慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

『非僧非俗』『節談説教(ふしだん)』『他力本願』

2025年01月06日 | 宗教
🌸おわりに2

一般の信徒が加持祈薦を行うわけにはいかない
 ☆念仏や題目とは根本的に違う
 *念仏を唱える「称名」や、題目を唱える「唱題」なら
 *誰もが容易に実践できる
 *庶民にとってはわかりやすい信仰のあり方で、実践の方法である
 ☆浄土真宗と日蓮宗との違い
 *浄土真宗では、僧侶と俗信徒のあいだに断絶がない
 *宗祖である親鸞が「非僧非俗」の立場をとることを鮮明にし
 *自ら妻帯し、子どもももうけた
 *浄土真宗では、血縁を通して信仰が継承される
 *浄土真宗では、姻戚関係によってネットワークが広がっていった
 *これも、浄上真宗が強固な社会的基盤を確立する上で意味をもった
 ☆日蓮宗の場合には、宗祖である日蓮が『法華経』を重視し
 *その点で天台宗の影響を色濃く受けてきたこともあり
 *僧侶と俗信徒とのあいだは明確に区別されている
 ☆日蓮宗の俗信徒は法華講を組織し
 *独自に信仰活動を実践
 *それが近代においては日蓮系の新宗教へと発展していく

創価学会が日蓮正宗と長年密接な関係をもち続けた理由
 ☆在家信者の組織としては
 *儀式の軌行者としての僧侶を必要としたからだ
 ☆創価学会の日蓮正宗からの決別
 *在家仏教としての性格をより鮮明にしたものだ
 ☆浄土真宗の場合には
 *民衆を教化するための手段を開拓した
 *親鸞の生涯は『親鸞伝絵』に描かれ
 *絵解きを通して、浄土真宗の門徒たちは
 *親鸞の生涯の歩みに接した
 *「節談説教」が発達したのも、浄土真宗においてである
 (リズムを活用した芸能としての性格を併せ持つ説教の方法)
 *聴衆となった門徒たちは、「南無阿弥陀仏」の念仏で
 *説経師の説教に答えた
 *説教の場は陶酔を伴う盛り上がりを示す
 ☆決定的なのは、浄土真宗の教えが極めてシンプルなことにある
 *その核にあるのが「他力本願」の教えである
 *浄土真宗では、他力は、仏や菩薩の加護の力をさし
 *浄土真宗では、阿弥陀仏の本願に頼って成仏することを意味する
 *阿弥陀仏は、その過去世において
 *衆生を救済する願いを立てたとされているのである
 *弥陀の計らいにすべてを委ねることこそが
 *門徒の信仰の究極のあり方であるとくり返し説かれる
 *その本願を信じて念仏を唱えさえすれば
 *極楽往生がかなうというわけである
 ☆日蓮宗の場合には
 *日蓮が、正しい仏法のあり方を理論的に追求していったこともあり
 *その教えは相当に複雑である
 *日蓮の考えを広めるために、信徒には「折伏」という
 *布教の実践も課せられる

⛳浄土真宗も、江戸時代には寺請制度のもとで
 ☆葬式仏教としての性格をもつようになっていく
 *他の宗派の場合にも同じで
 *葬式仏教という体制が確立されなければ
 *近代が到来して以降、仏教寺院が存続は難しかったかもしれない
 ☆葬儀の簡略化が、とくに都市部を中心に進んでいる
 *それは、檀家離れでもあり、菩提寺をもたない家が増えている
 *民間の霊園の経営主体は、宗教法人になっている仏教寺院になるが
 *「宗教・宗派問わず」という形で墓地が募集されることが多くなり
 *そこに墓を求めても、檀家関係を結ばないケースが増えている
 ☆檀家は本来、寺院を支えるスポンサーとしての役割を果す
 *檀家離れは寺院の経営基盤を失わせる
 *この傾向は、これからもいっそう進んでいくことだろう
 ☆それでも、こうした事態に対する危機意識
 *宗派においても、寺院においても、まだまだ乏しい
 ☆死亡者の数は増えており、その傾向はこれからも続く
 *死亡者が増えるということは、葬式の件数が増えるということ
 *まだ仏教式の葬儀を選択する家が多いため
 *葬式仏教は一見安泰に見えるからである
 ☆団塊の世代が消滅した後からは
 *死亡者の数は減っていき、葬式の件数の減少も進む
 *葬儀の簡略化はいっそう進み、檀家離れも加速されている
 *その時点で、本格的な葬式仏教の危機が訪れるはずだ
 *仏教宗派のあり方というものはどのように変化しているのだろうか
 *今の時点では、それを予想することは難しい
 *葬式を出すときにも、宗派を気にしなくなっているかもしれない
 ☆仏教の宗派というものは、いかなる意味をもつのだろうか
 *宗派の歴史は、日本人が仏教とどのようなかかわりをもってきたか
 *その格闘の歴史でもある
 *多様な仏教宗派が生まれ
 *現代にまで受け継がれているということは
 *それだけ日本人が仏教に多くを期待してきた証でもあるのだ
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください 
⛳出典、『浄土真宗の檀家は多い』




『非僧非俗』『節談説教(ふしだん)』『他力本願』
(『浄土真宗の檀家は多い』記事他より画像引用)
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『浄土真宗=庶民が信仰』『南無阿弥陀仏=極楽浄土』

2025年01月05日 | 宗教
🌸おわりに(1)  

「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」
 ☆浄土真宗
 *浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、真宗高田派、真宗佛光寺派などがある
 *信徒の総数は1200万人を超えている
 *この数は、日本の総人口の約10分の1にあたる
 (一時は、創価学会の会員を抱え込んだ日蓮正宗が多い時期もあった)
 *現在では、浄土真宗が仏教宗派のなかで一番多い
 *明治に入る時点では、日本全体の3分の1が浄土真宗だった
 ☆浄土真宗のお坊さん全区でよく見る
 *北陸や広島周辺の「真宗地帯」は比率が多い
 *大阪や名古屋などの都市部にも多い
 ☆葬儀の際に、僧侶が説法を行うのも浄上真宗の特徴である
 *なぜこれほど浄土真宗は日本の社会に浸透しているのだろうか
 *浄土真宗は、庶民の信仰だからである

日蓮宗も信者に多くの庶民を抱えている
 ☆京都や江戸において当時法華宗と呼ばれていた日蓮宗
 *町衆や町人の信仰を集めた
 ☆浄上真宗の方は、真宗地帯を中心とした地方の
 *農民や漁民、職人などを信徒として取り込んだ
 ☆2つの宗派の葬儀の形式が違う
 *天台宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗、浄土宗と違うのは
 *そのことが影響している
 ☆浄土宗と浄土真宗
 *法然と親鸞が師弟関係にあり同じ浄土教信仰だが
 *葬儀の形式が異なり、浄土真宗では授戒が関係しないので
 *戒名とは言わず、法名と呼ぶ、授戒した名前ではない
 ☆浄上真宗と日蓮宗、具体的な救済の手段が備わっている
 *浄土真宗では、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることが
 (極楽往生に結びつくとされる)
 *日蓮宗では「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることで
 (「利益」がもたらされるとされている)
 *他の宗派には、この念仏や題目に相当するものがない
 ☆浄土真宗には密教的儀式が無い
 ☆他の宗派においては
 *密教の儀礼である加持祈蒔が救済手段として活用されている
 *天台宗や真言宗の教えに深く密教が浸透していることは知られている
 *禅宗でも、兼修禅の立場をとる場合、密教が取り入れられている
 *浄土宗においてさえ、その総本山である京都の知恩院では
 (境内に火伏せの神が祀られている)
                       (敬称略)
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『浄土真宗=庶民が信仰』『南無阿弥陀仏=極楽浄土』
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『日蓮宗分裂』『日像』『日親』『創価学会』『小樽問答』

2025年01月04日 | 宗教
🌸2度も流罪に処された日蓮の日蓮宗3

日蓮6人の弟子たちと、その後
 ☆日蓮は亡くなる際に、日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の6人を
 *直接の弟子と定め、後事を託し、彼らは「六老僧」と呼ばれる
 *身延に墓所を作り、そこに身延山久遠寺を建立した
 *六老僧は、順番でその墓守にあたることになっていたが
 *日興にもっばらその役割が負わされた
 ☆地頭の波木井氏と不和になった日興
 *富士に移り、そこに大石寺を建てる
 *日興の系統を引く門流は「富士門流(興門派)」と呼ばれる
 *他の老僧の後を継ぐ形でいくつかの問流が形成されていく
 ☆門流のあいだでは日蓮の教えに対する理解で隔たりがあり
 *大きく「勝劣派」と「一致派」に分かれた
 ☆鎌倉の比企谷妙本寺を拠点とした一致派が日蓮宗の主流派を形成する
 *勝劣派の富士門流は、
 *宗祖日蓮を崇拝の対象とする「日蓮本仏論」を唱え
 *さらにいくつもの門流に分裂していく
 ☆日朗の門流のなかで、布教の面で大きな功績をあげたのが日像
 *日像は、最初は日朗に師事し、その後日蓮の直弟子になった
 *日蓮の死後に京都へ出て、そこで布教活動を展開する
 *京都は比叡山延暦寺のおひざ元、日像はその圧迫を受けた
 (3度も院宣によって京都から追放される)
 *日像は、今小路に妙顕寺を創建する
 *妙顕寺を拠点に、日蓮の教えは近畿、北陸、西国、奥羽へと広がる
 ☆現代でも使われる用語に「不惜身命」がある
 *危険を冒してまで布教に自らのすべてを賭ける人間が輩出されていった
 *その代表が室町時代の日親である
 *拷問を受けた際に、焼けた鍋をかぶったまま説法を行った伝説ある
 *日親は、「不受不施」の考え方を説き、それを実践した
 *日親は、日蓮の教えに立ち戻るため
 *他の宗派の信者からは布施を受けず
 *供養もしないという不受不施の立場をとった
 *これが後に不受不施派を生むことにつながっていく
 *不受不施派は、江戸時代に厳しく弾圧される

⛳庶民層に広がった日蓮信仰
 ☆京都に進出した日蓮宗は、公家や武家のあいだにも広まっていく
 *その信仰は町人や農民などの庶民層にも広がる
 ☆題目が武器になった
 *「南無妙法蓮華経」の題目を唱えれば
 *現世において利益がもたらされる信仰が
 *京都の町衆のこころをつかんだ
 ☆日蓮宗の信徒による一揆は、「天文法華の乱」で敗れ
 *信徒は追放されて、6年にわたって日蓮宗の信仰が禁教となる
 *その後許され、復興が進んでいった
 ☆織田信長の安土城下において
 *日蓮宗と浄土宗とのあいだで法論が戦わされ
 *日蓮宗はこの法論に敗れる
 ☆江戸時代に入ると、日蓮宗のなかには
 *比叡山が焼き討ちにされた結果
 *天台宗の僧侶が流れ込んだ影響もあり
 *天台教学を中心に研鑽されるようになる
 ☆江戸幕府がおかれた江戸
 *庶民層のあいだに日蓮宗の信仰が広まっていく
 *日蓮宗独自の祈蒔が信仰を集める上で大きな役割を果たす
 ☆日蓮は、空海の真言宗や、天台宗の密教の修法を否定した
 *しかし、近世に入ると、日蓮宗でも加持祈蒔が行われる
 ☆日蓮信仰が現世利益を生む構造が作り上げられたことで
 *江戸庶民には、日蓮を崇拝の対象とする「祖師信仰」も広がった
 *同じく庶民層に広がった浄土真宗の場合も共通するが
 *近世以降の日蓮宗寺院では、日蓮像を祀る祖師堂が伽藍の中心になる
 ☆近代に入るとこうした法華講を母体に
 *日蓮系の新宗教教団が組織されていく

創価学会と日蓮宗の関係
 ☆戦前の日本社会、大東亜共栄圏を実現するためのスローガン
 *「八紘一宇」が謳われたが
 *それを最初に提唱したのは田中であった
 *田中は、天皇が法華信仰をもつことによって
 *「国立戒壇」が建立され、「広宣流布」が実現されると説いた
 ☆この考え方は戦後の創価学会に引き継がれるとともに
 *日蓮宗自体にも影響を与えた
 ☆創価学会は、戦前に「創価教育学会」としてはじまるが
 *創立者の牧口常三郎が治安維持法違反などでとらえられ
 *獄死したために、壊減的な打撃を受けた
 ☆戦後、創価学会として再興したのが戸田城聖であった
 *戸田は、唱題と折伏によって現世利益が実現されると説き
 *瞬く間に会員を増やしていった
 ☆創価学会が、その後巨大教団に発展していくのは
 *高度経済成長がはじまり、急速な都市化が進むなかで、
 *新たな都市民を教団に取り込むことに成功したからだ
 ☆昭和30年「小樽問答」という出来事が起こった
 *創価学会の幹部と日蓮宗の僧侶が北海道の小博で法論を戦わせた
 *判定者が用意されておらず
 *本来は勝ち負けがつかないものであった
 *当時参謀室長の地位にあった池田大作が
 *日蓮宗が法論に負けたというイメージを作りあげた
 *その後、日蓮宗は創価学会との法論を禁じる
 ☆日蓮宗は、創価学会に対する警戒心を強めることに結びつく
 *戦後の日蓮宗の大きな課題は、創価学会対策におかれることになる
 ☆日蓮宗は、日蓮正宗を加えれば、500万人を確実に超える
 *日蓮宗も、かなり大きな勢力を誇っている
 *だが、教義の違いなどをめぐって対立が起こり
 *それが多数の分派の原因になっている
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                    (小樽問答)
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『本尊曼茶羅』『一念三千』『久遠実成』『四箇格言』

2025年01月03日 | 宗教
🌸2度も流罪に処された日蓮2

日蓮2度目の流罪で書いた『開目抄』『観心本尊抄』
 ☆日蓮は、世界の宗教の歴史のなかでも
 *希有な、予言を的中させた予言者だ
 ☆的中させたからといって
 *周囲から高く評価されたゎけではない
 *日蓮の他の宗派に対する、批判が激化し
 *周囲との軋蝶は増し、日蓮は2度目の流罪に処せられる
 ☆日蓮は、冬の佐渡に流された
 *日蓮は、与えられた食糧も乏しく
 *相当にきつい生活が続いたらしいが
 *そのなかでも日蓮は、『開目抄』と『観心本尊抄』を書き上げている
 ☆日蓮宗には、「佐前佐後」という言い方がある
 *日蓮の思想は佐渡に流罪では大きく変化し、深められた
 *自分が天台の立場にのっとって正しい主張を展開しているに
 *なぜ迫害を受けなければならないのかと深く考えを進めていった
 *自分は前世において、『法華経』を誹(そし)るという
 *重大な罪を犯しているという認識に到達するとともに
 *いかなる迫害を受けても『法華経』の教えを世に伝えていく
 ☆日蓮は「法華経の行者」としての自覚を得るに至る
 *それは、『開目抄』の終わの
 *「我日本の柱とならむ」ということばに示されている
 ☆日蓮は、「南無妙法蓮華経」という題目に
 *『法華経』の教え全体が示されているという立場をとり
 *題目を唱える唱題を強く勧めるようになる
 ☆中心に「南無妙法蓮華経」大書し、
 *周辺に神仏の名を配した字による曼茶羅を描くようになる
 *日蓮宗において「本尊曼茶羅」と呼ばれ、本尊として位置づけられる
 ☆題目に『法華経』のエッセンスが込められているという
 *日蓮の主張を正当化する上で役割を果たしたのが「一念三千」の教え
 *煩悩にまみれた個人のこころのなかに世界のすべてが備わっており
 *そのなかには仏界も含まれるとする考え方である
 *日蓮は、唱題さえ実践すれば、成仏が実現できると解釈した

⛳日蓮の他宗派への徹底した批判と、法華経への解釈

 ☆題目や唱題のとらえ方
 *日蓮が徹底的に批判してきた法然の「南無阿弥陀仏」の念仏
 *その念仏行と共通しており、日蓮がそこから影響を受けた可能性がある
 ☆題目の意義の強調
 *日蓮宗の信仰を庶民に広げる上で重要な役割を果たす
 *題目さえ唱えれば成仏できるなら、難しい教えを学ぶことも
 *苦しい修行を実践する必要もないからだ
 ☆日蓮はまた「久遠実成」ということを言う
 *釈迦は昔に悟りを開き、それ以来、衆生の救済にあたってきたとした
 *釈迦を一神教における唯一絶対神に近いものとしてのえ方だ
 *一念三千とともに日蓮独自の思想である
 *それゆえに他の仏教者には認めることができない教えであった

日蓮の「四箇格言」
 ☆念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊と主張し
 *他の宗派を徹底して批判、否定したが
 *一念三千や久遠実成というとらえ方は
 *逆に他の宗派から批判、否定されるものでもあった
 ☆日蓮は、『法華経』に独自の解釈を施すことによって
 *他の宗派と衝突せぎるを得ない教えの体系を築き上げていった
 *それは、日蓮宗の排他性に発展していくことになるし
 *戦闘的な宗教家としての日蓮像を作り上げることにも貢献した
 ☆身延の日蓮のもとでは、50人前後の弟子たちが一緒に生活する
 *そこには日蓮宗という教団の萌芽が見られる
 *その教団を経済的に支える信徒も各地に生まれていた
 *日蓮は、この時期、信徒に対して数多くの書状を書いている
 *書状の数々に目を通すと、日蓮がどういつた人物であったかが分る
 ☆日蓮の予言は次々と的中したが
 *『立正安国論』で述べたことが幕府に受け入れられることはなく
 *3度目の流罪の噂が立ったり、日蓮の門弟が弾圧を受ける
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『日蓮の2度の流罪』『立正安国論』『創価学会』

2025年01月03日 | 宗教
🌸2度も流罪に処された日蓮の日蓮宗1

数多く映画や舞台が作られた開祖日蓮
 ☆日蓮宗の宗祖である日蓮
 *親鸞などに比べると、 一般の評価、とくに知識人層の評価は高くない
 *親鸞が、深く自己の世界に沈潜し
 *人間の抱える普遍的な苦や悪の問題に取り組んだ真摯な思想家に対し
 *日蓮はひたすら他の宗派を攻撃した
 *排他的で狂信的なアジテーターと見なされている
 ☆日蓮の実像
 *戦闘的な宗教家というイメージと異なる側面が次々と出てくる
 *少し前の時代までは、宗祖の中で日蓮はもっとも人気を集めていた
 *日蓮が登場する歌舞伎の作品もある
 *能楽にも日蓮が出てくるものがある
 ☆日蓮は、戦前から戦中
 *国難を救う宗教家という側面がクローズアップされた
 *『日蓮と蒙古大襲来』と『日蓮』の映画
 *制作した大映のプロデューサー熱烈な日蓮信仰をもっていた
 *能楽や歌舞伎に登場する日蓮には、戦闘的な宗教家という面影はない
 *戦前に、皇国史観と日蓮信仰を合体させた
 *「日蓮主義」の運動が盛り上がりを見せた
 *敵国を調伏し、日本を救う宗教家としての日蓮の姿が宣伝された
 *日蓮のイメージが変わってしまった

戦後の高度経済成長の時代の日蓮のイメージ
 ☆創価学会をはじめ、立正佼成会や霊友会といった
 *日蓮系の新宗教、その勢力を急速に拡大し
 *活発な布教活動を展開したことも
 *日蓮のイメージを変えることにつながった
 ☆創価学会の会員は、「折伏」と称して
 *他の宗教や宗派を猛烈に攻撃した
 *その姿が、彼らが信奉する日蓮にも投映されてしまった

⛳「国が乱れるのは法然の浄土宗のせい」
 ☆日蓮は、膨大な量の書き物を残している
 *書き手の人柄が伝わってくる書状が多く含まれている
 ☆他の宗祖の場合、浄土系の法然や親鸞がその代表だが
 *絵巻物によってその人柄が伝えられている
 *絵巻物に描かれた宗祖は神格化されており
 *それを実像としてとらえるわけにはいかない
 ☆日蓮宗で「遺文」と呼ばれている遺文のなかには、
 *日蓮自筆のものも多い、それは「(御)真筆」と呼ばれている
 *真筆でかなりの量があり、日蓮の人となりが伝わってくる
 *それは戦闘的な宗教家のイメージに合致するものではない
 ☆日蓮は、天台宗の立場から法然を批判した
 *『法華経』にこそ最高の教えが示されていると主張した
 *法然の依拠した「阿弥陀経』や「無量寿経』は
 *「方便」の教えが示された経典、「不了義経」ということになる
 ☆日蓮は、その後、法然の浄土宗だけではなく
 *他の宗祖や高僧、宗派を批判するようになっていく
 ☆日蓮は、伝教大師最澄を高く評価し
 *自分の仏典についての理解が最澄にもとづくものであるという
 *立場を変えなかった
 *日蓮は、最後まで天台の枠から外れることはなかった
 *日蓮宗では、天台教学が重視された

⛳伊豆への流罪と、的中した予言
 ☆日蓮は、自分の考えを「立正安国論』という文書にまとめた
 *『立正安国論』提出し、鎌倉幕府の最高権力者に直談判に及んだ
 *日蓮自身、「海女が子なり」と記しているが
 *遺文に示された文筆の才能や教養から考えると
 *ただの漁民の家に育ったとは考えにくい
 *かなり知的な環境で育ったのではないかという説もある。
 ☆日蓮の生涯30代後半になるまでのこと、明らかになってはいない
 *日蓮は、30代はじめにかけて、延暦寺の学僧だった
 *日蓮は30代半ばで、幕府がおかれた鎌倉に出てきた
 *国が乱れるのは、間違った仏法を説く法然の浄土宗が
 *巷に普及しているせいだと考えるようになる
 ☆鎌倉周辺の浄土宗の信徒は激しく日蓮を攻撃した
 *日蓮の時頼への訴えは、浄土宗信徒にとって
 *自分たちを危険にさらすものに映ったに違いない
 *結局日蓮は伊豆へ流罪になる
 ☆伊豆への流罪は2年で許される
 *日蓮は、再度、鎌倉に出てくる
 *日蓮の周囲には門人も生まれており
 *その活動は広く支持されるようになっていくが
 ☆日蓮は、念仏宗だけではなく、空海の真言宗に対する批判を強めた
 *周囲の宗教家と論争をくり広げるようになる
 ☆重要なことは、文永5日蓮の勢力を急速に拡大していた
 *蒙古から鎌倉幕府のもとに国書が届いたことである
 *幕府はそれを拒否するが
 *それは蒙古襲来が高まったことを意味した
 ☆日蓮は、時頼に提出した『立正安国論』のなかで
 *浄土宗の流行を放置しておくならば
 *日本は「他国侵逼難」と『自界叛逆難」に見舞われると予言していた
 (前者は、日本への侵略、後者は日本での反乱)
 *その予言は的中した形になった
 ☆多くの宗教家が神仏からのメツセージを取り次ぐ形で
 *世の終わりが近づいているとする終末論的な予言を行ってきた
 *そうした予言は、必ずや外れる
 ☆日蓮の場合には、偶然にも的中した形になった
 *日蓮が蒙古の動向について何らかの情報を得た上で
 *他国侵逼難を唱えていたとは思えないので
 *これは偶然のことであったが
 *日蓮の運命はこれで変わっていく
                       (敬称略)
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⛳出典、『浄土真宗の檀家は多い』

             『法華経』は佛教の生命
             日蓮の軌跡と流罪場所(佐渡島・伊豆)

『日蓮の2度の流罪』『立正安国論』『創価学会』
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『禅苑清規』『螢山清規』『葬式仏教の生みの親』

2025年01月01日 | 宗教
🌸葬式仏教の生みの親でもある道元の曹洞宗3

⛳葬式仏教生みの親としての曹洞宗
 ☆『禅苑清規』
 *悟りを開いて亡くなった僧侶のための「尊宿葬儀法」と
 *修行段階で亡くなった雲水のための「亡僧葬儀法」
 *2つの葬儀のやり方が示されていた
 ☆『螢山清規』
 *後者が在家の一般信徒の葬儀に応用された
 *もともと雲水のための葬儀の方法であった
 *剃髪して出家したことにし
 *その上で戒律を授け、戒名を授ける部分も含まれる
 *死者をいったん僧侶にするわけである
 ☆死後に出家するというのは
 *仏教の伝統的な考え方からはずれるが、この方法は定着する
 ☆曹洞宗以外の他の宗派にもこの方法伝わっていく
 *曹洞宗は、今日にまで受け継がれている「葬式仏教」の生みの親だ

 ☆日本の仏教も当初は葬儀とは関係をもたなかった
 *日本仏教が死の領域とかかわっていくのは
 *浄上教信仰が流行してからだ
 *曹洞宗で編み出された葬儀の方法を通して
 *故人の供養という領域に進出したことは大きい

曹洞宗が全国的に伸びていった要因
 ☆葬儀、法要と仏教が扱ってこなかつた領域の開拓である
 ☆曹洞宗が広がりを見せていくなかで
 *永平寺と大乗寺との関係も修復され
 *永平寺は曹洞宗の中心的な道場としての役割を果たすようになる
 ☆曹洞宗に関係した人物
 *江戸時代初期に活躍した鈴木正三、武士であったが、参禅の経験を重ね
 *キリシタンを論理的に批判する『破吉利支丹』の著作も書いている
 *民衆教化ということでは、江戸時代後期の僧侶、良寛
 *良寛は寺をもたないまま、さまざまな活動を展開した
 (良寛は和歌、漢詩、狂歌、俳旬、俗謡、書に巧み)

⛳近代に入ってからの曹洞宗
 ☆総持寺の焼失と移転
 *紹瑾が能登に建てた総持寺は、曹洞宗の中心的な寺院として
 *長く君臨していたが、明治31本堂から出火し伽藍の多くが焼失した
 *総持寺は、現在地の横浜市鶴見区に移転している
 *能登の総持寺も復興され、現在では総持寺祖院となっている
 ☆曹洞宗は大教団
 *駒沢大学、愛知学院大学、東北福祉大学、鶴見大学、駒沢女子大学等
 *多数の大学や短大を開設している
 ☆永平寺と総持寺とが初期の時代に対立していたこともあり
 *曹洞宗には、永平寺派と総持寺派という2つの派閥が存在している
 ☆曹洞宗が大教団であるということは
 *宗門に対して多額の上納金が入ってくることを意味する
 *それは本来宗門の運営や布教活動に使われるものだが
 *多額の金が入ってくると、とかく問題が起こりやすくなる
 ☆曹洞宗は、大教団ゆえの問題を抱えている
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください 
⛳出典、『浄土真宗の檀家は多い』




『禅苑清規』『螢山清規』『葬式仏教の生みの親』
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『曹洞宗、カルト宗教』『正法眼蔵』『螢山紹瑾』

2024年12月31日 | 宗教
🌸葬式仏教の生みの親道元の曹洞宗2

カルト宗教と見なされた道元とその弟子たち
 ☆道元の宗教思想を説明することは容易ではない
 *入宋時における道元の悟り明らかにできない
 *帰国した道元は京に上り、明全のいた建仁寺に身を寄せる
 ☆道元は、建仁寺に3年ほどいた後、深草の安養院に退く
 *当時は、禅宗が比叡山の反感を買うようになっていた
 *迫害を避けるために隠棲したとも言われている
 *安養院に近い宇治に興聖宝林寺を創建する
 *越前に赴くまで10年間の時代に
 *後に道元の語録である『正法限蔵随聞記』を編纂
 *永平寺二世となる懐じょうが入門している
 *達磨宗からは義介、義いん、義演が道元へ入門している
 *この出来事は、オウム真理教のことを連想させる
 ☆出家して禅の修行に専念しようとする道元の集団
 *比叡山からの強い迫害を受けた
 *興聖宝林寺の時代には、「カルト宗教」と見なされていた
 ☆道元の信徒には、波多野義重という武将
 *義重は、鎌倉幕府の執権北条義時の三男、重時の娘をめとっている
 ☆波多野家は越前志比庄に地頭として所領を有していた
 *そこを道元に寄進し、傘松峰大佛寺が建立され、永平寺へと発展した
 *永平寺は、道元の考えを実践する禅の道場となっていく

⛳難解かつ87巻の大著『正法眼蔵』
 ☆道元は膨大な量の著作や説法集などを残している
 *主著は『正法眼蔵』で、それは87巻にも及ぶ大著で
 *『正法眼蔵』自体の内容は相当に難解である
 ☆一般には、『正法眼蔵随聞記』によって
 *道元の思想が理解されるとしているが
 *これは、弟子の立場にあった懐じょうが編纂したもの
 *そこには編者の解釈が相当に入っている
 ☆親鸞の『歎異抄』と同様
 *道元の考えと理解していいのか大きな問題をはらんでいる.
 ☆道元があらわしたものとして重要なのが、『永平清規』
 *禅の修行を行う雲水の生活規範を定めたもの
 *ここには、生活自体を修行としてとらえる
 *道元の考え方が明確に示されており
 *永平寺では実際にそれが実践に移された

⛳道元後、曹洞宗純粋禅から兼修禅ヘ
 ☆道元が亡くなった後の永平寺
 *道元の教えを守るか、教団としての発展をめざすかで対立が起こる
 ☆後者の立場に立った永平寺三世の徹通義介
 *永平寺を下り加賀大乗寺へ移り、義介に従う者は多かった
 *永平寺は住職のいない無住の寺となり、廃寺同然の状態にまで衰えた
 ☆永平寺と加賀大乗寺の対立関係は、室町時代の終わりまで続く
 *両者は没交渉の状態となる
 *加賀大乗寺の方は発展していくが
 *永平寺は衰えたままだった
 *永平寺は見捨てられたような状態にあった
 ☆曹洞宗を興隆へと導くことになるのが螢山紹瑾
 *曹洞宗では、道元を「高祖」とするのに対して
 *紹瑾を「太祖」としており、両者を宗祖的な存在と位置づけている
 *紹瑾は、宗派を大きく発展させたという点で
 *浄土真宗における蓮如のような存在なのである
 ☆紹瑾は、加持祈蒔などの密教を取り入れ
 *神祗に対する祭祀も導入した
 *現世利益の実現を求める武家などに信仰を広めるためだった
 ☆曹洞宗は、純粋禅から兼修禅へと
 *臨済宗がたどったのとは逆の道をたどることになる
 *南北朝時代から室町時代になると、地方の豪族の庇護のもとに
 *曹洞宗は大きく発展し、教勢は加賀や能登にとどまらず
 *越中から奥羽、西では近江、丹波、伯者、備中、九州にまで伸びた
 *室町時代後半には、遠江、駿河、三河にも広がった
 *それほど曹洞宗は広がっていった理由
 *そこにはやはり紹瑾の改革が生きていた
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『葬式仏教』『林下』『黙照禅』『身心脱落』

2024年12月30日 | 宗教
🌸葬式仏教の生みの親道元の曹洞宗

宗教の各宗派によってその雰囲気はかなり違う
 ☆一つ宗派としての性格が際立っているのが浄土真宗
 *僧侶と門徒と呼ばれる俗信徒の距離が近いため
 *門徒は僧侶を奉ったりはしない
 ☆宗派の特徴が出るのが曹洞宗
 *曹洞宗は、浄土真宗とは反対で、僧侶は必ず剃髪し
 *墨染めの衣を身にまとっている
 *曹洞宗は臨済宗とともに禅系の教団である
 *曹洞宗の僧侶の、いかにも禅僧らしい姿は
 *大本山永平寺の厳しい修行に結びついていく
 ☆曹洞宗は、臨済宗の中心の五山制度の枠の外におかれた
 *「林下」として区別されてきた
 *臨済宗が、密教などとの兼修する兼修禅としてはじまったのに対し
 *曹洞宗では、当初から座禅による悟りをめざす純粋禅が追求されてきた
 *永平寺では、禅が実践されてきただけではなく
 *生活全体に修行としての意味が与えられている

⛳セブン、イレブン店舗数をしのぐ寺院数約1万5千ヵ寺
 ☆永平寺で1年間修行した野々村馨の手記『永平寺修行記』によると
 *煩悩を打ち砕く手立てとして暴力を正当化している
 ☆筆者が知る曹洞宗の僧侶のなかには
 *それがこころの傷になっている人物もいる
 *戦時中の日本軍においても暴力が横行していたが
 *禅寺から取り入れられたものだとさえ言われている
 ☆今の「葬式仏教の原型」曹洞宗が作り上げた
 *他の宗派は、同じ禅宗の臨済宗のみならず
 *曹洞宗にならって仏式の葬儀の方法を編み出していった
 ☆曹洞宗は、母体ともなった臨済宗とは異なり
 *多くの信徒を抱える大教団、約706万人という信者数
 *曹洞宗の寺院の数は1万4604カ寺にも達する
 *この数も各宗派のなかで一番多い
 *曹洞宗の寺院の数は、セブンイレブンを超えている
 ☆曹洞宗は不思議な宗派だ
 *純粋禅を追求、生活のすべてを修行とする
 *システムを築き上げた宗派が
 *なぜ葬式仏教の生みの親となり、大教団にまで発展したのか

⛳帰国して「自分には仏法はない」と言った開祖道元

 ☆曹洞宗を開いた宗祖は道元
 *中国にも曹洞宗が存在していた
 ☆中国での曹洞宗の歴史のなかで重要なことは
 *座禅によって悟りをめざす「黙照禅」を唱えたことである
 *道元の禅は、黙照禅とも言えるわけで、その影響は明らかだ
 ☆中国での禅家五家
 *潟仰、雲門、法眼の三家は消滅し、臨済と曹洞だけが残った
 *中国において臨済が大きく発展したのに対して
 *曹洞の勢力はそれほど伸びなかった
 *それは、日本で五山が栄えた時代に似ている
 ☆道元以降、中国の曹洞宗が日本に影響を与えることはなかった
 *道元は14歳のときに比叡山にのぼり、出家している
 *道元は禅を学ぶようになり、明全とともに宋に渡っている
 *明全は入宋して3年で亡くなる
 ☆道元は、悟うの体験を「身心脱落」と呼んでいる
 *道元の説法を集めた『永平広録』のなかで
 *道元は、中国から何ももたずに還ってきたので
 *自分には仏法など備わっていないと述べている
 *道元の説法は禅間答の性格を帯びている
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『黄檗宗』『白隠慧鶴』『看話禅』『信者数』

2024年12月29日 | 宗教
🌸禅文化が花開いた臨済宗+黄檗宗(3)

⛳黄檗宗の影響と中興の祖・白隠慧鶴
 ☆戦乱の時代が訪れて、室町幕府の力が衰えていくにつれ
 *五山派の禅寺は経済面での後ろ盾を失い、衰退の方向へむかう
 *むしろ、妙心寺や大徳寺の系統の方が力をもつ
 *近世になるとその系統が臨済宗を超える
 ☆明の時代に入った中国からの黄檗宗の伝来
 *黄檗宗を伝えたのは、隠元隆埼という中国人の禅僧
 *黄葉宗は中国には存在せず、隠元は臨済宗の禅僧だった
 *黄檗宗の名が用いられるようになるのは明治時代に入ってから
 *当初は、「臨済正宗」を名乗っていた
 ☆中国の臨済宗
 *太鼓腹の布袋を弥勒菩薩として祀る信仰が広まっており
 *日本の万福寺でも布袋が祀られた
 ☆中国の臨済宗と日本の臨済宗のあいだに
 *乖離が生まれていたことが、後の黄檗宗の独立に結びつく
 ☆江戸時代に黄彙宗が定着していくのは
 *寺請制度が導入されたため
 *九州の長崎に多かった中国人の残留者も
 *自分たちが所属する寺院を必要とし、黄檗宗の寺院を建立したから
 ☆黄檗宗の寺院では
 *禅僧が集団生活を送り、修行にいそしんでいた
 *日本の臨済宗の禅僧たちにも影響を与えた
 *禅僧が修行を実践する場としての僧堂の復興運動が起こる
 ☆臨済宗は黄檗宗の影響を受けながら
 *江戸時代の中期には、白隠慧鶴が登場
 *宗派の復興に力を発揮して、臨済宗中興の祖とされる
 *白隠が導入したのは「看話禅」であった
 ☆看話禅
 *座禅によって悟りをめざす「黙照禅」と対比されるもので
 *老師が「公案」を与えることで弟子を悟リヘと導くもの
 *看話禅は、中国の南宋の時代に確立された
 *白隠が創案した公案の代表的なものに、「隻手音声」がある
 (常識から禅僧を解き放とうとするものである)
 *白隠に特徴的なことは、独自の禅画を描いたこと
 *白隠の場合も、禅が芸術表現と結びつくことで広がりをもった

⛳臨済宗各派の成り立ち
 ☆臨済宗南禅寺派
 *五山の制度が確立されたときに
 *別格とされた南禅寺を本山とする
 *南禅寺は、応仁の乱で焼矢し、再興もままならなかった
 *それを江戸時代に復興させたのが金地院崇伝
 ☆臨済宗国泰寺派
 *富山県高岡市にある国泰寺を本山とし、中世には栄えたが
 *明治の廃仏毀釈で哀え、現在の建物は
 *明治時代に山岡鉄舟の助力で再興されたもの
 ☆臨済宗向嶽寺派
 *甲斐の武田氏の庇護を受けて発展
 ☆臨済宗天龍寺派
 *京都嵐山の天龍寺を本山とし、開山は夢窓疎石
 *室町時代には、京都五山の筆頭として栄えた
 ☆臨済宗相国寺派
 *開山はやはり夢窓疏石である
 *本山は、足利義満が創建した相国寺
 *金閣寺(鹿苑寺)と銀閣寺(慈照寺)もこの派に属している
 ☆臨済宗永源寺派
 *滋賀県東近江市の永源寺を本山とする
 ☆その他の臨済宗寺院
 *臨済宗方広寺派、浜松市の方広寺が本山で、明治に南禅寺派から独立
 *臨済宗佛通寺派、広島が中心で、明治までは天龍寺派に属していた
 *臨済宗興聖寺派、京都の興聖寺を本山とする

⛳臨済宗の各派の信者数少ない
 ☆他の宗派に比較して、信徒の数は多くはない
 *最大の臨済宗妙心寺派で、信徒数は約35万人
 *最も臨済宗国泰寺派で、わずか25人
 ☆臨済宗という宗派の存在感が他の宗派に比べて薄い要因
 *注目度が低いのも、教団の規模が小さく
 *いくつもの派に分かれているからである
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『京都・鎌倉五山』『禅文化』『禅寺』

2024年12月27日 | 宗教
🌸禅文化が花開いた臨済宗+黄檗宗(2)

⛳禅文化の中心を担った京都五山と鎌倉五山
 ☆禅宗は鎌倉時代に、北条氏をはじめ武家のあいだに受容された
 *武家は、戦闘に従事し死と隣り合わせで生きていた
 *武家にとって、死の覚悟をしながら修行にいそしむことを説く禅
 *禅における悟りは、死の覚悟と等しいものだと考えられた
 *禅は、密教を取り入れなければ公家のあいだには広まらなかった
 ☆南都六宗や天台、真言宗
 *奈良時代から平安時代に確立された
 *朝廷や公家と密接な関係をもち
 *階層出身の僧侶でなければ出世が叶わなかった
 *武家出身の僧侶は、禅宗に行くしかなかった
 ☆鎌倉時代末期、五山の制度が作られた
 *南宋の五山をモデルとしたもの
 *足利義満の時代、南禅寺を別格で、京都五山と鎌倉五山が確立された
 (京都五山は、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)
 (鎌倉五山は、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)
 *五山の下に「十利」に定められ、その下に、各地の禅寺が所属する
 *他の禅寺は「林下」として区別された
 *曹洞宗もこの林下に入る
 ☆室町時代後期
 *五山派が、幕府の弱体化によって衰えていく
 *林下の大徳寺派や妙心寺派が、戦国大名や堺の豪商などに広がる

禅文化として花開いた水墨画・茶道・五山文学
 ☆禅寺では、純粋禅を追求するようなところ
 *座禅の実践が仏道修行の中核に位置づけられていた
 *禅僧の目的は、そうした修行を通して悟りを開くことにある
 ☆悟りを表現するものとして
 *禅宗においては独自の宗教美術が形成されていった
 ☆相彫刻、禅寺の講堂や食堂に常時安置されている
 *弟子たちの修行を見守ることになった
 *禅の悟りの境地、生死の境涯を超越するものであることを示した
 ☆禅宗に発している美術「水墨画」
 *水墨画は、足利義満に愛好され、日本の水墨画にも多大な影響を与えた
 ☆日本に特異な芸術「茶道」
 *茶道は、日常の世界から一歩距離をおいた簡素な空間において
 *茶を嗜むことによって脱俗の境地を味わおうとするもの
 *禅の精神に通じ、「茶禅一味」ということばさえ生まれた
 ☆室町時代の五山では、「五山文学」の漢文学が隆盛を迎える
 *禅寺では、中国語が日常的に用いられた
 *禅寺は、中国との外交や貿易の上で媒介者の役割を果たす
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『臨済宗』『曹洞宗』『興禅護国論』『建仁寺』『円覚寺』

2024年12月26日 | 宗教
🌸禅文化が花開いた臨済宗+黄檗宗(1)

⛳各本山が林立した臨済宗特有のあり方
 ☆臨済宗は禅宗
 *臨済宗は、栄西の教えをもとに組織されていない
 *宗派は、一つにまとまっていない
 *臨済宗建仁寺派や臨済宗東福寺派等
 *各々、派で分かれ、それぞれが独自に宗教法人組織である
 *「臨黄合議所」は臨済宗14派と黄檗宗が属している
 *臨済宗建仁寺の開山は栄西だが、東福寺の開山は聖一国師
 ☆曹洞宗は禅宗
 *道元が師事した明全は栄西の弟子であった
 *道元の試みは、他の臨済宗の行き方とはかなり異なる
 *曹洞宗は、宗派としての独自性を強めていく
 ☆日本人の禅僧は頻繁に中国に渡り
 *中国からも数多くの禅僧が渡来した
 *日本の禅宗は、ずっと中国の影響下にあった
 ☆中国における禅宗の歴史
 *禅は瞑想法の一種で、中国にはインドから2世紀中頃には伝えられた
 *中国仏教は経典やその解釈を中心にしていたが、禅は実践を伴うもの
 *禅宗は、当時の中国人を大いに魅了した
 *中国各地には禅の修行を行うための禅院が次々と建てられた
 *禅宗、日本には栄西以前にも中国から禅は伝えられていた

⛳鎌倉時代に入り、栄西が伝えた禅が定着した
 ☆鎌倉時代、武家の時代が到来していたから
 *禅はとくに武家に受け入れられていく
 ☆先行する南都六宗や天台、真言宗は朝廷や公家に受容され
 *貴族階級の生活と密接な結びつきをもっていた
 ☆比叡山延暦寺で出家得度した栄西
 *天台の教えと密教、そして戒律を学ぶために入宋した
 *南宋で禅が流行しているのに接して、それに感化された
 ☆日本に戻った栄西は、禅宗を開くことを宣言する
 *比叡山の衆徒の反感を買い、禅宗停止の宣旨が下る
 *栄西は、自分の立場を明確にし、『興禅護国論』をあらわす
 *幕府が生まれた鎌倉に新天地を求め、寿福寺と建仁寺を建立する
 *栄西の禅は、天台の教えや密教をあわせて学ぶ「兼修禅」であった
 *建仁寺でも当初から、真言、天台、禅の兼修が定められていた
 *伝統は栄西以降の臨済宗にも受け継がれていく
 ☆戒律を守る持戒の強調も栄西の禅の特徴
 *戒律にのっとった生活を送りながら禅を実践することが重視された
 *これは、同時代の法然の方向性とも重なってくる
 ☆栄西には、『喫茶養生記』の著作もある
 *禅の影響を受けて茶道が成立したことで
 *栄西が茶を持ち込んだという伝承が生まれたのかもしれない
 *茶にはカフェインが含まれており、眠気覚ましの効果がある
 *茶は、座禅を実践する禅宗には最適な飲料だった

⛳夏目漱石も学んだ円覚寺の釈宗演
 ☆禅の臨済宗と除霊とは結びつきにくい
 *歴史的な背景を踏まえて考えると臨済宗の僧侶が
 *密教的な実践である除霊を行っても不思議ではない
 ☆禅が密教と結びつきながら広まっていく
 *純粋禅を追求する動きも生まれるの道元の試みであった
 *純粋禅を定着させるために、南宋の禅僧を日本に招く
 *その先駆けとなったのが蘭渓道隆である
 *幕府の執権となった北条時頼はこの蘭渓に帰依した
 *時頼によって鎌倉に建長寺が建立された際には
 *蘭渓が開山として招かれている
 ☆北条時宗によって宋から招かれたのが無学祖元
 *時宗は、蒙古襲来の際の目蒙双方の戦死者を弔うために
 *円覚寺の創建を発願し、無学をその開山に迎えた
 *無学の教え、日本人の禅僧高峰顕日から夢窓疎石に伝えられ
 *円覚寺は臨済宗円覚寺派の本山となる
 ☆夢窓疎石は、純粋禅を追求するよりも兼修の傾向が強かった
 *甲斐や土佐、上総、相模などで布教を行い
 *京に上って南禅寺の住持となる
 ☆円覚寺から、今北洪川、釈宗演、朝比奈宗源の著名な禅僧が輩出された
 *世界に禅を広めた鈴木大拙、釈宗演とともに今北の弟子である
 *慶應義塾の福沢諭吉に学んだ釈も世界に禅を広める
 *釈のもとには、夏目漱石も参禅している
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『蓮如の軌跡』『非僧非俗』『神祗不拝』『お東騒動』

2024年12月25日 | 宗教
🌸親鸞が開いた日本仏教浄土真宗4

⛳中興の祖蓮如と本願寺
 ☆東国の門徒を基盤とした勢力に比較し
 *本願寺の方はふるわなかった
 ☆中興の祖八世の蓮如があらわれたとき
 *本願寺は天台宗の門跡寺院の青蓮院の末寺だった
 *宗派として独立さえしていなかった
 ☆本願寺が青蓮院の末寺であった
 *比叡山の天台宗の流れのなかにあった
 *当時の比叡山は南都北嶺として絶大な権力を誇っていた
 *弱小の本願寺は、比叡山の庇護下に入ることで
 *その存続をはかろうとした
 ☆浄土真宗で発展を遂げていったのは
 *高田門徒や荒木門徒から発展した佛光寺門徒の方だった
 ☆蓮如は、大谷の本願寺が破壊され、越前の吉崎に赴く
 *それが、本願寺を大きく発展させる契機になる
 *本願寺は新興の寺社勢力として多くの人間を集めることに成功した
 *吉崎は寺内町として急速にその勢力を拡大していく
 *加賀一向一揆を経て、加賀国を支配するに至る
 *浄土真宗の信仰は北陸全体に広まり「真宗王国」と呼ばれる
 ☆蓮如は、吉崎を去り山科本願寺の再興を開始する
 *蓮如の隠居所石山に石山本願寺が建てられる
 *石山本願寺も寺内町を形成し
 *そこには多種多様な人間が集まってきた
 ☆浄上真宗の信仰のみ結ばれていたわけではない
 *加持祈稿を実践する人間たちなども含まれていた
 *本願寺には、家老などの職もあり
 *武家と変わらない体制を作り上げた
 ☆畿内や北陸を中心に
 *各地には門徒によって構成される地域集団が生まれており、
 *集団は本願寺とネットワークを結び、本願寺の指示に従って行動した
 *戦国時代の戦乱は、絶えず敵味方が変わる複雑な様相を呈していくが
 *本願寺は、室町幕府と密接な関係をもち、それを後ろ盾にしていた
 ☆加賀国では、本願寺が実質的に守護の役割を果たした
 *将軍家の年貢の徴収さえ行っていた

⛳本願寺が世俗の権力と密接な関係をもった背景
 ☆代々の宗主(門主)血縁で受け継がれていったことが影響している
 *宗主の子女は世俗の権力者と婚姻を結び
 *公家や武家と姻戚関係を確立していったからである
 ☆宗派の頂点に立つ者が血縁では継承されていかない他の宗派では
 *起こう得ないことである
 ☆石山本願寺は、天下統一をめざす織田信長を相手に
 *戦闘と和睦をくり返しながら10年にわたって対立する
 *最終的には当時の門主である顕如が石山本願寺を退く
 ☆その際に宗派内部で対立が起こったこともあり
 *本願寺は東西に分裂し
 *全国の門徒も東西に分かれる

本願寺殆ど廃仏毀釈の影響を受けなかった
 ☆江戸時代の東西本願寺
 *徳川幕府と密接な関係を結び
 *体制に対して反抗することはなくなった
 *証如が摂関家である九条家と親子関係を結ぶ
 *それ以降も公家社会と密接な関係を結んでいた
 *本願寺には巨大な御影堂や本堂建てられていく
 ☆教団が民衆から集めた金にものを言わせて
 *その権勢を誇るという体制は、後の新宗教の先鞭をつけた
 *浄土真宗も新宗教も、庶民を信者として多く取り込んだのが共通する
 ☆明治に時代が変わる際に
 *仏教界は、神仏分離と廃仏毀釈の影響を受けた、深刻な打撃を被る
 ☆本願寺の信仰では、神仏習合の傾向が希薄であり
 *あまりその影響を受けなかった
 ☆象徴となる人物
 *東本願寺の僧侶であった清沢満之である
 *蓮如以来禁書の扱いを受けていた『歎異抄』の再評価を行い
 *雑誌『精神界』を刊行して、宗門の改革運動をはじめ
 *教団の近代化をめざし、その精神は戦後の「真宗同朋会運動」といった
 *個人の信仰を強調する宗内の改革運動に受け継がれていく
 ☆東本願寺では、門主で親鸞の血統を継ぐ大谷家の当主に
 *権力が集中する構造ができ上がっており
 *改革派との対立から、「お東騒動」が勃発する
 *他の宗派には見られない血による継承という本願寺の特徴が関係する
 ☆本願寺、親鸞は出家と俗人の中間的な形態「非僧非俗」の立場
 *僧侶は、世俗の社会を捨てた出家にはあたらないと考えられている
 *他の宗派では僧侶の資格を得るために
 *長期にわたる修行を必要とするが、 本願寺ではそれがない
 ☆僧侶と一般の門徒のあいだに基本的に差がないわけで
 *門徒は僧侶に対しても対等の立場から発言する
 ☆本願寺には「神祗不拝」の伝統がある
 *神棚を祀ったり、神社に参拝することを拒否したりする
 *霊が実在しないという立場をとり
 *葬儀の際の「清めの塩」を否定する
                       (敬称略)
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『蓮如の軌跡』『非僧非俗』『神祗不拝』『お東騒動』
(ネットより画像引用)
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『不殺生戒』『歎異抄』『覚如』『報恩講』

2024年12月24日 | 宗教
🌸親鸞が開いた日本仏教の最大宗派、浄土真宗3

東国での親鸞の活躍
 ☆東国では『親鸞伝絵』で親鸞の事績について記された部分2段
 *京都や奈良にしかいたことのない覚如
 *東国での親鸞について何ら情報をもっていなかったようだ
 *覚如が、東国に赴くのはその後のことである
 ☆近年、東国では親鸞のことが注目されるようになった
 *常陸を中心に、親鸞は多くの信徒を生み出していった
 *常陸に河川が縦横に流れ、多くの湖沼や沼地が広がっていたことで
 *そこでは魚や鳥などの捕獲を生業とする「川の民」が生活していた
 *川の民は、山の民と稲作などに従事しない非農業民を形成していた
 ☆武士にとっても川の民にとっても重大な問題
 *彼らが日々、仏法において戒められた殺生を行っていること
 *仏教徒が守るべき基本的な戒が「五戒」筆頭に
 *「不殺生戒」があげられている
 *殺生を犯した者は、「等活地獄」に落とされると信じられていた
 *武士や川の民は、大罪を犯した「悪人」だった
 ☆悪人に『歎異抄』の悪人正機説は根本的な救いを与える
 *親鸞が東国で長く活動を展開した理由があったのかもしれない
 *親鸞は、東国の民が求める殺生の罪からの救いを与えることで
 *門徒を増やしていったものとも考えられる
 ☆東国では、親鸞が活動を展開する以前から
 *聖徳太子や善光寺に対する信仰が広まっていた
 *浄上真宗のなかでは、今日まで聖徳太子信仰が盛んである
 *親鸞の六角堂での体験などが影響している

⛳親鸞「承元の法難」が起こり、京で念仏が禁じられた
 ☆親鸞は、京では法然門下での活動
 *継続することは難しいと考え越後に向かった
 *親鸞は、聖徳太子信仰や善光寺信仰が確立されている東国に拠点を定めた
 *東国の人々が求める悪人正機や他力本願の教えを深めていった
 ☆親鸞は、60歳を超えて京に戻った
 *親鸞は、それ以降、『教行信証』の補足を行ったり
 *他の著作を執筆したり、浄土教信仰を歌にして
 *易しく説いた和讃の制作にいそしみ、90で没している

『親鸞伝絵』を制作した、曾孫の覚如
 ☆親鸞は宗教家として抜群の注目度を誇っているにもかかわらず
 *その生涯にかんしては不明な点があまりにも多い
 *生前には、社会的に目立った活躍をしていなかったことが大きい
 *しかも、活動の場は京や鎌倉から離れた東国であった
 ☆法然のように活躍をしていれば
 *公家の日記などに登場したはず
 ☆親鸞が大教団の宗祖として
 *またカリスマ性のある宗教家として
 *今日強い存在感を示しているのは
 *親鸞を祀り上げようとする試みがなされた
 *親鸞を宗祖とする浄土真宗の教団が大きく発展していったから

 ☆事情はキリスト教の場合とも重なっている
 *カリスマ的な宗教家は自らの教えを直接残さないのが通例
 *教えは、生涯の事績を含めて、弟子たちがまとめ上げ伝えていく
 *イエス、キリストがそうであるように、親鸞もその典型です

⛳親鸞の曾孫覚如、比叡山で最初は天台宗や法相宗の教えを学んでいた
 ☆親鸞の孫であった如信や高弟たちから親鸞のことを教えられ
 *後継者としての自覚を深めていく
 *親鸞の遺徳を偲ぶ「報恩講」をはじめている
 ☆報恩講は、現在でも浄土真宗における重要な行事になっている
 *覚如は『親鸞伝絵』を制作、法然の伝記、『拾遺古徳伝』の編纂も行う
 *これは、法然から親鸞へと教えが受け継がれたこと
 *浄土真宗の立場で強調する試みだった
 ☆自らを親鸞、如信に次ぐ本願寺三世と位置づけ
 *宗主を血脈相承することを鮮明にする
 *血縁では結びついていない東国の門徒集団と
 *本願寺との差別化をはかる狙いがあったのかもしれない
 ☆だが当時、浄土真宗のなかで発展を遂げていったのは
 *高田門徒や荒木門徒から発展した佛光寺門徒の方だった
                       (敬称略)
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『親鸞伝絵』『六角夢想』『建永の法難』

2024年12月23日 | 宗教
🌸親鸞が開いた浄土真宗(2)

⛳親鸞、謎の生涯1(出生)
 ☆親鸞の生涯を伝えるもっとも古いものが、『親鸞伝絵』
 *文章と絵によって親鸞の生涯を描き出したもの
 *文章の部分だけを取り出したものは『御伝抄』と呼ばれる
 *作ったのは、親鸞の娘である覚信尼の孫にあたる覚如
 *親鸞は、妻帯しており、血筋でその信仰が伝えられていった
 ☆『親鸞伝絵』が成立したのは、親鸞が亡くなって33年後
 *それが事実が証明されていないない
 *親鸞自身は日野家の出身ではないという説もある
 ☆親鸞、貴族の出身であったとしても
 *親鸞の父とされる日野有範、その叔父たちにしても
 *才能はあっても地位が低く、貴族社会のなかで出世しない人間たち
 *親鸞の生まれが、その後の生涯に大きな影響を与えたとは思えない

⛳親鸞、謎の生涯2(夢告の体験)
 ☆親鸞が貴族の出身かどうか『親鸞伝絵』で
 *「六角夢想」と呼ばれる段に記されている
 ☆六角堂は、聖徳太子ゆかりの寺とされている
 *比叡山を下りた親鸞は、そこに100日間こもり
 *来世の安穏について祈ったところ、95日日に聖徳太子があらわれた
 *親鸞は、その意味を教えてくれる人物を求めて、法然のもとに赴く
 ☆「六角夢想」の段では、観音菩薩が白い袈裟を着てあらわれ
 *親鸞に女犯すとも、我、玉女の身となりて犯せられると告げた
 *前世の業で、戒律を破り女性と性的な関係を結ぶ必要があるなら
 *観音菩薩自身がその相手になるというのである
 *僧侶の妻帯が厳しく禁じられるのは近世に入ってからである
 ☆近代の浄土真宗の宗派や、真宗系の知識人のあいだでは
 *親鸞が妻帯したという行為を高く評価しようとする傾向が強い
 *浄土真宗は僧侶の妻帯を認めてきた唯一の宗派なのだ
 *親鸞は性欲の悩みを抱えて六角堂にこもったと解釈される

親鸞、謎の生涯3(法然との師弟関係)
 ☆親鸞は法然のもとに弟子入りした
 *生涯にわたって法然を師と仰いでいた
 *親鸞は法然に絶対的に帰依していた
 ☆比叡山から念仏を停止するよう訴えが出されたとき
 *法然が「七箇条制誠」をあらわして
 *弟子たちに対して軽率な行動をとらないよう呼びかけた
 *そこには弟子たちも署名しており、当時親鸞の名前も含まれている
 *親鸞は、法然の信頼が厚かった
 ☆親鸞は、法然の高弟であったと言えないのでは
 *『親鸞伝絵』で、親鸞は弟子たちの
 *リーダー役であるかのように描かれているが
 *この絵伝を書いた覚如の願望のあらわれだったのでは

親鸞、謎の生涯4(流罪)
 ☆「建永の法難」で、法然やその弟子たち、流罪や死罪に処せられた
 *親鸞もその際に、越後へ流罪になったとされているが
 ☆当時、流罪の対象となる国は、遠流、中流、近流の3つに分類された  
 *遠流の地は、伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐、土佐とされていた
 *法然が土佐に流されたとされたのも
 *土佐が遠流の地と定められていたから
 *佐渡は遠流の地で、日蓮や世阿弥などが流されたことで知られる
 *越後自体は違う、越後は中流でも近流でもない
 ☆親鸞が流罪に処せられたということは
 *親鸞側の歴史資料以外にはまったく記されていない
 *越後に赴いたのは、すでに結婚していた恵信尼の
 *故郷だったからかもしれない
 *叔父の宗業が越後権介に任命されていたからかもしれない
 ☆親鸞は流罪になっていない
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『親鸞』『出家とその弟子』『歎異抄』『悪人正機説』

2024年12月22日 | 宗教
🌸親鸞が開いた浄土真宗(1)

⛳近代になって見出された新たな親鸞像
 ☆浄土真宗は、日本で最大の仏教宗派である
 *浄土真宗を開いた親鸞は、宗祖のなかでも存在感が際立っている
 *カリスマ性は、空海や日蓮も親鸞と肩を並べる
 *親鸞の人間性のなかには、近代的自我に通じるものがあり
 *その生き方自体が現代の人間にアピールするところがある
 ☆親鸞について書いたり、研究したりする人間はその苦悩に共感し
 *そこに自らの魂の救済への可能性さえ見出そうとする
 *これは、空海や日蓮については起こり得ないことである
 ☆親鸞像が注目を集めるようになったのは、近代に入ってから
 *親鸞と言えば、『歎異抄』のことを思い浮かべる人が多い
 *蓮如は、『歎異抄』を事実上禁書扱いしている
 *明治以前には、門徒のあいだでも、その存在は知られていなかった
 ☆親鸞が、広く知られるようになるのは、明治時代に
 *浄土真宗の近代化をめざした清沢満之らによってである
 *唯円と親鸞の物語を戯曲として描いた『出家とその弟子』
 *こうしたものがなければ、「人間親鸞」への関心は高まらなかったかも

親鸞の虚像と実像
 ☆親鸞の同時代の歴史的な資料が欠けていいる
 *明治時代、歴史学者により「親鸞非実在論」さえ唱えられていた
 ☆親鸞非実在論が完全に否定されたのは
 *西本願寺から、『恵信尼消息』の10通の書状が発見されてから
 *この書状は、親鸞の妻である恵信尼が
 *越後から京都で親鸞の世話をしていた
 *末娘の覚信尼に宛てたものだった
 *親鸞の実在が明確に認められた
 ☆親鸞にかんしては依然として謎の部分が多く残されている
 *親鸞の読いた教えがいったいいかなるものだったのか不明である
 *親鸞の教えなら、『歎異抄』と思う人も多い

『歎異抄』は親鸞の死後書かれた
 ☆弟子の唯円が親鸞のことばとして書き記したもの
 *本人が直接に筆をとったものではない
 *唯円は、自分とは異なる形で親鸞の教えを理解しようとしている
 *人間たちを批判するために、『歎異抄』を編纂した
 *果たして、本当に親鸞自身が言ったことなのか
 *それは必ずしも明確ではない
 ☆親鸞自らがその教えを書き残したもの殆どない
 *そのために、親鸞の思想と言えば
 *もっぱら『歎異抄』が用いられる傾向が続いている
 ☆「悪人正機説」が親鸞の思想の核心にあるとされるが
 *悪人正機説は法然に遡るものだともされており
 *親鸞の独創ではない可能性がある

 ☆親鸞の場合、その実像が必ずしも明確ではなく
 *反対に虚像の方が大きくふくらんでいる
 *それは、開祖や宗祖全体に共通して言えることではあるが
 *親鸞については、その虚像がふくらみすぎている
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『親鸞』『出家とその弟子』『歎異抄』『悪人正機説』
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