🌸天武天皇の鑑は聖徳太子1
⛳壬申の乱の遠因
☆壬申の乱、わが国の古代史における最大の内乱
⛳壬申の乱の遠因
☆壬申の乱、わが国の古代史における最大の内乱
*結果として「日本」という国家の原型を生み出した
*壬申の乱の理由、中大兄皇子(天智天皇)の近江遷都にあった
*壬申の乱の理由、中大兄皇子(天智天皇)の近江遷都にあった
*二百年の長きの飛鳥を捨てて、畿外の大津へ移ること
*貴族と豪族や朝廷の官吏、庶民にも納得できる話ではなかった
☆官民双方の反対を押し切って、大津に造営された新京
☆官民双方の反対を押し切って、大津に造営された新京
*壬申の乱における近江朝の敗北によって滅びた
☆宮廷歌人にも理解しかねた遷都の意図
*老練の政治家藤原鎌足、反対しなかった
*それは、仏教伝来のころにまで遡る
⛳近江朝廷は異国
☆蘇我氏と物部氏の二大豪族の対立と抗争
☆宮廷歌人にも理解しかねた遷都の意図
*老練の政治家藤原鎌足、反対しなかった
*それは、仏教伝来のころにまで遡る
⛳近江朝廷は異国
☆蘇我氏と物部氏の二大豪族の対立と抗争
*蘇我氏が、仏教の受容に賛成した
*物部氏が反対して、激しい争いが生じた
(鎌足は、物部氏側の先頭に立っていた)
☆仏教の受入れの思想的な対立ばかりでなく
(鎌足は、物部氏側の先頭に立っていた)
☆仏教の受入れの思想的な対立ばかりでなく
*二大豪族の根強い対抗意識が、互いの敵意を熾烈なものにした
☆崇仏派の蘇我氏の勝利となる争い
*中臣勝海連は斬殺されたので、中臣氏の直系は、ここで断たれ
☆仏教の興隆に尽くした聖徳太子
☆仏教の興隆に尽くした聖徳太子
*在世中幼少期を鎌足で過ごしたが、蘇我氏の側について奔走した
*神職の家系に生まれながら、太子は長男の定恵を出家させた
*又、仏法を学ばせ唐へ留学させた
⛳新政府の成立
☆唐制に倣って八省百官の制が定められて、律令国家の基礎が作られた
*大化改新の設計図を書いたのは、鎌足であったろうが
*そのもとになっていたのは、唐の政治体制であった
☆古代史上最大の政治改革の道を開いた鎌足
☆古代史上最大の政治改革の道を開いた鎌足
*天智天皇か藤原の氏姓を賜った
☆何から何まで唐風の宮廷は
*国内に忽然と出現した「異国」のようだった
⛳翼のある虎
☆大友皇子の著しい成長ぶりが目立つまでは
*大皇弟として大海人皇子がずっと皇位継承者とされてきた
☆大海人皇子は皇位の継承を固辞して、皇位は皇后に譲り
*太政大臣の大友皇子に諸政をお任せになりますようと歌を詠む
*「臣は請願ふ、天皇の奉篤に、出家して修道せむ」
*「臣は請願ふ、天皇の奉篤に、出家して修道せむ」
☆去り行く大海人皇子一行の後ろ姿を見て
*ある人がいった、「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と
☆吉野に着き天智天皇崩御し大海人皇子は行動を起こした
*大海人皇子に従ったのは、御后と草壁皇子、忍壁皇子
☆吉野に着き天智天皇崩御し大海人皇子は行動を起こした
*大海人皇子に従ったのは、御后と草壁皇子、忍壁皇子
*それに舎人二十人ほどと、女嬬十人あまり
*伊賀国の山中で、この国の郡司たちが数百の軍勢を連れて従う
*伊勢の鈴鹿で、伊勢の国司らが五百の軍勢とともに、 一行を出迎えた
*伊賀国の山中で、この国の郡司たちが数百の軍勢を連れて従う
*伊勢の鈴鹿で、伊勢の国司らが五百の軍勢とともに、 一行を出迎えた
☆大海人皇子は、伊勢神宮に鎮座する天照大御神を遥拝する
*これは今回の戦の大義を宣明する儀式であった
*これは今回の戦の大義を宣明する儀式であった
(敬称略)
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⛳出典、『「古事記」の真実』


「壬申の乱」「近江朝廷」「律令国家」「大友皇子」「大海人皇子」
(ネットより画像引用)
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