🌸吉川広家(関ヶ原戦い後の毛利家を救った)
☆毛利存続のため家康と通じた武将
☆黒田長政との友情を背景に毛利家を必死に守り抜いた
☆家康からも働きを認められ「熱海の湯」まで贈られた男
⛳吉川広家は、自意識が強く才能豊かな三男
☆大毛利の柱石である吉川元春(毛利元就の次男)の三男
☆当初相続した所領が少なく、他家の養子になろうとした
*毛利一族の総帥・輝元に反対されて破談となった
☆広家は豊臣秀吉の許へ人質に出されたが、すぐに毛利家に帰された
☆広家は幼い頃から自意識が強く、時に自分をもてあます人物だった
*才能豊かで、自己に凄く厚い人物だが、三男で、吉川家を継げない
☆広家は、自分が認められぬのか、世に出られぬのか苦悩していた
*従兄たる輝元は凡庸だった
☆本当に器の大きな人物なら、不満を腹に収めて驕らない
☆吉川広家は才走った行動を取つてしまう
*秀吉にはそれを見透かされ、立身の機会を逃してしまう
⛳吉川広家の人生が一変した
☆兄が亡くなったため広家は吉川家を継ぐことになる
☆秀吉も活躍する彼を認め、豊臣姓と羽柴の名字や官位を与えた
☆広家は、文禄・慶長の役では朝鮮に渡り働いた
☆秀吉没後の関ヶ原の戦い
*主君である毛利輝元が広家には相談せず
*大坂城に入り、西軍の総大将に就任した
*徳川家康の勝利と見ていた広家は大いに慌てた
*独断で黒田長政を通じて家康と連絡する
*毛利軍の不戦と毛利領の安堵密約を取り付ける
⛳「一切のお咎めなし」のはずが
☆関ケ原決戦当日には、毛利家2万の兵は南宮山に陣取っていた
*家康の本陣を背後から襲える情勢で、毛利は動かなかった
☆家康は広家が申し送っていた「毛利不戦」を前提に戦いを進めていた
☆関ヶ原での戦い後の大問題は、大坂城のこと
*大坂城に西軍の残存部隊が入り
*毛利輝元の指揮の下豊臣秀頼を擁して戦えば
*戦局はどう転ぶか分からないから
*立花宗茂は、輝元に籠城戦を進言している
☆家康陣営は「家康は毛利輝元を重んじている」と伝達した
*輝元はこれを「毛利家に一切のお咎めなし」と読み、大坂城を退去した
*家康が大坂城を接収し、家康の勝利が確定した
☆毛利の処遇に関して事態は一変した
*毛利領安堵の約束は、輝元がやむなく大将になった場合のみ有効だった
*大坂城から発見された文書から、輝元は西軍の大将として
*毛利は積極的に活動していたと判明した
*毛利家は改易を免れないという結果になった
☆交渉役の広家は己の甘さを痛感したに違いない
*けれども本家・毛利をつぶすことだけはできない
⛳岩国3万石を与えられ善政を実施した
☆広家は長政に書を送る、曲げて毛利家という家名を残して戴きたい
*この度のこと『輝元がバカであること』皆々様がご存知の如くである
*輝元は今後、家康様に忠節を尽くします
*輝元が徳川様に弓引くようなことがあれば
*私が、輝元の首を取って差し出します
☆広家のこの訴えに対し、家康は自らの名で
*毛利家に周防、長門の2か国を安堵すること
*輝元・秀就父子の身の安全を保障する旨の起請文を発行した
☆120万石の領地を誇った毛利家、36万石に減封されたが家名は残った
*広家は岩国3万石を輝元から与えられた
☆広家は毛利家存続のために必死に働き、黒田長政はそれを助けた
☆家康も「健康に良いから」と熱海の湯を広家に贈っている
*広家の働きを認めていたのだ
☆毛利家が何とか生き残った一件
*総帥の輝元が『家康を超える』身の程知らずな夢を見たあと
*ギリギリの交渉が続いた結果として実現したもの
(敬称略)
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⛳出典、『THEMIS2月号』
吉川広家(関ヶ原戦い後の毛利家を救った)
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