慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

『神皇正統記』9(世の中の仕組みを俯瞰する)

2020年11月25日 | 天皇論
🌸『神皇(じんのう)正統記』9(世の中の仕組みを俯瞰する)

 ☆日本人のルーツを皇位継承を考える
 ☆日本の国家体制の基本は、寛容性と多元性にあることを説く
 ☆著者、北畠親房

⛳『神皇正統記』著者、北畠のプロフィール
 ☆北畠親房は、村上天皇を開祖とする村上源氏の庶流北畠家の出身
 ☆大納言まで出世し、政治の表舞台知りながら出家する
 ☆隠居し、南朝の正当性主張した『神皇正統記』を著した
 *中世の歴史書として、慈円の著書『愚管抄』と双肩を並べる
 *本書は、1339年頃執筆されたと推定される
 ☆天皇をとりまく武家の勢力争いが激しい時代
 *京都の北朝と吉野の南朝、朝廷が2つに分かれる騒乱
 ☆『神皇正統記』
 *天皇は日本国の絶対的王であると説く
 *南朝にこそ正当性があると説く
 *影響力を失いつつある天皇が、日本の国王だと主張
 *日本は、大日本者神國也と北畠は定義する
 ☆神道を原理とする国であるとした

⛳『神皇正統記』概要
 ☆神代、天皇の祖先により日本列島が創造された
 ☆天照大神
 *日本固有の神「異朝」(中国、朝鮮、インド)とは違う神と説く
 ☆『神皇正統記』は戦前・戦中
 *「他国よりも日本は優れている」との思想の根拠として誤読された
 *本書は日本が優れてるという排外主義的な言説の書ではない
 ☆「神道とは何か」を明らかにするため、インドや中国と比較した
 ☆親房が神代の時代からひもといた日本という国
 *仏教思想をベースに、天皇を中心とした中央集権国家として完成する
 *内部では、皇位継承の内乱や、天皇・公家間の勢力争いに翻弄される
 *最前線では常に武士が戦っていている
 ☆結果として、やがて天皇の権力は武士に奪われてしまう

⛳『神皇正統記』の意義
 ☆『神皇正統記』は、南朝の正当性を主張する以外
 *神代から中世に至る歴史的背景
 *後世に、国体での天皇という位置づけをひもとく重要な役割を果たす
 ☆天皇を絶対王とするが
 *仏教を寛容に取り入れて国家システムの基礎に置いた
 *大陸の文化、技術を積極的に取り入れるなどした
 *柔軟な考え方がその根本にあるとも説いた
 ☆徳川幕府が倒れ、再び天皇を中心とした国家、明治新政府になる
 *周辺諸国に侵攻することに活路を見出した軍部が台頭する
 *『神皇正統記』は、右翼思想のバイブルとして扱われるようになる
 ☆本書は時代時代において扱われ方が大きく変容してきた歴史書だ
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
⛳出典、『世界の古典』




『神皇正統記』9(世の中の仕組みを俯瞰する)
(ネットより画像引用)
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『日本書紀』後の歴代天皇(66代~70代)

2020年04月29日 | 天皇論
『日本書紀』後の歴代天皇(66代~70代)

第66代一条天皇
 ☆権勢を極める藤原氏に振りまわされた生涯
 *花山天皇の出家後に7歳で即位
 *外祖父である藤原兼家が摂政に就任した
 *兼家の没後は長男の道隆が関白を務める
 *道隆の娘を入内させて皇后に立てた
 ☆藤原道長は、道隆の子と熾烈な争いを制した
 *道長は娘の彰子を入内させて皇后に立てた
 *前例のない「一帝二后」を実現させた
 ☆一条天皇と道長の関係は悪かった
第67代三条天皇
 ☆冷泉天皇の第2皇子で、36歳で即位
 ☆叔父藤原道長との関係は悪かった
 ☆三条天皇は自分の子への譲位を望んだ
 ☆道長の権勢には逆らえず
 *一条天皇の子に位を譲った(後一条天皇)
第68代後一条天皇
 ☆道長にとり待望の外孫皇子(母は藤原道長の娘彰子)
 ☆三条天皇からの譲位を受けて9歳で即位
 *道長が摂政に任じられた
 *道長は三女を入内させ「一家三后」を実現させた
 ☆後一条天皇は、威子以外の妃はもたず
 *皇子に恵まれず崩御した
第68代後朱雀天皇
 ☆後一条天皇の同母の弟、藤原道長の圧力で皇太子となった
 ☆後朱雀天皇は才気にあふれる明るい性格の持ち主だった
 ☆政治の実権は関白の藤原頼通(道長の長男)が握っていた
 ☆疱蒼に罹患して37歳で亡くなった
第70代後冷泉天皇
 ☆後朱雀天皇の子で、藤原道長の外孫
 *政務は関白の藤原頼通に任せっぱなし
 *歌合や蹴鞠などの遊興にふけったという
 ☆頼通の娘を皇后としたが皇子には恵まれず崩御
 ☆藤原摂関家と外戚にもたない後三条天皇が即位
 *摂関家の勢いは弱まっていった
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『『日本書紀』と天皇126代』




『日本書紀』後の歴代天皇(66代~70代)
(『『日本書紀』と天皇126代』記事より画像引用)




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『日本書紀』後の歴代天皇(60代~65代)

2020年04月25日 | 天皇論
『日本書紀』後の歴代天皇(60代~65代)

第60代醍醐天皇
 ☆醍醐天皇は、「延喜の治」に取り組むも菅原道真の怨霊に苦しむ
 *藤原時平を左大臣、菅原道真を右大臣に任じて政務を任せた
 ☆醍醐天皇の治世中は摂政、関白が置かず、「延喜の治」と呼ばれる
 ☆荘園整理令施行、『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じている
 ☆晩年は菅原道真の怨霊に悩まされた
 *清涼殿落雷事件が起き、人々は道真の崇りと噂した
 *天皇は体調を崩し、その年に亡くなった
第61代朱雀天皇
 ☆藤原時平の弟・忠平が摂関職につき政治を補佐した
 ☆治世中には承平、天慶の乱が発生
 ☆富士山の噴火や地震などの災害が相次いだ
 ☆病弱で、弟の村上天皇に譲位し30歳で崩御
第62代村上天皇
 ☆藤原忠平が亡くなったあとは摂関を置かず
 ☆天皇親政に取り組んだ
 ☆財政を再建するために租税の確保や倹約を行う
 ☆文化事業の発展にも力を尽くした
 ☆村上天皇の治績は「天暦の治」と呼ばれる
 ☆理想の政治のモデルケースとなった
 ☆実際に政治を動かしたのは左大臣の藤原実頼
第63代冷泉天皇
 ☆奇行が多く、即位式を人目のつきにくい紫農殿で執り行った
 *天皇の奇行が外にさらけ出されるのを防ぐ狙いがあった
 ☆冷泉天皇は在位わずか3年、上皇として42年間過ごした
第64代円融天皇
 ☆兄・冷泉天皇からの譲位を受けて即位
 ☆藤原実頼が摂政に就任
 ☆藤原氏のなかで摂関職をめぐる争いが起こるようになる
 *自分の娘を天皇に入内させて権勢を高める行為
 ☆藤原兼家は、娘を円融天皇に嫁がせる
 *生まれた子が即位し、天皇の外祖父の地位を得た
第65代花山天皇
 ☆花山天皇は冷泉天皇の第1皇子で17歳で即位した
 ☆摂政の地位を狙う藤原兼家の陰謀で出家
 ☆在位わずか2年で退位に追い込まれた
 ☆法皇となったあとは西国の寺院を巡礼
 *「西国三十三所巡礼」として現在も受け継がれている
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出典、『『日本書紀』と天皇126代』


『日本書紀』後の歴代天皇(60代~65代)
(『『日本書紀』と天皇126代』記事より画像引用)

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『日本書紀』後の歴代天皇(54代~59代)

2020年04月24日 | 天皇論
『日本書紀』後の歴代天皇(54代~59代)

第54代仁明(にんみょう)天皇
 ☆嵯峨上皇の崩御後承和の変が起こる
 ☆淳和天皇の皇子が廃太子され、橘逸勢、伴健琴らが処分された
 ☆藤原良房の陰謀とされ、その後藤原氏による他氏排斥事件が起きる
 ☆仁明天皇の第1皇子である道康親王(文徳天皇)が皇太子になる
第55代文徳天皇
 ☆文徳天皇の母は、藤原冬嗣の娘・順子
 ☆藤原良房の娘・明子との間に清和天皇が生まれた
 ☆天皇は別の親王の立太子を望んだ
 *天皇は、良房の圧力には勝てず32歳の若さで亡くなった
 *藤原良房の暗殺説を唱える歴史学者もいる
第56代清和天皇
 ☆父の文徳天皇の崩御にともない、9歳で即位
 ☆政治の実権は、外祖父の藤原良房が握っていた
 ☆治世中には応天門の変が発生
 *良房の政敵が多数排除された
 ☆事件後、良房は初の摂政に任じられた
 ☆清和天皇の孫は臣籍降下して源経基を名乗る
 ☆後裔には源頼朝や足利尊氏らがいる
第57代陽成天皇
 ☆父の清和天皇から位を譲られた
 ☆摂政の藤原基経(良房の養子)が政務を執った
 ☆基経との確執が表面化、宮中で殺人事件が起き退位する
 ☆陽成天皇、暴君という説もある
 *皇位継承を正当化させるための作為とも
第58代光考(こうこう)天皇
 ☆陽成天皇の退位後、藤原基経の推挙で即位した
 ☆即位後は基経を関白に任じ、政務の一切を任せた
 ☆謙虚な人柄で、優れた文化人だった
 ☆その後は、光孝天皇の後裔が皇統を継いだ
第59代宇多天皇
 ☆光孝天皇は、陽成天皇の弟を後継にすえる目的で
 *光考天皇の子女を臣籍降下させ、宇多天皇もそのひとり
 ☆光孝天皇が危篤に陥ると、後の宇多天皇、皇太子となる
 *崩御後に即位して宇多天皇に
 ☆即位後は藤原基経が政治の主導権を握った
 ☆基経が亡くなると親政を開始し、菅原道真を抜擢した
 ☆遣唐使の停止、『日本三代実録』等の編纂、官庁の統廃合実施
 ☆宇多天皇の治世は「寛平の治」と呼ばれる
 ☆宇多天皇醍醐天皇に譲位し、上皇の立場から道真を支えた
 ☆道真は、藤原時平の讒言で大宰府へ左遷された
 ☆道真の左遷を宇多上皇は、救うことができなかった
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「日本書紀」以降の天皇3(50~53代)

2020年04月21日 | 天皇論
「日本書紀」以降の天皇3(50~53代)

第50代桓武天皇
 ☆平安京への遷都と蝦夷討伐にまい進する
 *平城京では既存の仏教勢力が政治にも影響を及ぼす
 *桓武天皇は、山城国長岡に新都を造営した
 ☆造都の最高責任者だった藤原種継が暗殺される
 *天災や近親者の不幸などが相次ぐ
 ☆長岡京は不吉な都となり、都を平安京へ遷した
 ☆桓武天皇は蝦夷征討にも力を注ぐ
 *坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ東北地方へ派遣した
 ☆天台宗の祖である最澄を唐に派遣する
 ☆『続日本紀』の編纂を発案する
第51代平城天皇
 ☆父の崩御後に即位したが病弱
 *3年で弟の嵯峨天皇に位を譲った
 ☆藤原仲成・薬子兄妹にそそのかされ政権の奪回をはかった
 ☆嵯峨天皇側に機先を制され、出家に追い込まれた
第52代嵯峨天皇
 ☆三筆のひとりに数えられ華やかな文化を生み出す
 ☆薬子の変に際し、蔵人所という情報機関を新設
 ☆平安京の治安を維持する検非違使を設置する
 ☆嵯峨天皇の時代は、華やかな宮廷文化が花開いた
 ☆嵯峨天皇自身も書の達人として知られた
 *空海、橘逸勢とともに「三筆」と讃えられた
第53代淳和天皇
 ☆勘解由使を復活させた
 *国司が交代するときに生じる紛争を解決する
 ☆皇室の財政を健全化するため、勅旨田(ちょくしでん)を設置した
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「日本書紀」以降の天皇2(46~49代)

2020年04月19日 | 天皇論
「日本書紀」以降の天皇2(46~49代)

第46代孝謙天皇、第48代称徳天皇
 ☆道鏡を重用して仏教政策を推し進める
 ☆孝謙天皇時代
 *母の光明皇太后や藤原仲麻呂が国政を補佐
 *橘奈良麻呂の変を経て仲麻呂の権勢はさらに高まった
 ☆皇太子(淳仁天皇)に皇位を譲って太上天皇となった
 ☆太上天皇は、反乱を起こした仲麻呂を討った
 ☆再び皇位に就き、称徳天皇となった
 ☆称徳天皇は仏教に対する崇敬が篤く、仏教重視の政策を推し進めた
 ☆寵愛する道鏡を法王に任じた
 *こうした治世が不満を招く
 ☆女帝が亡くなると、道鏡は下野国へ左遷された
第47代淳仁天皇
 ☆孝謙天皇から皇位を譲られ淳仁天皇となった
 *淳仁天皇は、藤原仲麻呂との結びつきが深い
 *仲麻呂を太政大臣と同等の「太師」に任じた
 ☆仲麻呂は、孝謙上皇に追い詰められて反乱を起こし敗死する
 ☆淳仁天皇は廃位されて淡路に流された
 *その後「淡路廃帝」と呼ばれた
 *明治に入ってから「淳仁」と追認された
第49代光仁天皇
 ☆称徳天皇の崩御後、重臣によって後継者の選定が行われる
 ☆天智天皇の孫が、光仁天皇となった
 ☆皇統は天武系から天智系へ転換した
 ☆光仁天皇は、橘奈良麻呂、藤原仲麻呂の乱に関与した人々に大赦を与えた
 ☆天武系の皇后や皇太子を廃し、新たに桓武天皇を後継者にすえた
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「日本書紀」以降の天皇1(42~45代)

2020年04月17日 | 天皇論
時代によって変わった天皇の役割と歴史

 ☆8世紀には天皇を中心とした律令国家体制が完成
 *天皇は国政を動かす専制君主
 ☆律令体制が限界を迎え、皇族や貴族の王朝国家の時代へと移行する
 *朝廷では藤原摂関家が台頭
 *天皇は彼らによって担がれる存在となり、平安時代後期には院政が始まる
 ☆鎌倉幕府が開かれても、天皇と朝廷の権威は健在だった
 *天皇と朝廷の権威は、承久の乱を機に揺らぎ始めた
 *一時期、後醍醐天皇が権威の回復をはかった
 ☆応仁の乱後、天皇と朝廷の権威は完全に地に堕ちてしまった
 ☆織田信長や豊臣秀吉の尽力で朝廷の権威は再び回復
 ☆江戸幕府による朝廷の統制を経て、幕末期に尊王論が高まっていく
 ☆戦後、日本国憲法によって天皇は国民の「象徴」となる

42代文武天皇(大宝律令制定・遣唐使の再開)
 ☆草壁皇子の子で、持統天皇の孫
 ☆持統天皇から位を譲られて即位し、「大宝律令」を完成させた
 ☆唐との関係修復にも乗り出し、遣唐使を再開させた
 ☆25歳の若さで崩御し、第1皇子の首皇子(聖武天皇)は幼かった
 ☆文武の母が即位して元明天皇となった
第43代元明天皇(平城京への遷都)
 ☆天智天皇の皇女で、草壁皇子と結婚して3人の子を産んだ
 ☆首皇子(聖武天皇)が成人するまでの中継ぎの女帝
 ☆藤原不比等を重用し、和同開称の鋳造や平城京への遷都
 ☆『古事記』『風土記』の完成など、さまざまな事業を実行に移した
 ☆娘に天皇の位を譲った
第44代元正天皇(独身の女性天皇)
 ☆草壁皇子の第1皇女で、母の元明天皇から位を譲られて即位
 ☆独身で即位した女性天皇
 ☆藤原不比等らにより養老律令が編纂された
 ☆首皇子に天皇の位を譲った
第45代聖武天皇(仏教に救いを求める)
 ☆元明天皇の第一皇子で、元正天皇から皇位を譲られる
 *治世初期は皇族の長屋王が政権を担っていた
 *長屋王は、謀反の疑いをかけられて自害する
 ☆藤原不比等の4人の子が政治を動かし、再び藤原氏の時代が到来した
 ☆天然痘の大流行で、4兄弟は相次いで病没し、旧皇族の橘諸兄が台頭
 ☆藤原氏の復権を図った藤原広嗣が九州で反乱を起こす
 ☆聖武天皇は、次々と都を遷したが、災害や疫病は一向に収まらなかった
 ☆聖武天皇は、仏教に救いを求め、国分寺建立、慮舎那仏像造立の詔を発した
 ☆聖武天皇は、娘(孝謙天皇)に皇位を譲る
 ☆男性天皇では、初の太上天皇となった
 ☆東大寺に完成した慮舎那仏像の開眼供養が行われた
 ☆崩御後、聖武天皇ゆかりの品は、正倉院倉庫に納められた
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日本書紀巻30(持統天皇)

2020年04月16日 | 天皇論
律令国家の完成

 ☆謀反の罪で逮捕されて非業の死を遂げた大津皇子
 ☆草壁皇子も死去
 ☆持統天皇が即位し、律令を完成に導く

持統天皇による律令国家の完成
 ☆「律令」は律(刑法)と令(行政規定)を備えた国家の基本法
 *中国の隋で完成された
 ☆日本では天智天皇が導入に向けて動き始めた
 ☆天武天皇は、飛鳥浄御原令や正史である『日本書紀』の編纂に着手
 ☆天武天皇は、持統天皇とともに、律令国家の体制づくりにまい進した
天武天皇は、後継者問題に頭を悩ませた
 ☆皇后(持統天皇)は一人息子の草壁皇子に皇位を継がせたがった
 ☆天武天皇には、大津皇子という才気あふれる皇子がいた
 ☆天武天皇が亡くなると、大津皇子謀反の罪で死に追いやられた
 ☆草壁皇子も若くして亡くなる
 ☆皇后が即位して持統天皇となった
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出典、『『日本書紀』と天皇126代』










日本書紀巻30(持統天皇)
(『『日本書紀』と天皇126代』記事より画像引用)



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日本書紀巻28・29( 天武天皇)

2020年04月15日 | 天皇論
壬申の乱

 ☆大海人皇子が勝利し大友皇子は自害した古代最大の内乱
 ☆飛鳥に宮を巻して天武天皇として即位

中臣鎌足の没後の天智天皇
 ☆天智天皇が頼みとしたのはかっての仇敵・蘇我氏
 *蘇我赤兄を左大臣、蘇我果安を御史大夫に任じる
 *第1皇子の大友皇子を太政大臣に任じた
 ☆同母弟の大海人皇子を政権の中枢から外した
 *当時は、天皇は兄弟相続が一般的だった
 ☆天智天皇は父子直系相続に切り替えようとした
天智・天武天皇は本当に兄弟か
 ☆天智天皇と大海人皇子(後の天武天皇)の関係は複雑
 ☆天武天皇が天智天皇よりも年上と記述している資料もある
 ☆天智天皇と天武天皇は兄弟ではなかったという説
 ☆大海人皇子は、天智天皇からの皇位継承を辞退吉野へ隠遁
 ☆ある人物は、「虎に翼をつけて放つようなものだ」と述べている
天智天皇が亡くなると大海人皇子挙兵
 ☆近江朝の軍勢を破って天智天皇の子大友皇子を死に追いやった
 ☆飛鳥に宮を遷し、即位して天武天皇となった
 ☆『日本書紀』には、大友皇子の即位の記載がない
 ☆大友皇子の即位を認めれば、人海人皇子は逆賊になってしまう
 ☆皇位略奪の事実を隠すため
 *大友皇子の天皇即位がなった事にしたのか?
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日本書紀巻28( 天智天皇)

2020年04月13日 | 天皇論
白村江の戦い

 ☆朝鮮半島では新羅が台頭し、唐の脅威も迫っていた
 ☆百済救援で大軍を朝鮮半島へ派遣
 ☆白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗
 ☆近江大津宮に遷都した中大兄皇子が天皇に即位

斉明天皇が亡くなっても中大兄皇子は即位せず
 ☆中大兄皇子は「称制(しょうせい)」で天皇の政務を執った
 ☆中大兄皇子は百済の王子を帰国させて即位さる
 ☆白村江で唐・新羅の連合軍と激突した
 ☆倭・百済水軍は、正面突破を敢行
 ☆唐水軍の挟み撃ちに遭って大惨敗を喫した
 ☆日本はいまだ中央集権体制が確立できてなかった
 ☆軍勢も豪族の寄せ集めだったのが大きな敗因だった
中大兄皇子、7年間の空位を経て天智天皇として即位
 ☆中大兄皇子は唐の侵攻に備えて国土の防備体制を強化する
 ☆冠位制度を改めて官僚組織を整備する
 ☆都を近江大津宮に遷し、翌年即位して天智天皇となった
 ☆白村江の戦い後、唐と新羅が対立
 ☆新羅が唐の勢力を駆逐して朝鮮半島を統一した
 ☆倭国は、ひとまず国家存亡の危機は免れた
天智天皇が目指した国家
 ☆唐のような天皇を中心とした中央集権体制の確立
 ☆天智天皇は、政策を次々と実行に移した
 *盟友中臣(藤原)鎌足が没すると、天皇は独断専行の傾向を強める
 ☆独断が、その後の動乱のきっかけをつくることになる
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日本書紀巻25・26( 孝徳・斉明天皇)

2020年04月10日 | 天皇論
孝徳を中心とする政治体制が発足する

 ☆乙巳の変後、孝徳天皇が即位
 ☆宮が難波長柄豊碕宮ヘ遷される

「日本書紀」に、皇極天皇が中大兄皇子への譲位を宣言と記されてる
 ☆中大兄皇子は、これを辞退し、皇極天皇の弟軽皇子が即位して孝徳天皇となった
 ☆この孝徳天皇が乙巳の変の黒幕だったのではとの説が唱えられている
 ☆抜櫂されたのは孝徳天皇ゆかりの人物ばかりだった
 ☆『日本書紀』は中大兄皇子と中臣鎌足を英雄視している
 ☆「中大兄皇子が辞退し孝徳天皇が即位した」という場面を創出したのでは?
「改新の詔」は後世の創作だったのか
 ☆『日本書紀』では、一改新の詔一を発布と記されている
 *「大化改新」と呼ばれる改革の具体的な方針を示している
 *改新の詔にはのちの時代の律令に似た部分がある
 ☆『日本書紀』の編纂者が手を加えていた可能性がある
 ☆孝徳朝から天武・持統朝にかけて大規模な改革が行われたことは事実
 ☆「改新の詔」はその青写真として記された
孝徳天皇と対立した中大兄皇子
 ☆皇族や群臣を連れて難波から飛鳥へ戻っている
 *孝徳天皇と近しい重臣の死が重なる
 ☆孝徳政権は弱体化し、失意のうちに亡くなったとみられる
皇極天皇が重詐して斉明天皇に
 ☆2度目の治世は大規模な土木事業に明け暮れた。
 ☆人臣を苦しめたことから、『日本書紀』では「狂心」と非難されている
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『『日本書紀』と天皇126代』
















日本書紀巻25・26( 孝徳・斉明天皇)
(『『日本書紀』と天皇126代』




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日本書紀巻23・24( 舒明・皇極天皇)

2020年04月07日 | 天皇論
乙巳の変(蘇我氏宗家が滅亡した政変劇)

 ☆聖徳太子の子・山背大兄王一家滅亡
 ☆乙巳の変で、中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺

推古天皇は、死の床で伝えた
 ☆田村皇子には、天下を治める場合、行動を慎み、軽々しく物を言わないように
 ☆山背大兄王には、まわりの人の意見を聞くようにと忠告した
 ☆蘇我馬子の子・蝦夷が後押しする田村皇子が舒明天皇となった
飛鳥最大級の方墳は舒明天皇の墓
 ☆舒明天皇の百済宮
 *蘇我氏の本拠地である飛鳥から離れた場所に建てられた
 *蝦夷は宮の建設にかかわっていない
 ☆舒明天皇は蘇我氏の政治介入を嫌った可能性がある
 ☆飛鳥地方最大級の方墳の被葬者は舒明天皇では
中大兄皇子
 ☆舒明天皇の子である中大兄皇子
 *蝦夷の子・入鹿を暗殺するクーデター(乙巳の変)を起こす
 *舒明天皇の影響を受けた可能性がある
 ☆中大兄皇子は中臣鎌足らとともに蘇我氏を倒す計画を立た
 *飛鳥板蓋宮で行われる儀式の最中に暗殺することにした
 *朝鮮三国の使者が貢納品を献上する儀式が飛鳥板蓋宮で行われた
 *中大兄皇子が入鹿を斬りつけた
 ☆入鹿は皇極天皇(舒明天皇の皇后から即位)に訴える
 *私に何の罪があるのですか
 *中大兄皇子は「人鹿は帝位を奪おうとしている」と進言
 ☆女帝は殿中から去り、人鹿の亡骸は庭に放置された
 *翌日には人鹿の父である蝦夷も自害
 ☆栄華を誇ってきた蘇我氏宗家はあっけなく減びた
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日本書紀巻23・24( 舒明・皇極天皇)
(『『日本書紀』と天皇126代』記事より画像引用)




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日本書紀巻22( 推古天皇)

2020年04月02日 | 天皇論
推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子による政治が古代日本の礎となった

 ☆推古天皇が即位し、厩戸皇子が摂政に就任
 ☆冠位十二階、17条憲法などを制定

仏教に傾倒した聖徳太子の生涯
 ☆推古天皇の即位後、甥の聖徳太子(厩戸皇子)が皇太子となる
 ☆蘇我馬子とともに天皇を補佐する役割を担った
 *父の用明天皇、母の穴穂部間人皇女も蘇我氏の血を引いていた
 *馬子とり後継者としては申し分がなかった
 ☆当時は譲位という慣例がない
 *推古天皇が長命で、太子は即位しないまま亡くなった
 ☆聖徳太子は仏教に対する造詣が深い
 *摂政就任後は仏教の興隆に力を尽くす
 ☆太子が説いた国を治めるのに最もふさわしい事
 *三宝(仏・法・僧)を敬う事
 *仏教が人々の心のよりどころになること
太子は推古天皇、蘇我馬子とともに三頭政治を展開
 ☆国内体制の整備や遣隋使の派遣などを行って古代日本の礎を築いた
 ☆太子は飛鳥から15km以上離れた斑鳩宮へ移り住んだ
 *これ以降、『日本書紀』に太子が登場する機会は著しく減っていく
 ☆太子が政治に興味を失い、仏教に傾倒したとも考えられる
 *晩年は仏教の注訳書の執筆などに力を注ぐ
古代日本を動かした三頭政治
 ☆太子の死によってバランス関係が崩れていく
 ☆蘇我馬子は天皇家の直轄領葛城県の割譲を望んだ
 *推古天皇に拒まれた
 ☆蘇我氏の権勢はほぼ揺るぎないものになった
 ☆しかし天皇の威厳は引き続き健在だった
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日本書紀巻22( 推古天皇)
(『『日本書紀』と天皇126代』記事より画像引用)


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日本書紀巻21(用明・崇峻天皇)

2020年04月01日 | 天皇論
日本書紀巻21(用明・崇峻天皇)

 ☆仏教をめぐる争いから全面戦争に突入
 ☆丁未の乱で物部氏の勢力大きく後退

敏達天皇が亡くなり用明天皇が即位
 ☆蘇我氏と物部氏の対立はさらに深まる
 ☆用明天皇が崩御すると皇位継水問題が起こる
 ☆両氏の対立は決定的なものとなる
 *物部守屋は用明天皇の同母弟穴穂部皇子の擁立
 ☆蘇我馬子は穴穂部皇子を討ち、守屋追討軍を編成する
 *多くの皇族や群臣は、守屋追討軍に参加した
 *守屋はすでに朝廷内で人望を失っていた
崇峻天皇の暗殺には黒幕がいた
 ☆守屋を倒した馬子
 *用明天皇の異母弟を崇崚天皇とし、政治の実権を握った
 ☆馬子は、長年の問題が解消されたことから内政にも力を注ぐ
 *任那遠征を敢行しようとした
 *崇峻天皇の崩御で実現には至らなかった
 ☆『日本書紀』では、崇峻天皇暗殺の黒幕は馬子とされている
 *天皇が殺されたのは安康天皇に次いで2例目
 *馬子が罰せられた形跡はなく、馬子の権力は増大している
 ☆崇峻天皇の暗殺
 *皇族や群臣が同意していたのでは
敏達天皇の皇后は、馬子に強い味方
 ☆皇后は、自分の子である竹田皇子の即位を望んでいた
 ☆崇峻天皇が政治を動かすようになると都合が悪い
 ☆皇后が、裏で馬子をけしかけたという見方もされる
 ☆しかし、竹田皇子も亡くなってしまった
 ☆皇族の長老だった炊屋姫が即位する
 ☆日本初の女帝・推古天皇となった
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(『日本書紀』と天皇126代記事より画像引用)


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日本書紀巻19・20(欽明・敏達(びだつ)天皇)

2020年03月31日 | 天皇論
仏教の受け入れをめぐる蘇我・物部氏の対立

百済の聖明王から仏像や経典が伝わる
 ☆欽明天皇から仏教を受け入れるべきか問われた
 *蘇我稲目の答え
 (西の諸国はみな、仏像を礼拝している)
 (我が国だけが乗り遅れるわけにはいかない)
 *物部尾興の答え
 (我が国には、天地に180の神々がいる)
 (異国の教え(仏教)を拝せば、神々の怒りを招く)
 ☆仏教の受容で、蘇我氏と物部氏が対立した背景
 *蘇我氏は渡来系の氏族と深い関係にあり、仏教に知識や理解があった
 *物部氏は日本古来の神々を祭祀する一族だった
仏教受け入れに、稲目と尾興の意見は真っ向から対立
 ☆欽明天皇は、稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を認めた
 ☆直後に疫病が発生し尾興によって仏像が廃棄され、寺も焼かれた
 ☆仏教をめぐる対立
 *稲目と尾輿の子である蘇我馬子と物部守屋にもち越された
百済から再び2体の仏像がもち込まれた
 ☆馬子は各地に堂塔を建立し仏像を崇拝したが再び疫病が蔓延
 ☆敏達天皇の命を受けた守屋らにより、再び廃仏毀釈が行われた
 ☆蘇我氏と物部氏は皇位継承の問題も重なり、本格的に衝突する
 ☆排仏派の急先鋒は、敏達天皇だったという説もある
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日本書紀巻19・20(欽明・敏達(びだつ)天皇)
(『『日本書紀』と天皇126代』記事より画像引用)





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