慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

「壬申の乱」「近江朝廷」「律令国家」「大友皇子」「大海人皇子」

2024年06月03日 | 歴史上の人物
🌸天武天皇の鑑は聖徳太子1

⛳壬申の乱の遠因
 ☆壬申の乱、わが国の古代史における最大の内乱
 *結果として「日本」という国家の原型を生み出した
 *壬申の乱の理由、中大兄皇子(天智天皇)の近江遷都にあった
 *二百年の長きの飛鳥を捨てて、畿外の大津へ移ること
 *貴族と豪族や朝廷の官吏、庶民にも納得できる話ではなかった
 ☆官民双方の反対を押し切って、大津に造営された新京
 *壬申の乱における近江朝の敗北によって滅びた
 ☆宮廷歌人にも理解しかねた遷都の意図
 *老練の政治家藤原鎌足、反対しなかった
 *それは、仏教伝来のころにまで遡る

⛳近江朝廷は異国
 ☆蘇我氏と物部氏の二大豪族の対立と抗争
 *蘇我氏が、仏教の受容に賛成した
 *物部氏が反対して、激しい争いが生じた
 (鎌足は、物部氏側の先頭に立っていた)
 ☆仏教の受入れの思想的な対立ばかりでなく
 *二大豪族の根強い対抗意識が、互いの敵意を熾烈なものにした
 ☆崇仏派の蘇我氏の勝利となる争い
 *中臣勝海連は斬殺されたので、中臣氏の直系は、ここで断たれ
 ☆仏教の興隆に尽くした聖徳太子
 *在世中幼少期を鎌足で過ごしたが、蘇我氏の側について奔走した
 *神職の家系に生まれながら、太子は長男の定恵を出家させた
 *又、仏法を学ばせ唐へ留学させた

新政府の成立
 ☆唐制に倣って八省百官の制が定められて、律令国家の基礎が作られた
 *大化改新の設計図を書いたのは、鎌足であったろうが
 *そのもとになっていたのは、唐の政治体制であった
 ☆古代史上最大の政治改革の道を開いた鎌足
 *天智天皇か藤原の氏姓を賜った
 ☆何から何まで唐風の宮廷は
 *国内に忽然と出現した「異国」のようだった

⛳翼のある虎
 ☆大友皇子の著しい成長ぶりが目立つまでは
 *大皇弟として大海人皇子がずっと皇位継承者とされてきた
 ☆大海人皇子は皇位の継承を固辞して、皇位は皇后に譲り
 *太政大臣の大友皇子に諸政をお任せになりますようと歌を詠む
 *「臣は請願ふ、天皇の奉篤に、出家して修道せむ」
 ☆去り行く大海人皇子一行の後ろ姿を見て
 *ある人がいった、「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と
 ☆吉野に着き天智天皇崩御し大海人皇子は行動を起こした
 *大海人皇子に従ったのは、御后と草壁皇子、忍壁皇子
 *それに舎人二十人ほどと、女嬬十人あまり
 *伊賀国の山中で、この国の郡司たちが数百の軍勢を連れて従う
 *伊勢の鈴鹿で、伊勢の国司らが五百の軍勢とともに、 一行を出迎えた
 ☆大海人皇子は、伊勢神宮に鎮座する天照大御神を遥拝する
 *これは今回の戦の大義を宣明する儀式であった
                      (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『「古事記」の真実』



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「古事記安万侶編者でない」「天武天皇」「古事記の日本語文」

2024年06月01日 | 歴史上の人物
🌸日本語の父は天武天皇2

太安万侶は古事記の編者にあらず
 ☆太安万侶の実在を疑う考えもあった
 *奈良市で、銅板の墓誌と遺骨を偶然発見された
 *事実なら、安万侶が実在の人物の物証である
 ☆安万侶が撰録に着手したとき
 *文字化される以前の「原古事記」はほぼ完成されていた
 *太安万侶のまえに『古事記』の真の編者がいた
 ☆天武天皇と稗田阿礼こそが、古事記の「作者」である
 *太安万侶が果たした役割は
 *稗田阿礼が口誦する物語を、漢字で書き表すために
 *ありとあらゆる工夫を凝らしたことである

古事記の本文は古代の日本語文
 ☆安万侶の独創的な文字表記論
 *中国人の言語や思想を借りたものではなく
 *古代の日本語文になりきっている
 ☆安万侶は、これらの文体と表記を駆使して
 *『古事記』の『本文』を記定した
 ☆我国の上古には未だ文字がなく、漢字により初めて文字を知った
 *最初漢字を知り、漢文を書いたのは、帰化朝鮮人及びその子孫だった
 *元来朝鮮には、漢語及び漢文に朝鮮語を当てて読むことが行われていた
 ☆漢字は我国では早くからもはや外国の文字ではなくて
 *直接日本人に固有の観念を表すものとして使用されていた
 *かえり点は、平安朝以降、徐々に発達して来たものである
 ☆万葉仮名は、漢文に含まれた外国の地名を音訳することから生まれた
 *我国の地名や人名を写すことから起こった
 *その後その使用範囲は次第に拡張されていった
 ☆我国人の真情を吐露する手段として
 *漢語や漢文に束縛されない自由な表現が要求されるのは当然である
 *殊に国語の音の形を間違いなく写し出す
 *自然とその和歌の全文を万葉仮名で記すことが行なわれた
 ☆和歌は朝廷に於いても大いに重んぜられた
 *貴族階級の間には社交上の儀礼として和歌を贈答したり
 *宴席で和歌をよんだりすることが広く行なわれるようになった
 ☆みずから秀れた歌人である天武天皇
 *圧倒的な漢語文化の流入と影響に押されて
 *消え去ってしまうかもしれない運命にある古語と古歌を惜しみ
 *保存して後世に伝える方法はないものかと苦慮して
 *さまざまな方法を創案した
 *『古事記』が達成した卓抜な成果から考えて疑うことができない
                       (敬称略)
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「古事記」「稗田阿礼女性作家」「天武天皇」

2024年05月30日 | 歴史上の人物
🌸稗田阿礼は日本最初の女性作家3

超越神の登場
 ☆わが国の神話には、最初から天照大御神が主神として登場しない
 *現われるのは、その姿が人の目には見えないいわば超越神
 *目に見えない神神のあとに、人の姿となって現われるのが
 *伊邪那岐命と伊邪那美命の兄妹である
 *伊邪那岐命と伊邪那美命の第一子と第二子が、水蛭子であった
 ☆全篇を通じて、『古事記』が男性本位と男系継承を基本の原理としている  
 *それとは裏腹の女性原理が意外なかたちで、しばしば顔を出す
 ☆『古事記』の女性原理が、はっきり表に出てくるのは
 *天照大御神と須佐之男命のあいだで争われた「祈誓」の場面だ
 *自分の物実(物種)から生まれたのが、女ばかりであったのを理由に
 *須佐之男命はみずから勝利を宣言する
 *皇統は男系継承であるから、それは高天の原を奪おうとする
 *異心かなかったことの証拠にもなる

声は男で、心は女
 ☆天武天皇が稗田阿礼に期待したのは
 *テーブレコーダーの役割であったのだろう
 ☆阿礼自身は、むろんそうはおもっていない
 *神である天武天皇になり切ったつもりでいる
 *太安万侶にたいする阿礼の口誦は、男声であっただろう
 *崩御から25年の長きにわたり
 *脳裡で物語の推敲を繰り返した女性の感性と想像力
 *じわじわと全篇の行間に滲み出してきた
 ☆稗田阿礼が口にするのは
 *いまはなき帝の大御言に違いないのだから
 *だれも、異を唱えることは、だれもできないとの言葉
 *大安万侶は、愚直なまでに忠実な筆録

 ☆天武天皇と稗田阿礼と大安万侶
 *三者三様の群を抜いた個性と才能と努力の奇跡的な組合せで
 *わが国の文学史に比類のない傑作を生み出した

 ☆阿礼が果たした役割は、これまで考えられていた以上に大きい
 *稗田阿礼は日本最初の女性作家だったのだ
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徳川慶喜家「墓・家じまい」

2023年10月19日 | 歴史上の人物
🌸徳川慶喜家、最後の当主が語る「家じまい」
 
 ☆「お宝も埋蔵金も、ありはしないのに…」
 ☆私のブログは、徳川慶喜さんを尊敬し『慶喜』にしています

将軍・徳川慶喜の玄孫、第5代当主山岸さん語る
 ☆山岸さん、第5代当主として「絶家」することを発表した
 ☆120年以上続く名家の「墓じまい」
 *谷中霊園に眠る慶喜家の墓所は300坪
 ☆4代目当主慶朝さんの遺言で、“家の問題”に取り組む山岸さん
 ☆慶朝さんの遺言で、山岸さんが徳川慶喜家の5代目に指名された
 *徳川姓でなく、女性の山岸さんが家督を継ぐ
 *慶喜家には存命中の親族が7人いるが、徳川姓の男子はいない
 *慶朝叔父は、養子を取って継がせなかった
 ☆山岸さん、慶朝叔父とは、看病を通じての信頼関係があり
 *山岸さんに、全部託すという遺言を遺した

山岸さんに心ない言葉を投げかける人も
 ☆ご親族をはじめ周囲の理解を得られなかった
 *徳川家と親藩松平家の一族の交流会である「葵交会(きこうかい)」
 *旧幕臣のご子孫による「柳営会」もあり、交流を続けられている
 ☆叔父慶朝は、ご親族とのお付き合いを煩わしく感じていた
 *自分の代で慶喜家を閉じる事も考えていたので、疎遠になっていた
 ☆山岸さんに対して
 *山岸は当主という名前が欲しいんだろうとか
 *遺産が欲しいからやってるんだろうなどと心ない言葉もあった
 ☆叔父慶朝さんの葬儀
 *「山岸美喜が喪主になるのはおかしい」などとも言われた
 *葬儀は質素なもので、参列者は10人ほどだった
 *それも慶朝叔父の遺言に従った
 *叔父の遺骨は、都営谷中霊園にある、慶喜家の墓所に埋葬した

歴代将軍とは別の墓所
 ☆慶喜家の墓所は、歴代将軍とは別の理由
 *15人の将軍のうち、家康公と慶喜だけが神道
 *2代~14代の各将軍は寺院管理
 (寛永寺、増上寺、輪王寺に分かれて埋葬されている)
 ☆慶喜は、家康公を大変尊敬し神道に改宗した
 *皇室にならい神式で葬儀を行なうように遺言を遺した
 ☆谷中墓地の中にあって、これまでずっと慶喜家が管理してきた

墓所は300坪! 墓じまいの手続き
 ☆墓所は300坪もあり、個人では管理できない
 *墓所を囲む塀の修繕が必要、2000万円とも言われている
 ☆寛永寺とは、宗教が違うので難しい
 ☆墓じまいを決めたのは慶朝叔父
 *しかるべき所に寄贈し現状維持で働きかけている最中
 ☆徳川慶喜の墓所
 *叔父慶朝さんがご存命中ご自分のお金で管理されていた

膨大な史料の行き先は?
 ☆慶喜家には、数千点の史料が残されている
 *徳川家の御紋と、双葉葵の刺繍がついたアルバムもある
 ☆慶朝叔父が亡くなるまで
 *千葉県松戸市の戸定歴史館に30年間預かって貰っていた
 ☆一昨年、預かっている慶喜家の史料
 *慶喜家に返すべきだという判断をしてくださった
 *まとめて研究などをしてくださる機関への寄贈を相談中
 ☆徳川姓でもない女性の私が電話で
 *慶喜家に伝わる史料が数千点ございまして
 *寄贈を検討しているのですがと、話を持ち掛けても
 *私が考えた通りの対応とはならず、困惑する事もありました

慶喜家の家じまいの解決の道筋
 ☆お墓に関しても史料に関しても、進めている最中
 ☆現在私が向き合っている慶喜家の家じまいの一連の作業
 *「家の歴史を日本の歴史にする作業」と呼んでいる
 ☆6代目の当主は指名しない
 *私が5代目当主として家を閉じることを決意した
 *慶朝叔父から託された思いを叶えるべく
 *徳川慶喜家の最後の当主を務めてゆくつもり
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徳川慶喜家「墓・家じまい」
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石田三成(武に優れた家臣が命を賭け仕えた武将)

2023年07月01日 | 歴史上の人物
🌸石田三成(武に優れた家臣が命を賭け仕えた武将)

 ☆石田三成「清濁併せ香む」ことができず正論で周囲を怒らせた
 ☆武才が無い自身の欠点をわきまえ一騎当千の家臣を厚遇した


家臣は三成の卓越した発露知り慕う
 ☆石田三成は「曲がったこと」が気に障る人物だった
 *スルーできずに咎め立ててしまうタイプ
 *いわれた方は当然むかつく
 *「利口ぶりやがって、イヤミな野郎だぜ」と反感を買ってしまう
 ☆三成は、元来は聡明な人間である
 *優れた人はこうあるべきのイメージ豊富に持っている
 *部下を愛そう、他人に優しく、ケチはみっともないのを理解している
 ☆石田三成は、余計な言動を示し、周囲を怒らせる
 *「清濁併せ呑む」ができない、人の上に立つ器ではない
 ☆石田三成は、自身の欠点もよく弁えていた
 *加藤清正や福島正則に比べると、武の才能が無い
 (石田三成が自身それを自覚しているのが優秀さの証
 ☆石田三成は、戦場で輝くことのできる多くの家臣をスカウトした
 *石田家には著名な侍大将が多い
 *関ヶ原の戦で、石田隊は寡兵にも拘わらず良く戦った.
 *武に秀でた家臣たちが「殿のために」と命を投げ出し慕われていた


500石全てを勘兵衛に与えた
 ☆石田三成の家臣、島左近が有名になったのは
 *三成に高禄を支給されて仕えてから
 *三成は4万石を領していたが、半分2万石で左近を召し抱えた
 *三成は「石田家の武」を形成するために
 *中核に据えるべく左近を、破格の待遇でヘッド・ハントした
 ☆三成が武勇に秀でた侍を厚遇し雇用した家臣、渡辺勘兵衛
 *勘兵衛は三成の情熱に負けて、彼の家来になった
 ☆羽柴秀古が石田三成に尋ねた
 「あの豪傑をよく召し抱えられたのう。俸禄はどれほどか?」
 「はい、500石です」
 *ワシはおまえに500石しか与えてないぞ
 *全て勘兵衛に与えてしまって、おまえはどう生活している?
 ☆石田三成は答えた
 *勘兵衛の家に居候をし、生活費も出して貰っております
 ☆それを聞いた秀吉は大笑い

三成、家臣にわが命を賭けてと思わせた
 ☆石田三成は、その後出世していった
 *三成は、そのたび勘兵衛に加増の話を持ちかける
 *勘兵衛は、加増の必要は一切ありませんと断り続けた
 *関ヶ原の戦いで、勘兵衛は獅子奮迅の働きを示し傷ついて倒れた
 *陣中に運び込まれた瀕死の勘兵衛
 「拙者は殿にお仕えすることができて、本当に幸せでした」と
 (いい残して亡くなる)
 ☆石田三成は、剛毅な侍に
 *「この人ならばわが命を賭けて仕えるに足る」と
 *思わせる一面を持ち合わせていた
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福島正則(武官の中の武官)

2023年04月27日 | 歴史上の人物
🌸福島正則(秀吉子飼いの出世頭)

 ☆武力で貢献した秀吉子飼いの出世頭、福島正則
 ☆秀吉没後は、家康を選択して会津征伐にも従軍した
 ☆福島正則、豊臣家が減びた後は、幕府に処断され領地を奪われた


福島正則、葬儀に秀頼の名代として出席
 ☆「正則=優秀な武将」と言われている
 *正則は、豊臣秀吉の血縁者

 *元々が農民の出で系図はつかえない
 ☆秀吉と血の繋がりがある武将
 *福島正則 、母は大政所の妹(秀吉と正則はいとこ)
 *加勝清正、 母は大政所といとこ (秀吉と清正はまたいとこ)
 *浅野長政 、妻同士が姉妹
 ☆秀吉の人事は能力重視
 *槍の働きよリ、デスクワークを重視していた
 *「血縁者」の出番は無いと思っていた
 *農民では教育を受けるチャンスがなく、デスクワークは苦手
 ☆秀吉の葬儀に於いて、福島正則が秀頼の名代として出席している
 *正則は、秀吉の従弟と考えて良いので
 *秀頼とも血の繋がりがあるから名代を務めた
 ☆秀吉の朝鮮出兵を見据えて
 *清正、行長が、軍事的才能で、
正則よりも上と、秀吉は評価していた

福島正則は、織田家本来の所領を与えられた
 ☆1595年は、秀吉子飼いの武将たち領地を加増された
 *浅野長政、甲斐国主20万石余り
 *石田三成 近江・佐和山20万石余り
 *増田長盛 大和・郡山20万石余り
 *福島正則は尾張・清洲24万石余り
 ☆秀吉の子飼い武将の、領地による序列は定まった
 *領地の価値は京都・大坂に近い方が上ですの
 *文官の双壁が石田三成と増田長盛
 *浅野は大きな所領を獲得したが甲斐にとばさた
 ☆朝鮮の戦場で活躍する武官として
 *加藤清正、小西行長が肥後半国ずつ、20万石余り
 ☆福島正則は、武官の中の武官の評価
 *場所は秀吉の生まれ故郷で、織国家の本来の所領
 *正則こそは秀吉子飼いの出世頭
 ☆秀吉には、血縁だから取りたてる、甘さは持っていなかった
 *福島正則は、武力での貢献を認められるかたちで
 *子飼い随一の地位を築いた
 ☆秀吉は大名同士が勝手な縁組みをするのを禁じていた
 *勢力を広げたい徳川家康
 *真っ先に縁みを申し入れたのが正則でした
 *弟の娘を養女として福島家に送っている

関ヶ原の本戦では「一番槍」を
 ☆正則も、生き残りをかけて家康を選択した
 *自身が豊臣の血縁であることを意識し
 *他者に先んじて家康に近づき
 *家康の会津征伐にも積極的に従軍した
 ☆正則が関ヶ原の本戦に於いて、「一番槍」にこだわったのも
 *自分の立ち位置を確保したかったから
 ☆大坂の陣で豊臣家が減びた後
 *正則は罠に嵌められたようなかたちで領地を奪われた
 *他に例を見ない、あからさまな幕府の処断だった
 *それが福島正則の、遁れがたい運命だったのでしょう
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世界の偉人(ハリエット・タブマン)

2022年11月29日 | 歴史上の人物
🌸世界の偉人(ハリエット・タブマン)

 ☆アメリカ合衆国元黒人奴隷、奴隷解放運動家、女性解放運動家
 ☆タブマン、黒人の逃亡奴隷をひそかに領外に逃がす
 ☆秘密結社「地下鉄道」の指導者のひとりとして知られている
 ☆20ドル札のデザインにアフリカ系アメリカ人として初めて採用され

タブマン出生から活動を始めるまで
 ☆メリーランド州で、黒人奴隷である両親から生まれた
 ☆5歳からメイド兼子守りとして働きはじめた
 ☆黒人ジョン・タブマンと結婚
 ☆長年の奴隷生活に堪え、奴隷監督の殴打などの虐待に耐えた
 ☆逃亡奴隷の懸賞金に関する公告に弟の名前がある

タブマン、奴隷解放運動から南北戦争への従軍
 ☆アメリカで機能した「地下鉄道」の経路図
 *黒人奴隷を自由州やカナダに逃がす秘密の脱出ルート
 *安全な隠れ家を結ぶネットワークが築かれた
 *「車掌」と呼ばれた引率者が逃亡奴隷を運んだ
 ☆タブマンは、「地下鉄道」に加わる
 *地下鉄道の「車掌」としてその運行をはじめた
 ☆タブマンの後述の自叙伝によれば
 *300人余りの奴隷の「乗客」だれも捕まることなく自由に導いた
 *タブマン自身も一度も捕まらず「車掌」として成功をおさめた
 *その活動のリーダー的な存在になった
 ☆タブマンに掛けられた賞金額は合計4万ドルを超えた

タブマン権利活動家として活躍
 ☆南北戦争が終わり、南部での奴隷解放の後
 *黒人と女性の権利のために活動家として活躍した
 ☆黒人の退役軍人ネルソン・デービスと再婚した
 ☆タブマンは「タブマン将軍」と呼ばれ
 *「この大陸でもっとも勇敢な人物」と賛辞された
 ☆タブマンは、肺炎で93歳死亡した
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多才な発明家・平賀源内の”珍妙すぎる死”

2022年11月11日 | 歴史上の人物
🌸平賀源内の”珍妙すぎる死”

 ☆平賀源内は、発明家・蘭学者・浄瑠璃作者
 *類稀なる才能を持った人物だった
 *その中でも有名なのがエレキテルの復元
 *静電気を用いた、小さなカミナリ実験箱
 ☆源内は長崎で、壊れたエレキテルを入手した
 *源内は電気が起きる科学的原理も知らなかったが
 *修理し、自力でもエレキテルを作ってしまった
 *その当時、日本では「電気」は見世物でしかなかった
 *電気の化学的理解や実用化は明治期まで進まなかった
 ☆他の源内の発明品
 *万歩計、 竹とんぼ(史上初のプロペラ)の発明もした
 *気球や電気の研究も実用化寸前まで行っていた

源内、お江戸のコピーライターとして才能発揮
 ☆源内は文才も持っていた
 ☆源内は「本日土用の丑の日」のキヤツチコピーを作った
 *日本で、夏の土用の日ウナギを食べる習慣がある
 *これも源内が仕掛けた広告によるもの
 ☆和菓子屋の広告コピーを書いて報酬をもらつていた
 ☆浄瑠璃作品を書き、戯曲も書く劇作家
 *源内は『風流志道軒伝』という小説を発表する
 *これがベストセラーとなり、明治期まで重版された
 ☆源内が他に才能発揮した分野
 *日本初の油絵を描く
 *鉱山開発で珍石・奇石を発掘する
 *綿羊飼育にオリジナルブランドの陶器等を制作する
 ☆源内の本職は本草学者(葉学者)
 ☆源内は、杉円玄白や中川淳庵らとも親交を深めていた

男色家の源内の″お相手”歌舞伎役者
 ☆源内は男色家で、その才能を後世に残していない
 *歌舞伎役者に傾倒し贔屓ににしていた
 *女形の2代目瀬川菊之丞との仲は有名だった
 ☆源内を変人だと軽蔑する者も多かった
 *源内、明治以降に生まれていれば
 *科学者として大成功を収めただろう
 ☆源内の晩年は謎に包まれている
 *勘違いから人を殺し、投獄されたのちに獄死したとか
 *勘違いから人を殺し、逃げ延びて天寿を全うしたとか

 ☆源内は、遺体のないままの葬儀となった
 ☆友人だった杉田玄白は源内の死に際して回想している
 *死ぬときくらいは畳の上で普通に死んでほしかったと
                     (敬称略)                                     
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⛳出典、『日本史・意外な話』




多才な発明家・平賀源内の”珍妙すぎる死”
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朝日・中国が嫌った?安倍元総理の国葬

2022年09月27日 | 歴史上の人物

🌸台湾で安倍元総理の銅像建立 

 ☆台湾高雄市の旧日本海軍兵士らをまつる「紅毛港保安堂」

 ☆安倍晋三元首相の銅像が建立され、除幕式は、既に行われている

 ☆安倍元首相

 *李登輝元総統との親交が深く、親台湾派として知られていた

 *コロナ禍で台湾へのワクチン提供にも尽力した

蔡英文総統、台湾の日本台湾交流協会の事務所を訪れてた

 ☆献花し、「台湾にとって永遠の友人だ」と記した色紙を贈った

 ☆台湾では官民あげて安倍氏への追悼が行われた

安倍元首相の銅像の建立の発案過程

 ☆「台日未来会議協会」の台湾人メンバーら安倍氏の死去した翌日

 *追悼式を開催したことがきっかけだ

 ☆安倍さんの追悼音楽会をやろうという案もあったが

 ☆銅像を建立し、功績をたたえた方が記念になるという話になった

                      (敬称略)                                     
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⛳出典、『YAHOOニュース』他

朝日・中国が嫌った?安倍元総理の国葬

(『YAHOOニュース』記事、ネットより画像引用)

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前田利家の代では「百万石」達せず

2022年04月22日 | 歴史上の人物
🌸前田利長(家康に服従し「加賀百万石」を築いた)

 ☆父・利家の方針を180度転換
 *お松の方を人質に差し出す
 ☆思い切った土下座外交で日本一の石高を得た

前田利家の代では「百万石」達せず
 ☆江戸時代随一の石高を誇った「加賀百万石」
 *利家の時代は前田家の所領は百万石に届いていない
 ☆前田利長は、父である利家の路線を大きく改変した
 *家康との関係を築き直して「加賀百万石」の礎を築いた
 *父の利家は能登と加賀半分の大名であった
 (前田一族としてはおよそ80万石)
 ☆利長は独立した大名であり、独立した家臣団を編成していた
 ☆前田利家の政治的な重みはたいへんなものだった
 *利家は懸命に徳川家康の専横を抑え込んでいた
 *利家が生きている内、豊臣政権は何とか一つにまとまっていた
 *利家が病没するや、石田三成と加藤清正らの衝突が起きる
 *家康はその抗争に乗じ、三成を失脚させた
 ☆家康は、天下分け目の大戦が政権奪取に必要だった
 *敵として家康に選ばれたのが、前田利長だった
 *家康は前田に謀反の動きありと、加賀征伐を呼びかけた
 ☆利長が選択したのは思い切った土下座外交
 *父の利家は家康と張り合い、成果を挙げていた

徳川への従属派VS豊臣応援派
 ☆利長の土下座外交
 *重臣を家康のもとに派遣して前田家の潔白を説明させた
 *母のお松の方を人質として江戸の家康に差し出す
 *養嗣子・利常と家康の孫娘・珠姫(徳川秀忠の次女)
 *結婚させることを約束し徳川家と友好関係を築いた
 *関ヶ原の戦いでは、前田家は加賀国内の西軍勢力を討伐した
 ☆前田家は、戦後の論功行賞で加賀を全て与えられた
 *加賀・越中・能登を領する「加賀百万石」が誕生した
 ☆金沢城内での横山長知が大田長知を暗殺した大事件
 *横山の背後には利長が構築した家臣団がいた
 (前者は徳川幕府への従属やむなし派)
 *太田には尾張以来の利家家臣団の後援があった
 (心情的には大坂の豊臣を応援したい派)
 *利長は豊臣派の動きを抑えるために、横山に太田を斬らせた
 ☆家臣団が割れた原因は、利長の後継にあった
 *利長には子ができなかった
 *利家が側室に産ませた利常を養子として跡継ぎにした
 (利家の正妻お松の方が産んだもう一人の男子、利政がいた)
 ☆利長は、徳川家の大切な姫を利常の妻とすると明言した
 *利政ではなく利常が後継者の流れになった

徳川秀忠の次女が金沢に輿入れ
 ☆お松の方は、能登を失って浪人した実子の利政
 *もう一度世に出ることを熱望していた
 ☆尾張以来の重臣たち、お松の方と深い絆がある
 *お松の方は、反対勢力のシンボルだった
 ☆徳川秀忠の次女・珠姫はわずか3歳で金沢に輿入れした
 *利長は利常に早々に家督を譲り、富山に移った
 *徳川の婿となった利常を重んじる姿勢を内外に示した
 *この後、利長は大坂の陣が始まる直前に世を去った
                       (敬称略)                                     
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吉川広家(関ヶ原戦い後の毛利家を救った)

2022年02月25日 | 歴史上の人物

🌸吉川広家(関ヶ原戦い後の毛利家を救った)

 ☆毛利存続のため家康と通じた武将

 ☆黒田長政との友情を背景に毛利家を必死に守り抜いた

 ☆家康からも働きを認められ「熱海の湯」まで贈られた男

 

吉川広家は、自意識が強く才能豊かな三男

 ☆大毛利の柱石である吉川元春(毛利元就の次男)の三男

 ☆当初相続した所領が少なく、他家の養子になろうとした

 *毛利一族の総帥・輝元に反対されて破談となった

 ☆広家は豊臣秀吉の許へ人質に出されたが、すぐに毛利家に帰された

 ☆広家は幼い頃から自意識が強く、時に自分をもてあます人物だった

 *才能豊かで、自己に凄く厚い人物だが、三男で、吉川家を継げない

 ☆広家は、自分が認められぬのか、世に出られぬのか苦悩していた

 *従兄たる輝元は凡庸だった

 ☆本当に器の大きな人物なら、不満を腹に収めて驕らない

 ☆吉川広家は才走った行動を取つてしまう

 *秀吉にはそれを見透かされ、立身の機会を逃してしまう

 

吉川広家の人生が一変した

 ☆兄が亡くなったため広家は吉川家を継ぐことになる

 ☆秀吉も活躍する彼を認め、豊臣姓と羽柴の名字や官位を与えた

 ☆広家は、文禄・慶長の役では朝鮮に渡り働いた

 ☆秀吉没後の関ヶ原の戦い

 *主君である毛利輝元が広家には相談せず

 *大坂城に入り、西軍の総大将に就任した

 *徳川家康の勝利と見ていた広家は大いに慌てた

 *独断で黒田長政を通じて家康と連絡する

 *毛利軍の不戦と毛利領の安堵密約を取り付ける

 

「一切のお咎めなし」のはずが

 ☆関ケ原決戦当日には、毛利家2万の兵は南宮山に陣取っていた

 *家康の本陣を背後から襲える情勢で、毛利は動かなかった

 ☆家康は広家が申し送っていた「毛利不戦」を前提に戦いを進めていた

 ☆関ヶ原での戦い後の大問題は、大坂城のこと

 *大坂城に西軍の残存部隊が入り

 *毛利輝元の指揮の下豊臣秀頼を擁して戦えば

 *戦局はどう転ぶか分からないから

 *立花宗茂は、輝元に籠城戦を進言している

 ☆家康陣営は「家康は毛利輝元を重んじている」と伝達した

 *輝元はこれを「毛利家に一切のお咎めなし」と読み、大坂城を退去した

 *家康が大坂城を接収し、家康の勝利が確定した

 ☆毛利の処遇に関して事態は一変した

 *毛利領安堵の約束は、輝元がやむなく大将になった場合のみ有効だった

 *大坂城から発見された文書から、輝元は西軍の大将として

 *毛利は積極的に活動していたと判明した

 *毛利家は改易を免れないという結果になった

 ☆交渉役の広家は己の甘さを痛感したに違いない

 *けれども本家・毛利をつぶすことだけはできない

 

岩国3万石を与えられ善政を実施した

 ☆広家は長政に書を送る、曲げて毛利家という家名を残して戴きたい

 *この度のこと『輝元がバカであること』皆々様がご存知の如くである

 *輝元は今後、家康様に忠節を尽くします

 *輝元が徳川様に弓引くようなことがあれば

 *私が、輝元の首を取って差し出します

 ☆広家のこの訴えに対し、家康は自らの名で

 *毛利家に周防、長門の2か国を安堵すること

 *輝元・秀就父子の身の安全を保障する旨の起請文を発行した

 ☆120万石の領地を誇った毛利家、36万石に減封されたが家名は残った

 *広家は岩国3万石を輝元から与えられた

 ☆広家は毛利家存続のために必死に働き、黒田長政はそれを助けた

 ☆家康も「健康に良いから」と熱海の湯を広家に贈っている

 *広家の働きを認めていたのだ

 ☆毛利家が何とか生き残った一件

 *総帥の輝元が『家康を超える』身の程知らずな夢を見たあと

 *ギリギリの交渉が続いた結果として実現したもの

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島津義弘(島津家を継続させた武将)

2022年01月30日 | 歴史上の人物
🌸島津義弘(島津家を継続させた武将)

 ☆薩摩・大隅・日向を平定した名武将
 ☆朝鮮出兵や家中争いなど苦難続き
 ☆島津義弘の「やむなく西軍へ」は作り話(当初から反家康=西軍)
 ☆島津兵の勇猛さで家康に島津本領の安堵を決定させた

朝鮮出兵では日本一の大遅陣
 ☆大友宗麟の援軍要請を受けた豊臣秀吉
 *20万を超える大軍を擁して九州に進んだ
 *島津義弘戦うことをせず、積極的に降伏の手はずを整えた
 *義弘は豊臣政権の強大さを見せつけられており秀吉の命令を受けた
 ☆島津義弘の朝鮮出兵
 *国元に中央の動向への対応を懇願しても、義久は応じてくれない
 *義弘は間に立って板挟みになった
 *義弘は、御家のおんためと前線基地の名護屋に乗り込んだ
 *島津勢はやって来ず日本一の大遅陣となってしまった
 *自他の面目を失い、無念千万であると書状をしたためている
 ☆島津は、秀吉の命には逆らえず
 *島津勢は一万人ほどで朝鮮半島に上陸し戦果を挙げている


「やむなく西軍へ」は作り話
 ☆島津領での伊集院氏による庄内の乱
 *島津家の筆頭家老を務めた伊集院忠棟
 *軍事にも政治にも卓越した能力を示していた
 *早くから豊臣政権への従属を説いていた
 ☆伊集院は、秀吉の島津攻めに際して
 *戦場にあって戦うことせず、積極的に降伏の手はずを整えた
 *伊集院の行動が島津家の存続に繋がつた
 ☆伊集院忠棟を取り立てた秀吉が死亡する
 *伊集院氏と島津本家との対立は表面化した
 *義弘の子で義久の養子忠恒は、忠棟を殺害した
 ☆伊集院側は強く反発、家督を継いだ忠真は反乱を起こした
 *島津家は鎮圧の兵を向けるが、伊集院の兵は精強で戦いは長引く
 ☆関ヶ原の戦いに際して、島津家は十分な兵を手配出来なかった
 *義弘は家康からの援軍要請に応え
 *1千の軍勢を率いて家康の拠点に馳せ参じたが入城を拒否された
 *西軍総勢4万人の中で孤立した言われている義弘
 *義久は、中央の豊臣政権とはなるべく距離を置きたい決意した
 ☆義弘は当初から反家康=西軍に加わっていたと見られている


「島津の退き口」で戦場を離脱
 ☆「島津の中立」も江戸時代に成立した説
 ☆「島津の退き口」以前の義弘の戦闘行動、よく分かっていない
 *西軍の主力が壊滅すると
 *島津勢は東軍の陣を突破するようにして戦場を離脱する
 *この戦いが「島津の退き口」と呼ばれ、高名は世に轟いた
 ☆薩摩に戻った義弘は、国境を固めながら徳川との和平交渉にあたった
 *家康は九州諸大名に島津攻めの準備をさせたが、攻撃命令を出せなかった
 ☆関ヶ原に主力を送らなかった島津家にはいまだ本隊が健在である
 *長期戦になったら、家康に不満を持つ外様大名の動きが不明である
 *家康は態度を軟化させ、島津討伐軍に撤退を命令した
 ☆家康は島津本領の安堵を決定した
 *島津の存続を成し遂げて、義弘は大隅の加治木に隠居した
 *隠居後は若者たち教育に力を注ぎ同地で死去した
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千利休(茶道の他「利休箸・鼠・焼・棚」にも名を残す)

2021年10月28日 | 歴史上の人物
🌸千利休(茶道の他「利休箸・鼠・焼・棚」にも名を残す)

 ☆戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人
 ☆わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる
 ☆千利休は豊臣秀吉の側近で、多くの大名にも影響力をもった
 ☆秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた
 *切腹の真相については諸説あり定まっていない
 ☆千利休名前の由来
 *利休の名は、正親町天皇から与えられた居士号
 *「利心、休せよ」(才能におぼれずに、老古錐の境地を目指せ)

⛳千利休の茶の湯での業績
 ☆「わび茶」の完成者としての利休像
 *『南方録』等の後世の資料により演出されてきた面もある
 ☆茶道具を前もって飾っておかない茶道
 *すべて茶室に運び入れるところから点前を始める
 *「運び点前」を広めたことが、利休の茶の湯への最大の貢献
 ☆利休は茶の湯で名物を尊ぶ既成の価値観を否定
 *一面では禁欲主義ともいえる
 ☆利休が、創作した楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具
 *造形的には装飾性の否定が特徴
 *利休道具は決して高価なものではなかった
 ☆利休は茶室の普請の変革
 *4畳半を最小としていた茶室に、3畳・2畳の茶室を採りいれた
 (庶民の間でしか行われていた茶室)
 ☆特筆されるべきは「窓」の採用
 *茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らす
 *逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になる
 *現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた
 ☆「露地」も利休の業績
 *それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を利用した
 *茶の湯は初めて「総合芸術」として完成された
 ☆利休は、茶道以外にも日本の伝統に大きな足跡を刻んでいる
 *「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、

千利休の生涯
 ☆和泉国・堺の商家の生まれ、17歳より茶の湯を習う
 ☆商人としては、堺の実質的支配者であった三好氏の御用商人となる
 ☆堺の南宗寺に参禅し、その本山大徳寺とも親しく交わった
 ☆信長に茶堂として召し抱えられ、信長死後豊臣秀吉に仕えた
 ☆利休は、秀吉に茶室を作るように命じられた
 *現存する利休作の唯一の茶室である待庵を完成させた
 *秀吉が築城した大坂城内の庭園空間に2畳の茶室を作っている
 *黄金の茶室を設計
 ☆秀吉の政事にも大きく関わっていた
 ☆利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる
 *京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる
 ☆利休の首は賜死の一因ともされる
 *大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされた

⛳利休死の原因の詳細は不明
 ☆安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした疑いを持たれた説
 ☆秀吉と茶道に対する考え方で対立した説
 ☆秀吉が利休の娘を妾にと望んだが拒否した説
 ☆秀吉の朝鮮出兵を批判したという説
 ☆秀吉と芸術家である利休の自負心の対決の結果という説 
 ☆茶室で秀吉を暗殺しようとしたという説
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『WIKIPEDIA』より画像引用)
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戦国の女たち 春日局の生涯

2021年10月16日 | 歴史上の人物
🌸春日局(斎藤福) (「春日局」とは朝廷から賜った称号)

 ☆父は美濃国の名族斎藤氏の一族で明智光秀の重臣
 *母は稲葉良通の娘である安
 ☆春日局は、3代将軍・徳川家光の乳母として 大奥で力を持った
 ☆春日局は、明智光秀が起こした「本能寺の変」で日陰の身となった 
 ☆春日局が、2代将軍の子・家光の乳母に抜擢された
 ☆春日局は、家光を将軍にするため 家康への直訴行動した
 ☆春日局、男色家の家光の世継ぎのため奔走し大奥を作る
 ☆春日局は、朝廷との交渉の前面にたち、女性政治家でもあった

福が、幼少期から稲葉正成の妻となるまで
 ☆斎藤氏は、美濃守護代を代々務めた武家の名門
 *福の実家の斎藤家も一門である
 ☆守護代斎藤氏が滅び、一門の斎藤家は明智氏に仕官した
 *父・斎藤利三は家臣として、光秀から領地を与えられていた
 *福は城主の姫として、幼少期をすごした
 ☆父は光秀に従い、本能寺の変で織田信長を討つ
 *羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦し処刑された
 *他の兄弟は落ち武者となって各地を流浪していた
 ☆福は母方の実家である稲葉家に引取られた
 *成人するまで美濃の清水城で過ごした
 *福は、母方の親戚三条西公国に養育され、公家の素養を身につけた
 ☆福は、小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる
 *正成は関ヶ原の戦いで、徳川家康を勝利に導いた功労者

⛳福が、家光の乳母へ
 ☆2代将軍・徳川秀忠の嫡子・家光の乳母に正式に任命される
 *福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった
 ☆家光の乳母の選考
 *福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価された
 *息子の稲葉正勝も、家光の小姓に取り立てられた老中に就任
 *相模国小田原藩主となった

福は、将軍様御局へ
 ☆家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」となる
 *大御台所・お江与の方の下で大奥の公務を取り仕切る
 ☆お江与の没後からは、家光の側室探しに尽力
 *さまざまな、女性たちを次々と奥入りさせた
 ☆大奥の役職や法度などを整理・拡充するなど、大奥を整備した
 ☆福は、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る

⛳「春日局」が下賜される
 ☆家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、御所への昇殿を図る
 ☆武家斎藤家の娘の身分では、御所に昇殿するための資格を欠く
 ☆福は、公卿三条西家の娘となり参内する資格を得た
 ☆福は、後水尾天皇や中宮和子に拝謁
 *従三位の位階と「春日局」の名号及び天酌御盃をも賜る
 *その後、従二位を賜る(平時子や北条政子に比肩する位階)

福の死去
 ☆享年64歳で死去
 ☆辞世の句は
 *「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」
 ☆死去の直前に当たる日、家光は稲葉正則の娘と婚約
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戦国の女たち 春日局の生涯
(『BS-TBSにっぽん歴史鑑定!』テレビ画面他より画像引用)
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聖武天皇と橘諸兄 復興への葛藤

2021年09月18日 | 歴史上の人物

🌸聖武天皇と橘諸兄 復興への葛藤


 ☆天平時代、日本は天然痘のパンデミックに襲われた
 *国民の三分の一が失われた
 ☆復興に当たった聖武天皇と宰相の橘諸兄
 ☆復興に当たって聖武天皇が政権を任せた橘諸兄
 *農民の負担を軽くするなど力を尽くす
 ☆天皇は「仏が守る国」を作るために次々と新たな事業を起こす
 *その財源を確保するため
 *諸兄は、律令国家の根幹制度を捨てる選択を選んだ

⛳橘諸兄(たちばな の もろえ)の経歴

 ☆奈良時代の皇族・公卿
 ☆敏達天皇の後裔で、母は橘三千代で、光明皇后は異父妹
 ☆聖武天皇の即位後従四位下に叙せられる
 *天然痘の流行で、藤原四兄弟・中納言ら議政官が次々に死去
 *出仕できる公卿は、参議の鈴鹿王と橘諸兄のみとなった
 ☆聖武天皇は、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命
 *諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、太政官の中心的存在となる
 *国政は橘諸兄が担当し、聖武天皇を補佐する
 ☆国政を掌っていた諸兄への批判、藤原氏の政権の回復の動き
 *広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こすと(藤原広嗣の乱)
 ☆聖武天皇は伊勢国に行幸
 *乱平定後も天皇は平城京に戻らず遷都が行われた
 ☆孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に
 *藤原仲麻呂の発言力が増すようになる
 ☆結果、諸兄は辞職を申し出た
 ☆子息の奈良麻呂は橘奈良麻呂の乱を起こし獄死

⛳橘諸兄政権の政治

 ☆天然痘の影響で、大納言諸兄が太政官の主班となる
 *天然痘の流行は非常に大規模で、人口の約40%失われた
 ☆聖武天皇と光明皇后の当面の政治的課題
 *疫病で損なわれた国力の回復
 *光明の異父兄であり、藤原不比等の娘を妻に迎える
 *藤原氏とも親和的な皇族の諸兄を首班に据える
 *皇族・貴族が一体となった挙国一致の政治体制をとった
 ☆聖武天皇と諸兄の関係は、難波宮で複数回宴を催すなど良好な関係
 ☆諸兄は、国力の回復のため実行した施策
 *郡司定員の削減や郷里制の廃止など地方行政の簡素化を行う
 *東国農民の負担軽減を目的として防人を廃止
 *諸国の兵士・健児を停止し公民の負担を軽減した
 *土地の再開発を促べく「墾田永年私財法」を発布
 ☆聖武天皇が次々に新都を建設して遷都を繰り返した
 ☆孝謙天皇が即位し光明皇后が皇太后になった
 *紫微中台の長官に藤原仲麻呂が就任
 *諸兄と並ぶ権力を手に入れた
 *政治の実権が藤原仲麻呂に移行した

橘諸兄の人物

 ☆大伴家持と親交があり、『万葉集』の撰者の1人
 ☆『万葉集』では8首の歌を残している

 ☆大伴家持が諸兄の長寿を寿ぐために作った歌が万葉集にある

 ☆大伴家持と親密な関係にあったことがわかる

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