢民主党という大店の中に間借りする店子のようなもので、絶対権力を持つ「小沢大統領」の下の党内内閣と言えなくも無い。

                   ◇

民主党圧勝の影響は、早速沖縄でも現れた。

アメリカは、鳩山氏の「親中・反米」的言動に警戒気味だが、沖縄でも圧勝した民主党議員団が早速仲井真知事を訪問し、日米関係の最重要課題である「普天間基地」の県外移設に協力するよう圧力を加えた。

民主、普天間移設「県外」同調迫る 衆院選後、知事と初会談

仲井真知事は、辺野古移設を容認しているが、民主党の圧勝にプレッシャーを感じたのか、返答に苦慮している様子だった。

沖縄では御馴染みの前米総領事のメア国務省日本部長が、強力な牽制球を投げた。⇒米軍再編は「国家間合意」メア米国務省部長、民主をけん制

そして、「普天間移設」に関する鳩山氏の発言は「わかりにくい」と仲井真知事はこぼしているが・・・。

沖縄タイムス 2009年09月04日 政治 

普天間移設 鳩山氏「性急な結論困難」【政治】

県外「変えていない」

 【東京】民主党の鳩山由紀夫代表は3日、米軍普天間飛行場移設問題について、「日本政府、米国政府、沖縄県民の三つの意思が一つに合わさって初めてうまくいく。性急に結論を見いだすことは難しいと認識している」と述べ、問題解決には一定の時間がかかるとの認識を示した。民主党が大勝した衆院選後、鳩山氏が普天間移設に言及するのは初めて。同日夕、党本部で記者団に語った。(略)

                    ◇

民主党は、米国との関係を「対等な日米関係」と一人前のことを言うが、

自国の安全を他国に委ねておきながら、「対等な関係」は無いだろう。

挙げ句の果てに自国の安全保障の基地を「出ていけ」と叫ぶ党に「対等な付き合い」は絵に描いた餅。

対等な付き合いには「義務」が生じるはずだが、・・・。

「対等な日米関係」明記を提案・・・民主が連立協議で

 

■米国務省日本部長は「嫌われメア」と呼ばれた

普天間基地移設で、米国務省側で盛んに牽制球を投げているメア日本部長は総領事の頃、その率直な発言(日本語は流暢)のため、地元マスコミや知識人に蛇蝎のように嫌われていた。

琉球新報が彼の発言を取り上げて、わざわざこんな社説を書くくらいだった。

琉球新報社説⇒メア発言 こんな総領事、要らない

メア氏は、米軍関係の抗議団が押しかけるときは、その対応の盾となってテレビなどで発言していたが、曖昧な表現を避け率直に意見を述べていたので、「県民感情」などの曖昧な要素を重要視するマスコミが批判するのもむべなるかな、ではある。

国会では「米軍に理解してもらった」という曖昧な政治決着で、終わった金武村伊芸区の「流弾被災事件」も、メア氏は明快に米軍の流弾では無いと否定していた。

「訓練の弾」に疑義 メア氏、米軍発射を否定2009年2月26日 

この「疑惑の銃弾」については、次を参照されたし。

ウソつきは県警か米軍か!真相解明、県や在沖米総領事に要請

疑惑の銃弾はどうなったか マスコミには説明責任がある!

 

そのメア氏が米総領事として沖縄に在任当時、領事館近くのスターバックスでコーヒーを飲みながら談笑中、突然近づいてきた沖縄人にコーヒーをぶっ掛けられ、

「沖縄からから出て行け」

と胸を突かれた。

これが逆のケースで、喫茶店で談笑中の県知事に米兵がコーヒーをぶっ掛け、暴行を加えたらどうなっていたか。

おそらくは、新聞が一面トップで騒ぎ立て、抗議のための「県民大会」でも開かれていただろう。

沖縄人が米国総領事にコーヒーをかけ、暴行を加えても沖縄ではたいしたニュースではないとおもったのか、地元紙この程度の小さなベタ記事の扱い。

メア総領事、コーヒーかけられる 無職の男を逮捕(2009.4.6)  

                     ◇

被害者のメア総領事は、「沖縄県人すべてが犯人のような考えでないことはよく理解している」と寛大なコメントを出している。

まぁ、被害者のメア総領事がいうように、どの国にも不逞の輩はいるもので、コーヒーを総領事にかけたからといって驚くに当たらないという向きもある。

だが、沖縄の知識人として沖縄マスコミで頻繁にご高説を垂れる作家先生が、「(メアは人相も悪いが、根性も曲がった最悪の総領事」と罵倒したあげく、

「よくやった!」「遠慮せず顔にかけておけばよかった」と自身のブログで戯れ歌を歌っているのにはあきれ果てた。

この作家先生がどのような思想を持とうが日本に住む限り思想の自由は保障されるとしても、

暴力を肯定するような戯れ歌のご披露は、日頃の平和主義、暴力否定主義或いは「命どぅ宝」のお題目と矛盾するのではないか。

作家先生の迷作を下記に引用する。

なおタイトルは「お熱いのをご馳走させなさい」とでも言うのですかね。

M:昔アメリカの悪い総領事さんが♪ 乞いを忘れた怒れる男に♪ 痺れるようなあちこーこーの♪ 琥珀色した飲み物をぶっかけられました♪ やがて心わじわじー♪ とっても不愉快このムード♪ たちまち男は悪いメアと喧嘩した♪ コンガマラカス楽しいサンシンのリズム♪ 南の国の情熱のアロマ♪ それは素敵な飲み物コーヒーモカマタリ♪ みんな陽気にかけて怒ろう♪ 愛のコーヒールンバ♪
S:ぬーえんばーが、うぬ歌や?
M:メア在沖米総領事んかいホットコーヒー掛(は)きてぃ、逮捕さってーぬ男(いきが)ぬ記事ぬ新聞かい載(ぬ)とぅてーとぅよ、うり見っち作(ちく)たんばーてー。(以下省略、続きは⇒あちこーこーから、うさがらせー

作家先生がいくらお嫌いでも、少なくとメア総領事は同盟国の総領事。 

たとえ思想が異なるからといって総領事への暴力行為をけし掛けるような作家先生が、知識人として大手をふるう沖縄は、少なくとも「守礼の邦」でないことは間違いない。 

 

メア総領事は熱いコーヒーだけでなく、火炎瓶もご馳走になっていたのですね。

米総領事館に火炎瓶か 黒スクーターが逃走
2008年7月14日

火炎瓶らしきものが投げ込まれた現場で、捜査する県警捜査員=14日午前5時54分、浦添市当山の米国総領事館敷地内

 14日午前1時15分ごろ、浦添市当山の米国総領事館敷地内の庭に火炎瓶らしきものが投げ込まれ、コンクリート製のステージに当たって発火し芝生30センチ四方を焦がした。・・・

(後半部分は過去エントリーを編集・加筆したものです)
        

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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テレビ東京が「白旗の少女」を放映

2009-09-04 09:36:02 | 未分類

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自民党が歴史的大敗を喫したというのに、政治ネタ抜きで、連日「政治ブログ」のランキングを維持するのは少々キツイ。

そこでネタ探しにネットを彷徨っていたら、こんなのに遭遇した。

テレビ東京 「白旗の少女」

沖縄での放映は不明だが、9月30日にテレビ東京放映予定とのこと。

道理で昨日の当日記へのアクセスの検索ワードが、「白旗の少女」とその関連ワードで100件を越えていたわけだ。

納得である。

「白旗の少女」については、過去に何度かエントリーした。

この物語は、「一フィート運動」で入手した米軍の記録フィルムに写っている白旗を振って歩く少女がモデルとなっており、戦後、偏向した「平和教育」の教材として利用 されてきた。

写真では、少女の後ろに、たまたま通りかかった日本兵が歩いており、この光景を、反戦運動家達は、わずか7歳の少女を盾にして投降する 「卑怯な日本兵」というストーリーに仕立て上げた。

今回のドラマでも、ドラマだからといって、ご本人の証言を捏造したり原作とかけ離れたたストーリーには注視が必要である。

以下は一部編集した再掲です。

                    ◇

沖縄戦において米軍は圧倒的物量をほこり、その戦力の余裕から数多くの報道班を配備した。

彼らが撮影した多くのフィルムは冷徹に戦争の実像を記録をした。

だが、後世これらを見た沖縄の「識者」たちはそれを基に数多くの神話を捏造した。

イデオロギーまみれの「平和教育」のために。

「白旗の少女」の写真を知る者は多いが、「平和教育」のために作られた少女にまつわる神話の背景を知る者は少ない。

<白旗の少女 とは、沖縄戦で白旗を掲げ投降した少女。大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』に写真が初めて登場。1986年公開の記録フィルム「沖縄戦・未来への証言」の中の笑顔が県民の印象に残った。少女は当時7歳の比嘉富子。(琉球新報)>

                   ◇

 

「白旗の少女」や長寿の秘密 高校英語教科書に“沖縄” カメラ 2008年3月26日

 文部科学省は25日、2009年度から主に高校高学年で使われる教科書の検定結果を公表した。高校英語教科書には、沖縄戦で白旗を掲げて米軍に投降した「白旗の少女」と沖縄の長寿の秘密を探る「東洋の長寿の秘密」が登場する。「白旗の少女」は三友社出版で2、3年生対象、「東洋の長寿の秘密」は増進堂で3年対象のリーディングの教科書にそれぞれ05年から掲載されている。また音楽ではBEGINの「島人(しまんちゅ)ぬ宝」、寺島尚彦さんの「さとうきび畑」が登場するなど、沖縄を題材としたものが紹介されている。
 「白旗の少女」は沖縄への修学旅行生が増加し、関心が高まる中、平和問題につながる教材として05年に発行した教科書に初めて掲載され、現場教師らに好評だったことなどから今回も掲載を決めたという。
 内容は沖縄戦末期に一人戦場をさまよった少女が白旗を持って一人米軍に投降し、奇跡的に一命を取り留め、その時撮られた写真が“白旗の少女”として写真集に掲載され、少女は写真を撮ったカメラマンと43年ぶりに再会を果たした―という体験談をまとめた。(略)
 
                                             ◇

米軍によって撮影された記録フィルムの中で、戦争に翻弄される子どもたちの姿には心を痛める。

その中でも特に有名な白旗の少女の写真は、戦争の残酷さを伝えて圧倒的迫力で見る者の心を大きく揺さぶる。

 

「白旗の少女」は、アメリカ軍が沖縄戦を撮影したフィルムを買い取る「一フィート運動」の成果として、1984年に紹介されたフィルムに写っていた。

手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は、男服を作り変えたと思われるボロボロのもんぺに裸足のみすぼらしい姿で、健気にも白旗を右手に、左手でカメラのレンズから顔を隠しているように見え、見る者の心を打った。(映画版を見るとカメラに手を振っている様子)

 

後の調査によると、少女を写したカメラマンは二人いて、一人が記録映画、もう一人がスチル写真を撮影したらしい。

以後「白旗の少女」の写真は多くの沖縄戦記出版物に転載され見るもの全てを圧倒的感動の渦に巻き込んでいく。

「白旗の少女」の発掘は、『写真記録「これが沖縄だ」』(1977年)の初版発行の7年後になるので、同書掲載の写真は1987年の改訂版で新たに掲載したのだろう。

「白旗の少女」が公開されたその翌年の6月には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』というタイトルの本が出版され、同書を原作にしたアニメ映画まで製作されている。

 「白旗の少女」が教科書に載ったり、修学旅行生に紹介され、写真やフィルムを見た多くの人々がその場面に衝撃を受けるのは、白旗を手に投降する少女のけなげな姿にあったのではない。

「平和教育」のため、沖縄の「識者」の予断により歪曲され、捏造された醜悪な日本兵の姿に衝撃を受けたのである。

米軍が提供する沖縄戦の写真を歴史教育に使用するのは結構なことだが、それを扱う「識者」の色メガネを通して、歴史が捏造される例は多い。

例えば子供用の絵本として出版されたの『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』(文・新川明、版画・儀間比呂志)には、少女(りゅう子)が白旗を掲げて銃剣を構える米兵に投降する場面(先頭のりゅう子の後ろには両手を上げた多くの日本兵が追随している版画絵)では、次のような文がある。

ゆっくりと目をあけると

すきとおるひかりのむこうに

アメリカ兵のすがたがみえました。

戦車のかげで鉄砲をかまえたまま

白い歯をみせてわらっています。

 

ふりかえると、日本兵たちが

両手をあげてついてきました。

おじいさんや女の人も

よろよとつづいていました。

そのむこうに、ガマが黒い口をあけていました。

 

同書の「あとがき」には次のようなことが書かれている。

 
  <さる太平洋戦争では中国をはじめたくさんの国の人たちが犠牲になりました。日本の国民もヒロシマやナガサキに代表される大きな被害をうけました。しかし、沖縄戦は、ほかにみられない軍隊の姿をさらけ出しました
 本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました

 
私たちはこの絵本作りで、沖縄戦世を追体験しました。
 はじめに、沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、もんぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。
 
さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >
 

日本軍への憎悪を掻き立てるような文章を書いた新川明氏は元沖縄タイムス社長で、「沖縄イニシアティブ方式」と呼ばれる卑劣な手段で沖縄紙の論壇からから保守論客を放逐した左翼ジャーナリストである。

「沖縄イニシアティブ方式」の詳細は、雑誌『WILL』2008年8月増刊号に寄稿してあるので参照されたい。

また、版画による絵を担当した儀間比呂志氏は沖縄ではよく知られた文化人で、このコンビで作られた絵本は大きなインパクトを与えた。

絵本が糾弾するのは、「白旗を持った少女を盾にその後ろからついて来て、米兵に命乞いする」といった日本兵の卑劣な姿であった。

で、実際はどうであったのか。

記録映画版の映像で動画を見ると、「虚脱したようにゾロゾロ歩く避難民の列の中に白旗を持った少女を見たカメラマンが、その姿に興味を持ってカメラの焦点を合わせ、気が付いた少女がカメラに手を振った」といった印象である。

それを示す他の角度の写真には少女の背景に反対方向に向かって歩く日本兵らしき人のリュックを背負った姿も映っており、「識者」たちが主張する「少女を盾にした卑劣な日本兵」という雰囲気は画面からは読み取れない。

 


 

 

1985年、沖縄の「識者」たちによる『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。

それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。

そして二年後の1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社 文・比嘉富子 絵・依光隆)が刊行される。

そしてその本の後書きには、当初名乗り出ることも、自著を出版することも躊躇していた比嘉が、あえて自筆による出版に踏み切った動機を次のように書いている。

・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのようにごかいされてているのは、大変残念なことです。
この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。 そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。
したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。 このことは、事実として書き加えておかなければなりません
。(204、205頁)>

比嘉富子さん、よくぞ生きておられて、よくぞ真実を告白してくださいました。

不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で名乗り出ることなく沈黙を守っていたら、「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に語られたであろう。

ここで登場する日本兵は名も顔も知られぬ無名兵士ゆえ、梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されないが、日本軍の代表として「醜悪な日本兵」が定着していたであろう。

記録映画を見た観客は、真実をそのまま写すカメラの目を通して事実を見る。

だが、新川明氏や儀間比呂志氏のような「識者」の文や絵を通して伝えられるものは真実とは遠くかけ離れたものである。

その昔、佐藤栄作が辞任会見の折に、

「テレビはしゃべったことをそのまま映すが新聞はウソを書くから記者は出て行け」

と新聞記者を会場から追い出した話しを想い出す。

 

では、「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。

否、相も変わらず「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は一行の訂正もされず発売されているし、子どもたちへの「平和教育」では「悪逆非道」のイデオロギーで日本軍を貶め続けている。

これはデタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。

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コメント (19)

墓の中の真実 証言の信憑性

2009-09-03 07:01:08 | ★集団自決

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

一昨年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

前稿で紹介した玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、

赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことを再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だったという。

このような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていたが、翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念したという。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

上記の「役場の兵事主任の新城真順」とは、戦後改姓し「手榴弾軍命説」で有名になる富山眞順氏のことである。

曽野綾子氏が『ある神話の背景』の取材をしたときは、「手榴弾軍命説」は出ていない。 曽野氏は富山氏に取材した記憶はないというが、富山氏は取材を受けたという。

富山氏が当時そんな重要証言(手榴弾軍命説)をしていたのなら当然記憶に残るはずだから、仮に取材していたとしても当時「手榴弾軍命説」の発言はなかったという曽野氏の主張は首肯できる。

「富山証言」(手榴弾による自決命令説)は、曽野氏の取材のおよそ20年後、実に戦後45年を経過して突然降って湧いたように出現した。

戦後も続いていた富山氏と赤松隊員との友好的関係を考えれば、戦後45年して唐突に出現した「手榴弾軍命説」は富山眞順氏一人の考えから出たとは到底考えられない。

やはり「富山証言」は戦後45年経って、ある目的を持った勢力に強制され、心ならずも証言させられたと言わざるを得ない。

その富山氏も今は既に鬼籍に入られたが、富山氏と親交のあった渡嘉敷村在住の源哲彦氏が、次のように証言している。

当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で「証言」を聞くことは出来ないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」といったのを直接聞いた事がある。」(沖縄タイムス)

それでは、現在巷に流布する「手榴弾軍命説」は真実ではなかったのか。

そして、富山氏が墓の中に持ち込んだ真実とは一体何であったのか。

 

関連:エントリー

真相を墓場まで持ち込んだ二人

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
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渡嘉敷島の狂死する老女 昭和45年3月26日、那覇空港での出来事

2009-09-02 07:27:41 | ★集団自決

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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この数日のエントリーで、1970年3月27日の沖縄タイムス記事を重複を厭わずに繰り返し書いた。 同記事が沖縄戦史を歪曲するマイル・ストーン的役割りを果たしたからだ。

那覇空港で赤松元隊長を待ち受けていた左翼団体が、「赤松帰れ!」の罵声を浴びせたことを沖縄タイムスは、あたかも「渡嘉敷住民が鬼の赤松隊長を追い返した」かのような歪曲記事を書いてて県民を騙した。

そして、その悪意に満ちた沖縄タイムスの歪曲記事を読んだ大江健三郎氏は、作家としての空想力を刺激され、更なる悪意を込めた『沖縄ノート』を書いて国民を騙したのだ。

同書で大江氏は空港のシーンを次のように描写してる。

《那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭(ふとう)では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである

空港で待ち受けた40人(タイムス報道)の「左翼集団」は作家の想像力により「沖縄の青年たち」と変化し、穏やかに渡嘉敷島で赤松隊長の来島を待ちわびていた渡嘉敷住民は、大江氏の筆にかかると「永年にわたって怒りを持続した沖縄の人々」と見事に変貌を遂げている。

さらに大江氏の想像力は止め処もなく飛翔する。

赤松・元大尉が「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」 と語っていたという新聞記事を読んで、大江健三郎は『沖縄ノ ート』にこう書いている。

人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の 巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねが う。かは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶に たすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の 余地をこじあけるたに、過去の事実の改変に力を尽くす。 ・・・  このようなエゴサントリックな希 求につらぬかれた幻想にはとどめがない。「おりがきたら」、 かれはそのような時を待ち受け、そしていまこそ、そのお りがきたとみなしたのだ。[『沖縄ノート』,p210]  ≫

さすがはノーベル賞作家である。新聞記事を読み、「おりが きたら」というたった一言から、自己弁護のために「過去の事 実の改変に力を尽くす」「幻想にはとどめがない」人物として 赤松・元大尉を描いて見せたのだった。

しかし、「幻想にはと どめがない」のは大江氏自身である。  

現地を訪れもせず、直接の体験者の話も聞かず、いかにも見 てきたように赤松元大尉を悪魔的な人物として描いた『鉄の暴 風』と、

沖縄タイムスの捏造記事をネタに書いた『沖縄ノート』は、赤松・元大尉を糾弾 することによって、日本軍を、ひいては日本国家を貶めようと した「悪意の幻想」の産物なのである。  

■二人の作家の良心■

大江氏は「空港での事件」を報じる悪意ある記事を見て、自らは現地に行くこともなく憎悪に満ちた『沖縄ノート』を書いたが、

その空港での「事件」を目撃した沖縄の作家の星雅彦氏は、自ら渡嘉敷島の慰霊祭に参加し、慰霊祭の終了後、港で別れを惜しんで涙する住民と赤松隊員の惜別の情景を見た。

そしてあまりにも事実とかけ離れたタイムス報道を見て、流布する「隊長命令説」に疑念を抱き、遂には確信に至った。

大江氏は、作家としての知名度において、格段に星氏に勝るかもしれないが、

作家としての良心においては、星氏のそれには遠く足元にも及ばない。

いや、それどころか、その後の開き直りを見ると、大江氏に良心の欠片さえ見出すのは困難である。

『沖縄ノート』はデタラメ記事で国民を騙したという点でその罪は大きいが、その『沖縄ノート』の発火点となった1970年3月27日付沖縄タイムスの捏造記事も限りなくその罪は大きい。

                    ◇

大江氏のほかにも上記沖縄スタイムス記事をネタに本を書いた人物がいる。

「非核の島の記憶 『沖縄の近い昔の旅』」(森口かつ著 凱風社)には、次のような過激な表現がある。http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/48129761.html

《「非核の島の記憶 『沖縄の近い昔の旅』」(森口かつ著 凱風社=P150ーP153)

赤松元隊長は、住民329人が死んだ集団「自決」の下命人として、遺族がまとめた 戦記にその名をとどめてきた元大尉である。
その男が、戦後25年たった春ひょっこり沖縄にやってきた。
渡嘉敷島で行われる「自決」者たちの慰霊祭参列のためだという。
ところが、彼は那覇空港でたいそう手荒な出迎えを受けることになった。

「何しに来たか!帰れ」

「お前は沖縄人を何人殺したんだ!」

渡嘉敷島のあるおばあさんは赤松がきたら発狂するから来てくれるな、と言って いるんだ

「帰ってくれ。慰霊祭にでてもらいたくないし、あなたが来島すること自体、県民は 耐え難いのだ」

男を取り巻いたのは教員、歴史家、キリスト教牧師、平和運動家ら50人。
「虐殺者、帰れ!」
と書いたのぼりが立ち、抗議のシュプレキコールが夕闇迫る空港 ターミナルに響いた。

厳しい追及に男は終始口をつぐんでいたが、抗議の人たちの口から「軍国主義」「日本の右翼化」という言葉が飛び出すと、

「わたしのところは平和だし、、、、わたしが来島したからといって、、、、」と切 り出した。

この一言が、取り巻いた人たちをいっそう刺激した。沖縄は戦後このかた他国の軍事 基地に圧迫され、事件・事故の絶える事がない,「平和」とはおよそ無縁の島である。
その人たちを前にして「私のところは平和だし、、、」と言ってのけるヤマトンチュ とは何だろう。

・・・・・・

「彼が島に来たら発狂する」老女さえいる渡嘉敷島の人たちがこの元守備隊長に求め ているのは、「以前のままの赤松」からの脱皮であり、久米島の人たち同様、真摯な 反省と謝罪、そして軍の論理の放棄である。(P150ーP153)》

何と、赤松元大尉が渡嘉敷島を訪問したら島の老女が発狂するというのだ。

ウソの記事の連鎖はこのようにして新たなるウソを捏造していく。

渡嘉敷島の老女が赤松氏の来島の知らせを受けて、発狂したというニュースは寡聞にして知らない。

あなたが来島すること自体、県民は 耐え難いのだ」

空港で待機した左翼集団が「県民」を代表していないことは同行の沖縄タイムスは百も承知のはずだがそれは伏せて、敢えて県民の遺族代表のように報じた。

抗議団=平和を守る沖縄キリスト者の会、歴史・社会科教育者協議会、日本原水爆禁止協議会沖縄県支部、日本平和委員会沖縄県支部、日本科学者協議会沖縄県支部

このような捏造された「物語」が次々と一人歩きして島の住人たちは赤松元大尉を「発狂するほど憎悪している」という神話が地元新聞を通じて沖縄地元の人々さえ「鬼の赤松」を信じるようになっているのである。

慰霊祭の行われた現地渡嘉敷島の様子を琉球新報は次のように伝えている。

この日の渡嘉敷村は平日と変わらない静かなたたずまい。赤松元大尉が来島できなかったことや、その部下が初めて来島したことにも反応は少なく、道陣が詰めかけたのが、異様にさえ感じているような冷静さ。

赤松元隊長が本島まで来ていることを知らされても、『肉親を失ったことは忘れられないが、いまさら古傷にふれても仕方がない

と言った言葉が返ってくるだけ。本島でくり広げられた『赤松帰れ!』の騒ぎはウソのような『悲劇の島』二五回忌の慰霊祭-」

新報はウソのようなと書いているが、「空港の事件」を報じる記事はウソだったのだ。 

この新聞記事は、実に正直に、島民達が抗議団体の人達よりも冷静に、赤松隊の慰霊祭出席を受け入れていることを報道している。それはそうであろう。

命令はなかったのだから。そして、関係者は皆、放っておいて欲しかったのだ。

しかし『沖縄タイムス』は、こう書く。

・・・赤松氏の来島によって戦争の傷跡が鋭くえぐり出された。『いまさら傷にふれても仕方がない』と遺族の人達は言う。しかし筆者は、遺族にとっては酷な言い方であろうが、あえて言う。

傷痕から目をそらせず凝視してほしい。血を吐くような苦痛を伴うだろうが、その痛みに耐えてほしい。身悶えするような苦悩をするだろうが、それと真剣に戦ってほしい。

なぜなら、そこからしか真の反戦平和の思想は生まれてこない。戦争の傷痕こそ反戦闘争の原点であるから。(後略)」

あの日、赤松氏が那覇空港に到着したとき、果たして何人の県民が「血を吐くような苦痛で、身悶え、苦悩した」だろうか。

記事を書いた記者は、『鉄の暴風』の執筆者太田良博氏と同じように自分の描く「文学作品」に酔い痴れ、このようなクサイ筆致の記事を書いたのであろう。

真実より何より、反戦闘争ありきなのがよくわかる。

このような「反戦」活動に熱心な、抗議団体やジャーナリスト、作家達が、赤松元大尉だけでなく、真実を知りながら口にできない島民の方々のことも苦しませてきたのだ。

                ◇

巷間流布する「神話」が、いかにデタラメであるかを知る上で、「昭和45年3月26日の那覇空港での出来事」は後世、メディアリテラシーの絶好の教材として永遠に語り継がれるだろう。

発狂しそうになった老女は「赤松夫人や赤松元大尉の部下が大挙島を訪れた」のを知って、

「たたりじゃ!」

とでも叫んで、狂死したのだろうか。

 

以上は過去のエントリー「狂死する老女 昭和45年3月26日、那覇空港での出来事」編集・加筆したものです。

 

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秦 郁彦
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想像力欠如の芥川賞作家目取真氏が「うらそえ文藝」を批判

2009-09-01 06:19:01 | ★集団自決

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読者の涼太さんが、「異論は削除」で有名な「沖縄版・言論封殺魔」こと目取真俊氏へ反論を書いておられるので以下に引用します。

 2009-08-29  涼太  

目取真のブログ、読んできました。赤松さんの「命令を出していない。」とする手記をネタに、上原さんを非難し、返す刀で櫻井よしこさん、よしりんを非難しています。そんな事は上原さん、櫻井さん、よしりんも百も承知です。
赤松さんの発言は「命令は出していない。これには深い事情があるのでそれ以上は言えない。」です。
目取真は本当
に馬鹿だ。人間の心の機微が分かっていない。ここにたまに来る、罵倒しか出来ない人達が、応援するブログですから、しょうがないですが。沖縄の反日左翼団体のあまりに醜い抗議に、抵抗しつつも「援護法」には一切触れていません。そこには、赤松さんの渡嘉敷村に対する、思いやりを見ることが出来ます。反日左翼に抗議しつつも、最後まで渡嘉敷村民を守っています。
目取真は自分の発言が渡嘉敷村民を、苦しめていることに気が付かないのでしょうか
。》

この反論で必要かつ十分であり、これ以上は蛇足だとも思われるが、ブログ主も反論するとレスした手前、敢えてこれに屋上屋の説明を試みたい。
 
                      ◆

◆想像力欠如の芥川賞作家

左翼作家目取真俊氏が、「うらそえ文藝」の批判したブログはこれ。⇒元隊長たちの〈沈黙〉という嘘

表面上は「うらそいえ文藝」誌に掲載の上原正稔氏の発言を、サピオにおける小林よしのり氏や週刊新潮における櫻井よしこ氏の発言と同列にして批判しているが、

目取真氏の真意が、「うらそえ文藝」編集長星雅彦氏への言論封殺であることは、氏のこれまでの言動から容易に推測できるし、次の文章からみても明白である。

浦添市から財政支援を受けている文藝同人誌や、『SAPIO』『週刊新潮』という大手出版社が発行している雑誌で、平然と嘘を書き飛ばしているのだから、何というでたらめさだろうか。また、こういう明かな嘘をチェックもしないで載せる編集者や雑誌にも呆れる。》

編集長に圧力を加えたり、「市から財政援助云々」で出版そのものに圧力を加えるその手法は、元祖・「言論封殺魔」こと佐藤裕氏にそっくりであり、さすが「沖縄版・言論封殺魔」と感心させられる。

何よりも、零細出版物の財政事情を調べ上げて、出版そのものに圧力を加える手法は、異論を許さない氏の「言論封殺」体質が顕れ、いかにも卑劣である。

目取真氏の批判の要点はこうだ。

上原正稔氏は『うらそえ文藝』で次のような発言をしている。

〈上原 だからね、渡嘉敷村でも座間味村の人たちでも、実は赤松さんと梅澤さんには感謝しているわけですよ、というのは、彼らが黙っているお陰で、彼らを悪者にしたてあげているお陰で遺族年金がもらえているわけですから〉。

これに対し目取真氏は、同誌の上原氏の次の発言を矛盾だと言うのだ。

〈上原 一九七一年の『潮』に二〇〇人の証言(※1)が全部出てきますよ。その中に赤松さんの「自決命令は出していない」という手記もあります〉。

目取真氏は得意満面にこう批判する。

上原氏が言う『潮』一九七一年十一月号に載っている赤松氏の《私記》で赤松氏は、〈私は自決を命令していない〉という主張を行っている。それでどうして〈彼らが黙っている〉ことになるのだろうか。一方で〈彼らが黙っている〉と言い、もう一方で『潮』の赤松〈手記〉を持ち出す上原氏は、自分の発言の矛盾を自覚していないのだろうか。

また、もし上原氏が言うとおり元隊長たちが〈黙っているお陰で〉〈遺族年金〉がもらえているのなら、赤松元隊長が沈黙を破って「集団自決」の命令を否定した時点で、どうして渡嘉敷島の援護金は停止されなかったのか。上原氏はこのことをどう説明するのか。

そして最後に編集者に狙いを定め、こう決め付ける。

上原氏・小林氏・櫻井氏というそれなりに名を知られたドキュメンタリー作家・漫画家・評論家が、浦添市から財政支援を受けている文藝同人誌や、『SAPIO』『週刊新潮』という大手出版社が発行している雑誌で、平然と嘘を書き飛ばしているのだから、何というでたらめさだろうか。また、こういう明かな嘘をチェックもしないで載せる編集者や雑誌にも呆れる

上原氏の言葉尻を捉え、大上段の批判を展開しているが、これでは芥川賞作家の肩書きが泣いてしまうとんだ大見当違いである。

目取真氏の批判に対して、次の二行で反論は簡単に終結する。

赤松隊長が沈黙を守ったのは、「軍命の否定」ではなく、「援護金のため軍命を捏造した」ということである。

従って上原氏の発言にいささかの誤謬もない。

これだけでお終いでは、折角の芥川賞作家先生のご批判に対しては礼を失するので、少々しつこいと思われる解説を以下に加える。

現在、梅澤氏氏と赤松氏の実弟が、大江健三郎・岩波書店を相手どって名誉毀損の訴訟を上告中だが、その争点の核心が「自決命令の有無」であり、当然両隊長が「命令を否定している」ことは周知のことである。

だが、上原氏が言う「黙っていること」と「命令を否定していること」とは全く別の問題であることに、目取真氏は気がついていない。 

「黙っている」ことの意味は「命令していない」という単純な自己弁護を「黙っている」のではない。

涼太さんのご指摘のように、赤松氏の発言は「命令は出していない。これには深い事情があるのでそれ以上は言えない」ということであり、その事情、つまり「援護金のための軍命の濡れ衣」についての弁解を「黙っていた」のであり、上原氏の発言に微塵の齟齬もない。

目取真氏は、《赤松元隊長が沈黙を破って「集団自決」の命令を否定した時点で、どうして渡嘉敷島の援護金は停止されなかったのか。》と、まるで鬼の首を取ったように言うが、

「命令を否定したこと」と「黙っていたこと」が同じではないからこそ、援護金は停止されなかったとは、集団自決に関心のある人なら誰でも気がつくことだ。

これに気が付かないのは作家としての想像力に欠けるのではないか。

想像力欠如の作家先生のために、わかりやすく言えば、「黙っていた」こととは、「援護金のため軍命を捏造した」という秘密の暴露を行わなかったという意味である。

しつこく、さらに噛み砕いて説明を繰り返そう。

赤松氏が「黙っている」とは、厚生省援護課、村当局、そして赤松氏による「共同の秘密」を黙して語らず、墓場まで持ち込んだという意味なのだ。

1970年3月27の渡嘉敷村の慰霊祭の日、赤松元大尉は渡嘉敷島に渡るのを左翼団体に阻止されるが、部下達 は慰霊祭に参加し、地元の人々と手を取り合って往事を偲んだ。  

赤松隊の部下達が那覇から帰途につく前の晩、記者会見が開かれた。

その席で 赤松・元大尉の責任を問う記者たちに、赤松隊の部下の一人はこう言っ た。  

責任というが、もし本当のことを言ったらどうなるのか。 大変なことになるんですヨ。・・・いろいろな人に迷惑が かかるんだ。言えない。》(『沖縄戦 渡嘉敷島「集団自決」の真実』 38頁)

赤松元大尉が真相、つまり「援護金のため軍命を捏造したこと」を語らな かったのは、それによって援護を受け取った遺族たちに迷惑が かかるからだ。  

遺族たちのために、赤松大尉は、上原氏の言う「沈黙」を守って、戦後ずっと弁 明もせずに過ごし、遂には真実を墓場まで持ち込んだのだ。

上原正稔氏の『うらそえ文藝』での発言には、何の齟齬もない。

ネット上では、何も調べずに罵倒するだけのあきれ果てた芥川賞作家目取真俊氏 として夙(つと)にその名を知られる目取真氏だが、今回も調べてないのか、あるいは調べても理解できなのか、相も変わらず罵倒だけはご健在のようだ。

                    ◇

【おまけ】

援護金のための「軍命の捏造」については、石原昌家沖国大教授の検証があるので、その詳細については省略する。

政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

1970年3月27日付沖縄タイムスの赤松氏に対する悪意に満ちた記事については、既に「沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪」で詳述してあり、結果的にこれが目取真氏への反論にもなっている。

同記事でも赤松氏はタイムス記者の執拗な質問の連発に対し、軍命は否定しているが、援護金のことは一切口にしていない。

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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