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「壬申の乱」「近江朝廷」「律令国家」「大友皇子」「大海人皇子」

2024年06月03日 | 歴史上の人物
🌸天武天皇の鑑は聖徳太子1

⛳壬申の乱の遠因
 ☆壬申の乱、わが国の古代史における最大の内乱
 *結果として「日本」という国家の原型を生み出した
 *壬申の乱の理由、中大兄皇子(天智天皇)の近江遷都にあった
 *二百年の長きの飛鳥を捨てて、畿外の大津へ移ること
 *貴族と豪族や朝廷の官吏、庶民にも納得できる話ではなかった
 ☆官民双方の反対を押し切って、大津に造営された新京
 *壬申の乱における近江朝の敗北によって滅びた
 ☆宮廷歌人にも理解しかねた遷都の意図
 *老練の政治家藤原鎌足、反対しなかった
 *それは、仏教伝来のころにまで遡る

⛳近江朝廷は異国
 ☆蘇我氏と物部氏の二大豪族の対立と抗争
 *蘇我氏が、仏教の受容に賛成した
 *物部氏が反対して、激しい争いが生じた
 (鎌足は、物部氏側の先頭に立っていた)
 ☆仏教の受入れの思想的な対立ばかりでなく
 *二大豪族の根強い対抗意識が、互いの敵意を熾烈なものにした
 ☆崇仏派の蘇我氏の勝利となる争い
 *中臣勝海連は斬殺されたので、中臣氏の直系は、ここで断たれ
 ☆仏教の興隆に尽くした聖徳太子
 *在世中幼少期を鎌足で過ごしたが、蘇我氏の側について奔走した
 *神職の家系に生まれながら、太子は長男の定恵を出家させた
 *又、仏法を学ばせ唐へ留学させた

新政府の成立
 ☆唐制に倣って八省百官の制が定められて、律令国家の基礎が作られた
 *大化改新の設計図を書いたのは、鎌足であったろうが
 *そのもとになっていたのは、唐の政治体制であった
 ☆古代史上最大の政治改革の道を開いた鎌足
 *天智天皇か藤原の氏姓を賜った
 ☆何から何まで唐風の宮廷は
 *国内に忽然と出現した「異国」のようだった

⛳翼のある虎
 ☆大友皇子の著しい成長ぶりが目立つまでは
 *大皇弟として大海人皇子がずっと皇位継承者とされてきた
 ☆大海人皇子は皇位の継承を固辞して、皇位は皇后に譲り
 *太政大臣の大友皇子に諸政をお任せになりますようと歌を詠む
 *「臣は請願ふ、天皇の奉篤に、出家して修道せむ」
 ☆去り行く大海人皇子一行の後ろ姿を見て
 *ある人がいった、「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と
 ☆吉野に着き天智天皇崩御し大海人皇子は行動を起こした
 *大海人皇子に従ったのは、御后と草壁皇子、忍壁皇子
 *それに舎人二十人ほどと、女嬬十人あまり
 *伊賀国の山中で、この国の郡司たちが数百の軍勢を連れて従う
 *伊勢の鈴鹿で、伊勢の国司らが五百の軍勢とともに、 一行を出迎えた
 ☆大海人皇子は、伊勢神宮に鎮座する天照大御神を遥拝する
 *これは今回の戦の大義を宣明する儀式であった
                      (敬称略)
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⛳出典、『「古事記」の真実』



「壬申の乱」「近江朝廷」「律令国家」「大友皇子」「大海人皇子」
(ネットより画像引用)

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