ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

映画『シンゴジラ』2016年公開

2018年12月09日 09時48分08秒 | 映画

風邪でふせっているので、ダウンロードしていた映画をipadでみていた(といっても、骨伝導のイヤホンで聞き流しているのだが)。あまり、考えられないので・・・。

子どもの頃にゴジラ映画があった世代なので、なにやら「ヌタウナギ」のような顔や形状で登場したのが、ゴジラだとは思わなかった。この映画が東日本大震災の福島原発の事故を契機に製作されたことや、政権と官僚の意思決定のプロセスに関して政治学的な一つの見方を示しているのが、「『シン・ゴジラ』の1シーンに着目して」というブログ記事、興味深い。

ゴジラの進化、ゴジラの生態の構造の解明と対応方法、「米国」との関係(この映画では「アメリカ」とはいわず、「米国」というのは意味がありそうだ)、そして、対応の中心にいる2人の会話で「この国はいつも米国の属国だ」という発言のリアリティ(14日にも行われようとしている沖縄の辺野古への土砂投入や米軍兵器の購入予算の増加)など、いろいろ思うことはある。

ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆事件を契機に製作された昔のゴジラの第一作、このシンゴジラも原発事故との関係で製作された。両者とも、原水爆・原発の問題との関係で製作されたのだが、第一作と同様に人間の科学の力によってゴジラにとどめが刺される。エンドロールには、伊福部のゴジラの音楽が流れる。


映画『ヒトラー:最後の12日』

2018年12月08日 22時42分20秒 | 映画

『ヒトラー:最後の12日』を通勤の途中で見ることが出来た。これも、ドイツ語版だった。最後に、ヒトラーの個人秘書だったユンゲの証言がいれられており、この映画全体の価値を高めている。

内容は、Wikiでは次のように述べられている。

1945年4月のベルリン市街戦を背景に、ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーの総統地下壕における最期の日々を描く。混乱の中で国防軍の軍人やSS(親衛隊)の隊員が迎える終末や、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス一家の悲劇、老若男女を問わず戦火に巻き込まれるベルリン市民の姿にも焦点が置かれている。
ヨアヒム・フェストによる同名の研究書、およびヒトラーの個人秘書官を務めたトラウドゥル・ユンゲの証言と回想録『私はヒトラーの秘書だった』が本作の土台となった。

ゲッペルスのところは「悲劇」という表現でよいか? 


「こんな夜更けにバナナかよ」

2018年12月05日 15時58分07秒 | 映画
渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ : 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』は、2003年に北海道新聞社から出されたもの。
はじめて、この書名を聞いたのは、ニューヨークでだった。障害者権利条約の特別委員会の傍聴にいっていた時のことである。ちょうど、日本NGOの事務局をやっていたDPIの方がつぶやいたのが最初。だから、2004年か2005年頃だったかな。自立生活の支援をしていた人たちの間で話題になっていたものだろう。
その時、下品なぼくは、『こんな夜更けにバナナかよ』という書名は、「こんな夜更けにウ○コかよ」の意味だとばっかりおもっていたことを白状しておく。トイレ介助が頭に浮かび、バナナを比喩だと思いこんでいたのだった。
権利条約特別委員会が終わって、帰国してから本を買った。それが映画になった。深夜、「バナナ食べたい」との一言に・・・こんな夜更けにバナナを買いに走らされる場面が。映画のチラシは以下のとおり
 

「帰ってきたヒットラー」

2018年12月03日 23時17分49秒 | 映画

最近は、映画をダウンロードして、通勤中にみることができる便利な時代となった。

はじめてそのサービスを使ったのが「帰ってきたヒトラー」であった。英語の映画と思っていたのだが、ドイツ語の映画で言葉がわからんのが、残念だった。

第二次大戦後70年たったドイツによみがえったヒトラーが、町を歩き、コメディショーに登場するや、本人は大まじめであるが・・パロディとして受け止められ視聴者を喜ばす・・はじめはである。それが徐々に第二次大戦前のナチの台頭の時代に重ね合わされていく。しかも、現代の難民への対応への民衆の不満や不安は、ネオナチの台頭、極右政党への共感、自国第一主義など現代ドイツ、ヨーロッパ全体、いや世界全体と言ってもいいが、社会の深部の闇と結びついており、それをヒトラーは似非を否定しつつ、もっと闇の中へと野望ともつかぬ思惑を垣間見せる。最終版の笑いと重なった狂気が不気味である。

昨日、NHKのBSで映像の世紀(10)が再放送され、難民問題を特集していたが、この問題は遠い過去から地続きで、荒廃の結果として、また、その原因として今日までの戦争や社会不安を先導してきたことがわかる。ドイツでは、移民への慣用を旨としたメルケルが選挙で敗北をしたことをうけて、党首を辞任することが現実となった。フランスでは若きマカロン大統領は環境税の導入により抗議デモが暴動化し、その中で極右政党が浸透していく予感がする。自国ファーストのアメリカ・トランプの政策、そしてこの日本でも外国人労働者をめぐる問題、きな臭い匂いが世界中に漂っている。

経済の行き詰まりが表面化すれば、それが一気に爆発するのではないか。だからこそ、今、歴史から学ぶ必要がある。


Ronald Bergan(1993) Dustin Hoffman. Virgin Books

2018年11月21日 00時24分53秒 | 映画

卒論で学生さんが、自閉症の映画について考えている。なんといっても、1988年の「レインマン」だろうとうことになった。

ということで、それを検証している。シルバーマンの『自閉症の世界』(ブルーバックス)で経過についてしっかりかかれている。レインマンのそのモデルになった自閉症の人のドキュメント「リアル・レインマン」をみたりしたが、その役をやったダスティンホフマンをみないとということで・・・ロナルド・バーガンの『ダスティンホフマン』を入手して、当該部分を読み始めた。これって結構おもしろい。知的障害から自閉症への変更、ダスティンホフマンのこだわりと役どころ、相方のトムクルーズについて、そして脚本家で右往左往、役作りをしながら変わっていく脚本、電話ボックスの中でのおならのエピソードも笑える。その節のおわりのころにまとまった筋立てとレインマンの与えた影響がさらりと書かれている。その節は「UH! OH!」-これは、レインマンの主人公レイモンドの口癖からとられたものである。

個人的には、映画「卒業」のダスティンホフマンの姿やサイモンとガーファンクルのいくつかの音楽、そして、そこから、レインマンへの変遷をいくつかの寄り道をしながら点と点をつないでみたいのだが・・・。

そんなことをかんがえていたら、深夜NHKで東田直樹を撮影した「自閉症の君が教えてくれたこと」の再放送をしていた。


河瀬直美『光』ー樹木希林の訃報をうけて

2018年09月17日 09時01分35秒 | 映画

8月28日に河瀬直美監督の「光」をみた。奈良県中途失聴・難聴者協会の主催で、字幕付き邦画上映会。奈良県橿原文化会館で開催された。

視覚障害者への映画音声ガイドを中軸に、音声ガイド製作を担当する主人公と視力を失っていく元写真家の物語、ラブストーリー。映画の中のもう一つの映画、それは老人の愛の物語なのだが、それを音声ガイドとしてどのように説明していくか。視覚障害の人たちとの討議、ことば選び、心情の言語化などなど。視覚障害差の人たちのイメージをどれだけ言葉が喚起できるのか、逆にイメージの押しつけや誘導に陥らずに・・・・という難問。その仕事の進展と平行して、主人公の母親の認知症の進行の一方、もうひとりの主人公の男自身の視覚の最終的な喪失が進む。その二人の間は徐々に近づいていく。

最終的に、映画の最後に音声ガイドが付けられる。映画の中の映画の音声ガイドは樹木希林がすこし低めのゆっくりした声で語る。最後に、「そこに・・・光」。映画中の映画の字幕が読み上げられる。製作過程のガイドの音声とはまったくかわって感じられる。「言葉」と「音声」との不思議な関係。そして、かわいた文字と声という情感を持った言葉・コトバ・ことば・・・・私たちの受け止める側の思いも重なる最終の場面である。

二重のストーリーと、文字と言葉の重なり合い、織りなすストーリー。すこし技巧的な印象は否めない、視力・視覚の喪失してゆくもう一方の主人公の設定にリアリティがあるかという素朴な思いはあるものの、それはどうでもいいだろう。

舞台は奈良、市内循環バスの八軒町にすみ、歩道橋、近鉄電車、近鉄奈良駅付近の商店街、そして明日香村の風景など、奈良の中途失聴。難聴協会の人たちが、聞こえない人も、聞こえる人も、そして、見える人も、見えない人も楽しみたいということでえ選んだ作品。主催者の思いを共有したい。

さらに、その最後につけられる音声ガイドの樹木希林の声の響きは、樹木希林の訃報に接して、またその印象を強めることとなった。

 


『やさしくなあに』(伊勢真一監督)

2018年08月09日 22時33分58秒 | 映画

8月7日、ホテルオークラの設立130周年記念の映画会で『あさしくなあに』が上映された。

伊勢真一監督のあいさつもあった。奈良の方々、元寄宿舎指導員の人たちと一緒にいった。ぼくは、3回目だが、見るたびに新たな発見がある。日比谷では、『夜明け前の子どもたち』との対比で、『やさしくなあに』をみた。今回は、『奈緖ちゃん』『ピグレット』『ありがとう』の継続として、『やさしくなあに』をみた。『やさしくなあに』は、これまでの映画との入れ子構造になっているので、『やさしくなあに』だけ見ても気づかないこともある。自分たちの仕事との関係で見ている元寄宿舎指導員の型は次のようにコメントしてくれた。

 ご飯をみんなで作ったり、男性と一緒のフロアだったり、とてもアットホームなところだなと思いました。寄宿舎の雰囲気に近かったですね。電話のシーンはほんとそうそう(^.^)と思いました。昔は公衆電話に並んだりしてました。今は携帯ですからいつでもかけられますね。安心を確かめたいんですね。本人さんにしたらお母さんが寂しがってると思ってるかもしれませんが。

 それと、お母さんにお薬を飲ませてあげるシーン、お茶をお父さんにとテーブルに置くところ、寝たら風邪ひくよとこれまで自分がしてもらってたことをさりげなく、親にしてあげる。そんな力も家だけでなく、学校や作業所やホームでつけた力なのかなと思いました。撮っている人への信頼があって、ごく自然に生活の様子が切り取られていてすごいと思います。生活の視点で撮るとはこういう事なんだと改めて思いました。人の内面が表現されたリアルな映像でした。

 ご飯をみんなで作ったり、男性と一緒のフロアだったり、とてもアットホームなところだなと思いました。寄宿舎の雰囲気に近かったですね。 

 思ったより、お家のシーンが多かったのはやはり家族の物語だからですね。お父さん、お母さんの葛藤に35年という年月の重みをひしひしと感じました。きれい事ではない真実があって、やさしくなぁにが染み入りますね。

 お母さんたちは、また別の見方をしているように思う。「おとうさんはわかってない!」ということも・・・。

 最後に、津久井やまゆり園の事件に関するコメントがでて、身が引き締まったのだが、その後、奈緖ちゃんの寝顔が映し出されたところは、夜の安心やねむりをなんとしたも守るという決意を見せつけられたように思った。

やさしくなあに応援団

 


沖縄スパイ戦史

2018年08月07日 10時14分13秒 | 映画

京都シネマで上映されていた、「沖縄スパイ戦史」をみた。

陸軍中野学校から沖縄に派遣されたエリート将校たち。御郷隊の隊長となった、村上治夫・岩波壽と少年たちの御郷隊の運命がはじめに跡づけられる。それだけではない。住民たちを監視し、相互に疑心暗鬼をつくりだし、米軍に対抗するようにコントロールしていく。村の牛や山羊を軍隊の食料にするために、住民をマラリアの蔓延する今に強制疎開させるなどなど。それは、来たるべき本土決戦のための第一の防波堤・捨て石だった。中野学校のエリート将校は、どうなったのか?村上と岩波は、戦後、戦死した御郷隊の子どもたちをともらうことを課してきた。その一方、波照間にきた、「山下虎雄」を名乗る工作員は、やさしく子どもたちに接し、住民たちの信頼をえたうえで、突如変貌し、軍刀の圧力の元、住民へ「西表島」への移住を強要した。軍刀は、おそらく使用されたのであろうが、映画の中では暗示はされるが、その記憶は軍刀とともに遺棄されている。山下虎雄は、戦後、工場の経営者となったという。電話取材でのその肉声が残っていた。当時の軍の事情を一般的にのべ、みずからの行いについての証言はない、住民への謝罪はもちろんない。山下こと、酒井の心の中はどうかはわからないが、沖縄とは無関係に戦後をあゆむ。

村上・岩波と山下の対照的な姿を垣間見る。中野学校から沖縄にわたり、工作にあたり、戦後、特殊教育の研究者になった斎藤義夫についてその足取りを跡づけてみたい。一時は、琉球大学に職を移したこともあったという。斎藤の心中はどのようなものだったのか?

同時に、陸軍中野学校の本土決戦準備は全国にひろがっていた。参謀本部から出されたパンフレット「国民抗戦必携」「対戦車戦闘」、美術学校にいっていた兄がイラストを描いていた関係で、そのパンフレットを家で見た15歳の大野松雄は「こりゃもう2年がいいとこかな」と思ったという。

「軍隊は私たちを守るのではない。基地を守るのであり、命令を出すものを守るのである」

73回目の8月15日がこようとしている。


沖縄スパイ戦史

2018年07月16日 15時36分30秒 | 映画

沖縄戦を振り返る時期になってきた。

『陸軍中野学校と沖縄戦』(吉川弘文館)が上梓された。

沖縄戦に動員された少年たち―プロローグ/沖縄に配置された陸軍中野学校出身者(陸軍中野学校/アジア太平洋戦争と遊撃隊/沖縄に配置された陸軍中野学校出身者)/少年兵「護郷隊」(やんばるの少年兵「護郷隊」/召集開始/陣地構築と教育訓練)/護郷隊の戦争(第一護郷隊の戦争/第二護郷隊の戦争/米兵の兄に助けられた少年兵と日本兵に虐殺された少年兵)/離島残置諜者(離島残置諜者とは/伊平屋島・伊是名島/粟国島と久米島/黒島と波照間島、そして与那国島)/大本営陸軍部直轄特殊勤務部隊(沖縄本島―剣隊/離島に潜伏した特務隊―宮古島班・西表島班)/陸軍中野学校と本土決戦―エピローグ

関連する映画がつくられた、「沖縄スパイ戦史」である。上映されるので、見てみたい。問題意識は、このブログで「沖縄」と検索するとでてくるが、戦後特殊教育の影の部分である。陸軍中野学校のエリート菊地少尉こと、沖縄では宮城太郎となのり、戦後、特殊教育の研究者として、戦中を語らずに過ごした人、どのような戦中・戦後と、その生涯だったのか?


加藤剛の訃報

2018年07月09日 23時00分13秒 | 映画

加藤剛が6月の半ばになくなっていたことが、今日、報道された。

7月7日、土曜日、あざみ・もみじの創立記念日で、大野松雄さんが編集した「今日も元気です」を見ていたときのこと、あざみ織り・一麦の焼き物などの東京での展示・即売会の場面でそのお客として来場していたのが、加藤剛だった(この展示会のエピソードおもしろいので、いずれ書いてみたい)。その場面が、「今日も元気です」のフィルムに残されていたのである。加藤の奥さんが、秋浜悟史の劇団30人会で活動していた女優の伊藤牧子。加藤剛の映像から、加藤剛の奥さんがあざみ織りのものをもってくれたり、お宅拝見などのところで、あざみ織りが絨毯にされてテレビで放映されたことなどを話をしていたところだった。

加藤剛の仕事は、「人間の条件」が原点だと言われる。その仕事の中に「砂の器」などある。ハンセン病の問題を提起した、この松本清張の推理小説の映画化についも考えてみたい。


「学校3」と「トミーの夕焼け」

2018年05月06日 18時28分29秒 | 映画
「特別支援教育研究センター」の源流と『トミーの夕焼け』

本学に着任して10年目の1998年に公開された映画が、山田洋次の『学校Ⅲ』だった。山田洋次の学校シリーズは、それ以前に、夜間中学校、そして養護学校を描いてきた。そのシリーズの第三弾の映画で、職業訓練校を舞台にした映画だった。リストラされた自閉症の息子をもつシングルマザーを、大竹しのぶが好演した。バブル崩壊後の失われた10年、リストラ、倒産などの社会の状況のなかで女性の自立と学び、自閉症のある息子との生活、学ぶ仲間との関係、病気や将来への不安など、職業訓練校に学ぶ主人公、そしてその学びの仲間たちの生き様や揺れが描かれている。
 公開当時、障害児学教室の先生方の間でも話題になったのだが、それは、『学校Ⅲ』の原作になった『トミーの夕焼け』(1997年)に関わっていた。『トミーの夕焼け』は、自閉症の息子の視点から母親の姿が描かれる短編集だが、その作者・鶴島緋紗子さんと本学の特別支援教育の源流となった故柳川光章先生の関わりのことだった。柳川先生は、臨床心理学の立場から1966年の養護学校教員養成課程の設置の中心を担われた。学生指導を含めて教育相談や「治療教室」などでの療育活動、僻地での調査活動など様々な活動を行っていった。『トミーの夕焼け』作者とはその中での出会いだったのだろう。柳川先生は、研究や教育、相談活動で自閉症(当時「情緒障害」)にこだわっていたが、作者との関係も自閉症の子どもの養育や教育に関わるものだったのだろうと想像される。
柳川先生が推進された本学の障害児学教室の構想や足跡にもその思いが感じ取られる。教室では概算要求で、附属養護学校の設置が準備されたのだが、残念ながら諸般の事情で実現がなされなかった。情緒障害教育特別専攻科の設置なども要求されたのだが、これも柳川先生が現職の間には実現しなかった。その中で、保護者や現場の先生方の教育相談、療育教室などの取り組みを継承し、発展させるべく構想されたのが「障害児教育実践研究センター」だった。しかし、これもまた国立大学時代には実現されず、大学が法人化されて以降、特殊教育から特別支援教育への転換のなかでようやく「特別支援教育研究センター」として設置されたのだった。
本学に障害児教育の教員養成の組織的な取り組みがはじまって、一昨年50周年の行事を行うことができた。そして、2017年には特別支援教育研究センターが設置されて10周年だった。これまで、様々な思いが込められ、様々なエピソードが織りなされた歴史があった。教員養成と教育相談・支援などセンターと教室は、次の10年の最初の一歩を本年度歩み始めたことになる。また今後新たな歴史を紡いでいくことになる。これからも、多くの皆さんとともに力強く歩んでいくことを期するとともに、関係者の方々のご指導ご鞭撻をお願いする次第である。

「特別支援教育研究センターニュース」