ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

幻に終わったのか? 田村一二「精神薄弱児の図画」と室戸台風

2020年03月02日 23時41分45秒 | 田村一二
昭和9年のある学校の日誌を点検している。
1934年度を点検していると、室戸台風の記載があって、大変な事態となった。昭和9年9月21日のことである。
ふと、田村一二の手稿「精神薄弱児の図画」の最後に書き加えた日にちが、9年9月15日だと思い浮かんだ。
その6日後に、室戸台風が襲来したことになる。
京都市特別児童教育研究会での授業とその報告のために記されたものではないかと推測していたのだが、それが室戸台風によって吹き飛ばされてしまったのではないか?
当の滋野小学校が、戦後中学校になり、その後、廃校になった。戦前の史料は残されていないがどうだろう?

田村敬男『荊冠80年』あすなろ、1987年

2020年02月25日 21時26分30秒 | 田村一二
田村敬男『荊冠80年』を読んだ。田村の生涯を病床で綴ったもの、書き綴ったものの最後が、「船岡寮の運営について」の書きかけの文で終わっている。
(前略)その中で忘れ得ぬ問題がある。T女が
編集者注として、「原稿はここで筆が置かれている。死の2日前という(後略)」とある。
田村敬男の回想録。1986年12月20日、82歳の生涯を閉じた。数奇な生涯というのか、何と表現してよいのかいまのところ言葉がみあたらない。書かれたことを歴史に照らしながら再度、その周辺を探ってみたい。
目次の骨子、概要のみ記しておく。

生い立ち
退職して社会科学書を取り扱う
思い出をつづれば・・・。
民衆の英雄 山本宣治氏(山宣)
学術・教養・文学・科学書の出版
戦時下企業整備とその活動 大雅堂発足
出版社の良心
戦後に歩んだ道
晩年、福祉の仕事に専念

「京都書肆変遷史―出版文化の源流」を点検のこと

相馬御風からの手紙

2020年02月23日 23時14分54秒 | 田村一二
『馬鹿一百人』については、『ちえおくれと歩く男』に登場すると思う。以前、読んだが・・・。
相馬御風から、「手をつなぐ子等」を絶賛する手紙をもらったのだが、それを田村敬男にわたして、ついにもどってこなかったことを、ぶつぶつ言っていたとのこと。これは、今日、吉永先生から伺った。あまり人のことを恨んだりしなかった田村一二だが、この件は何度も聞いたとのこと・・・。
不思議です。田村敬男の「人が綴ったわが人生」には、じつにそっけのない田村一二の文章がある。その恨みからか?それとも・・・。

Wikiより
相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月10日 - 1950年(昭和25年)5月8日)
日本の文学者、詩人、歌人、評論家。新潟県西頸城郡糸魚川町(現糸魚川市)出身。早稲田大学大学部文学科英文学科卒業。詩歌や評論のほか、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や童謡の作詞者としても知られる。

『障害児教育史研究』第2号発刊

2019年11月21日 13時45分01秒 | 田村一二
ようやく、『障害児教育史研究』の第2号を発刊できた。時間をみて発送作業をする予定。

目次
巻頭言
太平洋戦争下の東京の知的障害児教育・福祉(清水寛)
明治期の奈良県教育会による盲唖教育施設の創設建議(林喜子)
田村一二と「精神薄弱児の図画」(玉村公二彦・辻好明)
翻刻 精神薄弱児の図画(田村一二)
編集後記


敗戦の日

2019年10月28日 22時29分38秒 | 田村一二
小幡欣治『評伝 菊田一夫』(岩波書店、2008年)を読んでいる。これは、図書館で偶然見つけて、「君の名は」などの戦後のラジオドラマの脚本を書いてきた菊池のことも気になったので手にとり、「戦犯文士」の項を読んで、借りてきたのだった。その借りてきた理由となった箇所のところまで読み進んだ。次のような所。

菊田の「敗戦日記」が、昭和39年8月号「オール読物」に公表された。その部分が、引用されている(「戦犯文士」の項、p.136~)
敗戦の詔書の発表の前日8月14日
情報局より℡。至急来いとのこと。/午後3時、情報局s氏の許へ行く。/「終戦が決定し巻いた。今夜7時のニュースに詔勅が出る筈です。出れば直ちに帝都には限界令が布かれるでしょう。・・・」(p.140)

「八月六日の日記である。
 広島に原爆。園井恵子被爆。
とある。
 たしかに、この日原爆が投下された。だが、政府(大本営)が翌日発表した名称は「新型爆弾」であって、原子爆弾という名前が一般に流布するようになるのは十三日頃からである(『夢声戦争日記』昭和二十年下)。山田風太郎の『戦中派不戦日記』(講談社文庫
では、十一日。「敵が今回広島に使用せる爆弾を指せるなり。原子爆弾なりと伝えらる。ウラニュームを応用せるものか」
 まして原爆(傍点あり)という呼び方が使われるようになるのは、もっとあとである。
 また、園井恵子被爆の報が徳川夢声の耳に入ったのは、八月二十日である(『夢声戦争日記』)。後略
 つまり菊田一夫の『敗戦日記』というのは、日記の形式取ってはいるが、メモなどを元にして、あとから書かれたものあと判る。」
(146-147)

要するに、「原子爆弾」という呼び方は、八月十一日には識者の耳に入り、十三日頃には一般に流布するようになっていたのである。
だから、八月十五日には、「詔勅」には「新ニ残虐ナル爆弾」と書かれ、「新爆弾」と新聞報道がなされたのだが、「新爆弾」「新型爆弾」は、この時には「原子爆弾」という名称が流布されていた。

翻って、田村一二の敗戦の日の記録「石山学園日誌」に「原子爆弾」と記されていたのは、当然あり得ることだということがわかる。それにしても、徳川夢声やその他様々な人たちの公開されている日記での記述をよく調べておかないといけないと痛感。


蜂谷俊隆「糸賀一雄と木村素衛」(『福祉にとっての歴史 歴史にとっての福祉』ミネルバ書房、2017年所収)

2019年10月10日 14時56分54秒 | 田村一二
木村素衛関連で、昨日注文していた『福祉にとっての歴史 歴史にとっての福祉』がきたので、当該の「糸賀一雄と木村素衛」の部分を読んだ。
はじめに書かれている部分には共感を覚える。福祉実践における方向性を見失う傾向、外部の批判とその裏腹の自己の実践の正当化、実践的考察の強調と反省的態度・・・「糸賀の発言には分厚く蓄積された本来の意味における教養の裏打ちがあり、社会の中において自らがなし得ることに対する問いかけがある」などなど。
木村の「国民」論と「国民教育」論については、教育学的に考えてみる必要がある(「国民学校」の評価にかかわる)。とはいえ、木村から糸賀への論及は、どうも抽象度がたかいところをすくい取ってつなげているような印象があり、どうも落ちてこない。
木村における「実践」性と糸賀における「実践」性について、もうすこし何をみていたのか、「国民」として、差別や貧困、障害へのまなざしを具体的に確かめたいと思う。

田村が糸賀を評して、「笑顔がよいが、おちのないしゃべりはなんとかならないのか」とかなんとか書いていた。抽象度をたかめた哲学的な議論は時として、迷宮におちいっていくのが「おち」だ。自戒しなければ!

滋野小学校と特別学級

2018年12月20日 09時10分14秒 | 田村一二

 これまで、『忘れられた子等』『手をつなぐ子等』を中心に、田村が社会に発信してきた教育小説・児童文学、それらの映画などについて触れてきた。『忘れられた子等』『石に咲く花』『手をつなぐ子等』は、その前提となったのが、滋野小学校時代の「特別学級」の実践やそこでの実践記録、論究がもととなっている。戦前における田村の書いたものの全体像は明らかなものではないが、しかし、特に滋野小学校時代を中心とした田村の論考や実践記録などについてわかっている範囲内で示しておく必要がある。
 滋野小学校以前の代用教員の時代から書きためた田村の短歌が自宅から見つかったものについては、吉永先生が拾い出して「田村一二記念館報」第1号(年)に紹介されている。短歌や俳句の形式をとって、青年教師田村の感性を示しており、若き田村の視線や経験が見られて興味深い。
 滋野小学校時代に本格的に知的障害児教育を担っていくことになったのであるが、その端緒となったのが草稿「精神薄弱児の図画」(1934年9月)が発見されている。しかし、これは公表されたものではなく、手稿ということである。その後、昭和11年に『精神薄弱児の生活指導』(謄写版刷り、京都市立滋野尋常小学校、1936年)を出している。
 
 ところで、知的障害児教育における田村の活動は、京都市特別児童教育研究会を中心に行われていた。この研究会は、滋野小学校の校長であり、田村を「ペテン」にかけた斎藤千栄治が会長となり、崇仁小学校の高宮文雄と田村、そして養正小学校の田中寿賀男などが幹事として運営していた。朝日新聞厚生事業団の後援を得て、「精神薄弱児展覧会」へも京都市特別児童研究会は積極的に参加していた。そのパンフレットには、京都市特別児童研究会調べで「精神薄弱児教育に関する文献」が載せられている。その中に、3冊、京都市滋野小学校の発行の文献が挙げられている。『精神薄弱児と労作教育』『精神薄弱児の作業を主としたる教育』『個性教育(研究報告)』である。このうち、『精神薄弱児の作業を主としたる教育』は実物を確認しているが、その他の2冊の資料は未見であるが、本当に実在しているのかはわからない。『精神薄弱児の作業を主としたる教育』は、田村が特別学級担任になる以前の担任による実践報告であり、田村はかかわっていない(『忘れられた子等』の中で前担任が、谷村に資料を手渡す場面があるのだがこれらの資料だったのであろう)。
 
 それ以前に、滋野小学校からは斎藤千栄治の執筆による『異常児童教育の振興』が、1927(昭和2)年6月に出されているということだが、これも現在、所在がわからない。50年前に卒業論文で京都市の特別学級の歴史に取り組んだ、大嶋の論文の中にその片鱗を見ることが出来る。『異常児童教育の振興』を下敷きに書いている部分を摘記して以下に示してみる(大嶋正徳「京都市に於ける精薄児教育の成立過程」(昭和41年度京都教育大学卒業論文))。

『異常児童特別教育の振興』(滋野尋常小学校編、昭和2年6月、高宮ヲコト蔵)

設置の理由(43,44)
人道主義の面からだけではなく、その理由として、児童の具体的現実の生活に目を向け、学級内・卒業後の実態をとりあげ「彼等の精神生活及物質生活の向上を計ることは、教育者は勿論社会が当然なさねばならぬ義務」*であるから、特別施設を至急作ることを主張し具体的計画案を提起する**。
*斉藤千栄治「異常児特別教育の急務」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.6
**同「本市に於ける今後の施設に関する意見」同上書、pp.11-20(大島コメント:斉藤はこの中で非常に綿密な計画で養護学校の具体的構想を明らかにしている)
特別学級設置の意義(p.45)


*斉藤千栄治「異常児特別教育の急務 1.教育の機会均等」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.4(大島コメント:斉藤はこの中で限界を持ちながらも教育の機会均等の実現と言う観点から精薄児教育の必要性を主張している)


教育内容
具体的に実践を行った滋野小学校では教育方針を次のようにかかげる。*
1.簡易なる職業指導をなすこと。
2.日常生活の訓練殊に団体的社会的取扱により彼等の現在及将来の生活に必須欠くべからざる実用的の教授をなすこと。
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.11


滋野小学校に於ける職業指導は児童を手工類型と社会類型に分け個性に合った指導を目指した。手工類型の男子には木工による玩具製作の指導、女子にはミシンの使用と染色の指導を行い商品として売ることを目標とした。社会類型の児童には「被使用人としての養成」と清潔法の実習ならびに用達の使い歩きを指導して卒業後の彼らの生活の保障と余り親の厄介者にならない生活を送ることを目指した。* p.77
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.13


生活訓練(指導)では「偏奇なる感情の陶冶と社会的調和性の育成を目指し、そのため労作作業として動物園を作り小鳥、養鶏、養兎、養魚などの飼育、植物園、教室内外の掃除などの実習を行った。* p.77
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14


こうして斉藤千栄治は実践に基き「教育書籍や講義のみでは効果が甚だ薄い、活きた教育はかかる労作作業によりて初めて其の効果を確実」なものにすると、精薄児教育にとって労作教育の必要性を強調する。*77-78
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14


教科指導の面では、地理、歴史、理科の全科を郷土科の名目の下に統合し指導し、実物を用い直観に訴える指導を中心として主として実験を行った。更に算術では模擬店を開き売買の実習も行った。*p.78
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14


しかしこれらの直感教授も「徹底的の練習主義により、例え程度が低く量が少くとも教授したることは最も確実に把握せしむることに勤めて居る」*というように教師中心的な詰め込み教育であった。P.78
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14


「低能児は先天的或は後天的の原因によって知能の発育が遅れ、授業をする上に於て普通の児童とは到底一緒にできない児童をいう」*
*斉藤千栄治『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.1

注目しなければならないのは、昭和2年斉藤千栄治は「異常児童特別教育の振興」の中で「低能児と劣等児或は其他の異常児と混合したる学級を作ることは甚だよろしくない」*とし、①1学校に1学級以上の低能児或は其他の異常児学級を置き学区に関係せず同種の異常児を収容すること、②劣等児の促進学級を各小学校に一学級以上を併置すること」**、更に学級では充分に教育が出来ないから独立の養護学校を作ることを具体案を示しながら主張した***。
*斉藤千栄治「学級編成」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14
**斉藤千栄治「学級編成」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.15
***斉藤千栄治「独立の学校設置」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.17-20


映画『手をつなぐ子等』とCIE(GHQ)の検閲

2018年12月15日 22時45分28秒 | 田村一二

『伊丹万作全集』3の月報には、稲垣浩の「万作」という文章が寄せられている。戦前、稲垣と伊丹は共同で映画をつくってきた間柄である。伊丹は、1944(昭和19)年に『手をつなぐ子等』のシナリオを執筆していた。稲垣は、それまでの映画の製作について述べた後、田村一二の原作の映画化について次のように述べている。

「(前略)私は田村一二氏の『忘れられた子等』を書いて、是非やりたいと会社に申し出たところ、同じ著者の『手をつなぐ子等』を万さんが再起作品として計画していると聞いて、断念することとなつた。ところがやはり病状が悪く、これも私が代行することとなった。私はそれより先に、万さんを監督して私が助監督をつとめようと申し出た。しかし、その心使いは無用だと彼は断つた。/この作品は占領下に作ることとなつたが、進駐軍C・I・Eから戦後の話に書き改めなければ検閲を通せないと言ってきた。万さんはそれを聞いて怒り、それなら絶対にこのシナリオを使つてくれるなと言つた。私も彼の意を解し、米軍検閲官と二時間にわたりディスカッションして、原形のままで押し通した。しかし万さんは終にこの作品の出来上がりを見ずに世を去つたのである。」

伊丹万作のこの脚本への思いは強しである。なぜ、時代設定を「昭和12年」としたのか、それを妥協せずに貫いたのか。そして、稲垣浩は、検閲官とどのようなディスカッションをしたのだろうか。伊丹と稲垣のそれまでの映画づくりと映画批評などの背景にある思想、戦争についての彼等の態度も含めて検討する必要があろう。戦中における伊丹の情勢判断、そして戦後の第二次世界大戦についての論評を読んでみる必要がある。

伊丹万作は、田村の石山学園に思いをはせ「石山学園の歌」をつくり、足尾鉱毒事件の田中正造の生涯を映画化する構想を練りながらも、1946年9月21日、病いに没した。46歳の生涯であった。


伊丹万作と『手をつなぐ子等』

2018年12月15日 13時14分22秒 | 田村一二

1週間前から、正確に言うと12月6日の木曜日から、ノドが痛く、咳が止まらない。7日に診療所に行って、薬を処方してもらい、土日も予定を全部キャンセルして静養した。納まったかなと思ったのだが、薬が切れると、とたんに寝入りっぱなに咳き込んで眠られない。睡眠不足がまた、体調不良を促すことに。結局、14日の金曜日に診療所に行った。この1週間、そんなくらくらする中で、探していたのが『伊丹万作全集』・・・。その3巻に「手をつなぐ子等」があり、それを確認したかったからだ。

もともとは、以前に研究室用に買ったもの(書店経由では、1巻と3巻だけしかなかった)。研究費で購入していたので、図書館の蔵書で、研究室に貸し出しているという形となっていた。故あって、研究室の図書を図書館に返却していたところだった。『伊丹万作全集』もみあたらなかったので、返却したのではと思って、「ちぇっ」と舌打ちしながら、図書館にいって整理中の書架などを探して貰うが・・・「ない?」「まだ返却されてないみたいです・・・」とのこと。たしか、あそこにあったはずと思っていたところに見当たらないので、てっきり返却したものと思っていた。研究室やいろんなところをさがしてみても・・・・「ない!」。

結局、1週間探しまわって・・・・ようやく出てきた。灯台もと暗しとはよくいってもので、2冊きちんと別の部屋に鎮座しておられました。

さっそく、みてみると、やはり・・・伊丹万作がこの「忘れられた子等」の演出意図と備考としての留意事項が、脚本のあとに書かれている。ここでは、時間がないので、伊丹がこの作品を書いた理由などにつて触れるにとどめたい。伊丹は、原作の映画化について、「演出の根本精神」として「道義的精神」と「芸術的精神」があるという。前者は、「精神薄弱児の問題」であり、「未発掘の人的資源(当時のことば)としての意義を明らかにし…社会的情熱に訴えること」、もうひとつは「不良児が次第に感化されていく過程を通じて善の意識に快い刺激を与える」というもの。しかしそれ以上に、「芸術的精神が強力に作品を貫く」として次のようにいう。

「実を言うと、私がこの原作によつて非常に心を動かされた理由は、先に述べたような道義方面による点も少なくはないが、それにも増して私はむしろそこに描かれている小さいものたちの世界の澄み切った美しさに感嘆したことを白状する」

続けて・・・「ここには快いユーモアもあり、悲しみもあり、その他社会にあるようないろいろなものがあるにはあるが、ただ違う点は、こちらはどこまでも純真であり、明朗であり、徹底的に澄み切っていることである。このような美しさを、もしもそっくり映画に移し植えることができたならば、多くの人がその映画を見て泣いたり笑ったりしたあげく、結局心を洗われたような快感をいだいて帰って行くだろう。そういう映画をつくりたいものだというのが私の最初に描いた夢であり、そして未ださめない夢なのである」

演出備考の最初には、

「時 原作では大体、シナ事変のころを標準として書かれているが、映画では大東亜戦争開始の前後にわたっているように扱いたいと思う。風俗など、最近は一年間にずいぶんの差を示しているが、その点などあまり事実に拘泥せず、なるべく最近の風俗をとりいれるようにしたい」

とある。この脚本が戦時中に書かれたものであることに留意する必要があろう。伊丹万作と田村一二の戦中/戦後の交流については別途書いてみたい。


映画『手をつなぐ子等』の時代設定

2018年12月08日 18時48分20秒 | 田村一二

風邪で調子が悪いのだが、新聞を読んで今日が太平洋戦争が始まった日だと知った。1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃し、その後、国民生活のすべてが戦争という一色に塗り替えられていった。

田村の3部作は、この時代に世に出された。戦中、それが伊丹万作、稲垣浩の目にとまり、その映画化が構想され、敗戦後、伊丹の死はありながらも、1948年に『手をつなぐ子等』、1949年に『忘れられた子等』が公開されていった。『手をつなぐ子等』は、はじめのキャプションで時代設定が、「昭和12年」とでてくる。昭和12年、1937年は、盧溝橋事件が起こり、日中戦争が開始された年である。日本の社会には国民精神総動員運動が開始されるという時代である。前にすこしばかり書いたように主人公のカンチャンの父親が出征することになり、転校することになる学校に母親(これが杉村春子なんだよな!)がその実情を語る場面が導入となっている。この場面のリアリティを持たせようとすると、「昭和12年」という設定は理解できる。しかし、日本の侵略戦争・軍国主義を想起させるというものとして、GHQから指摘され、検閲でチェックされ難色を示されたであろうことは、容易に推測できる。「昭和12年」をめぐって、あるいはこの導入の場面をめぐって、制作側とGHQ側とはどのような議論があったのであろうか?そんなことも気になるところである(もしかしたら、ブランゲ文庫等には脚本のチェックされたものがあるのかもしれない)。

『手をつなぐ子等』は、羽仁進監督で、1964年3月に公開されたリメイク版『手をつなぐ子ら』があるが、この時代設定は現代的なものとなっていると思われる(羽仁進監督の『手をつなぐ子ら』は残念ながら未見である)。

ちなみに、同じ稲垣浩監督の映画『忘れられた子等』の時代設定は「現代」となっていた。


児童文学・児童文化としての『手をつなぐ子等』ー紙芝居のこと

2018年12月06日 20時57分19秒 | 田村一二

振り返って、田村の教育文学の出発は、「もつと活発に社会に働きかけてもいいと思ふ」(前出『鋏は切れる』)と決意して著作にした『忘れられた子等』であり、続いて『石に咲く花』、そしてこの『手をつなぐ子等』が出された。だから、この一連の著作の連続性を考慮する必要がある。『手をつなぐ子等』は、戦中においてその社会に働きかける一つの到達点だったのではないだろうか。こういうと、戦後に「世に出た」というを長谷川の評価には疑問が残る。

とはいえ、田村自身も言っているように、内容においては、『忘れられた子等』『石に咲く花』が、特別学級を中心とした者であるのに対して、『手をつなぐ子等』は、通常学級という違いもあり、また、形式においても、『忘れられた子等』がエピソードの点描を集積したものであり、『石に咲く花』がエピソードを3話に構成した短編集とも言えるもの。そして『手をつなぐ子等』が長編ということになる。

すでに『忘れられた子等』の成立については、日出新聞の連載をその一部として構成し、そして、『石に咲く花』には、これもまた詳述する必要があるが「精神薄弱児の図画」を基にした部分があるようである。では、『手をつなぐ子等』はどうか―この点ももっと深められなければならないが、手をつなぐ子等』にでてくる兵士として出征する父親の悩みと手紙のエピソードは、『勿忘草』第2号の田村の「覚え書き帳から」というもののなかにいれられている。別の機会に紹介や検討をしてみたい。

『手をつなぐ子等』の映画化についても、伊丹万作の著述をもとに検討したり、脚本検閲などについても調査が必要だ。伊丹を引きつけた『手をつなぐ子等』は、映画によって戦後の社会に送り出された。その広がりを調べてみたいのだが、少し着手していると紙芝居『手をつなぐ子等』が見つかった。

紙芝居については、2年前の青山塾での講義が始まるまえから、気になっていた。「日本の古本屋」のネット上に紙芝居が出品されていたのである。田の図書館に入っているかどうか、国会図書館などの検索で調べてみると東京の公立図書館1館だけに所蔵されているようだった。どうするか、古本屋で買うかどうか??購入するには高すぎる!!それも前編・後編の2つもあるのだ。一つ○万円するのだ。田村の著作を読んでいた滋賀の方もそれをみつけて「研究費で購入して、紙芝居に音声を付けて動画にしてよ」と勝手なことを言い始めて、よけいに悩んでしまった。半年くらい悩んでいたと思う。そのときに、青山塾の講義に池田太郎を担当している社会事業大学のT先生も参加すると担当のTさんがいってきた。ますますプレッシャーがかかり、その重みに、自然とポチッと「購入ボタン」をおしていた。ああ、またやってしまった・・・!


「ブランゲ文庫」の中の「手をつなぐ子等」(承前)

2018年12月05日 12時30分36秒 | 田村一二

ブランゲ文庫の中には、二つの『手をつなぐ子等』があることは先に示した。第6版と第7版である。削除修正についての点検は今後の課題となるが、その表紙だけ示しておきたい。なお、伊丹万作脚本・稲垣浩監督の映画『手をつなぐ子等』の公開は、1948年の3月30日が初日だった。それ以後、この映画と共に第6版、第7版が刷り増しされていったものと思われる。なお、映画のGHQによる検閲の内容や再版されたものの修正との関係も検討の課題となろう。

第6版は、昭和23年6月1日の発行となっている。表紙をスキャンしたものは以下のものであり、ナンバーと6月7日の日付が書かれている。

第7版は、昭和24年3月1日の発行である。こちらは、1949年の3月14日の日付のようによめる。


「ブランゲ文庫」の中の「手をつなぐ子等」

2018年12月04日 13時34分38秒 | 田村一二

『仔鹿と少年』はもともと、”The Yearing”が原作で「イアリング」の訳本を児童読み物にしたものだった。「イアリング」と聞くと、耳飾りを音で想起するのだが、それはear-ringであり、前にも述べたが、このyearingは1年を経た動物を指す言葉、考えてみればその語は、Year(年)の動名詞である。「年を重ねていくぞ、これから大人になっていくぞ」というものだ。それはともかく、戦中から戦後直後にかけて、田村が児童読み物・児童文学へと志向したことは指摘しておく必要があるだろう。南郷太郎は、伊丹万作と新居格の後押しをうけて、伊丹十三の装丁・挿絵でこの本を世に送り出したのである。ちなみに、一碧文庫のものには、糸賀一雄への謹呈の署名があったように記憶している。

ところで、この『仔鹿と少年』を検索して出てきた「ブランゲ文庫」に関わって、もう一つの田村一二の本が収蔵されているのである。それが、『手をつなぐ子等』である。この「ブランゲ文庫」の中の『手をつなぐ子等』ついてふれるまえに、長谷川潮の『児童文学のなかの障害者』(ぶどう社、2002年)が『手をつなぐ子等』について書誌事項も含めて詳しく述べているので、そのことについて触れておきたい(第4章「最初の長編『美しい旅』と『手をつなぐ子等』」、なかでも3として『手をつなぐ子等』がpp.87-98に詳述されている)。

長谷川潮は、戦中版について、初版が1944年1月(2月)に出され、その後、日本出版界から推薦され再版される経緯を分析している。戦中版は大雅堂から出され、それが戦後においても大雅堂から継続して出されており、第7版まで版を重ね、その後、1950年に大阪教育図書の『田村一二名作選 忘れられた子等・手をつなぐ子等』として再度別の出版社から出されるという経過をたどっていた。問題は、大雅堂から発行された『手をつなぐ子等』の敗戦を境とした修正・削除のことである。

長谷川は、戦中において日本出版界の推薦文を全文あげて、『手をつなぐ子等』が「皇国民ノ一人トシテ育テ上ゲラレ」などの受け止め方を可能とする表現がこの本の中にあり、それが戦後版では削除されたり、言い換えられたりしていると、その具体を示している。そして、このような操作について、次のように指摘している。

「戦中版と戦後版をめぐるそういう田村の操作について、わたしたちはどう考えるべきなのだろうか。戦中版の軍国主義的な、あるいは天皇主義的要素は、当時において出版するためのほとんどやむを得ない修飾だたったとわたしは考えている。/むろん修飾だろうとなんだろうと、いったん表現されたことについては、作者はそれなりの責任を負わなければならない。しかし、修飾としてのそういう要素を持つ作品と、軍国主義・天皇主義の賛美それ自体を全面的に目的とした作品とを同列に扱うことも、また適切ではない。戦後版においてそれらの修飾要素の削除ないし言い換えがなされたのは、むろん原型のままでは占領軍の検閲を通過しないからではあるが、それ以上に、戦中版自体が余分な要素を付加したものであって、戦後版においてはじめて、本来の『手をつなぐ子等』が世に出たと考えてもよいであろう。」

長谷川は、戦後に本来の『手をつなぐ子等』が世に出たとさえいうのだが、生まれたての姿が、先にのべた国会図書館がメリーランド大学との共同で作業した「ブランゲ文庫」の児童書のデジタル化作業で公開されている『手をつなぐ子等』である(ただし、国会図書館に行かないと見れないが・・)。大雅堂版は、第6版と第7版の2種類がこの「ブランゲ文庫」にはあるのである。

 


『仔鹿と少年』のこと

2018年12月03日 15時41分25秒 | 田村一二

『仔鹿と少年』は、もともとはマージョリー・キーナン・ローリングス『The Yearling(イアリング)』というもので、新居格の翻訳で1939年に出されている(『イアリング』(M.K. ローリングス原著、四元社、1939年)。”Yearling”とは動物の満1年子(1歳児)のことをいうが、多くは子馬から成長つつある「明け2歳馬」のことをいう。動物の仔から大人へ、少年の成長をこの題名は象徴している。原作は、アメリカでは、1946年映画化されていた。戦後は『子鹿物語』として紹介され、いろいろな翻訳ものが出されている。

原作は仔鹿と関わる少年の成長とが絡み合って、少年から大人への道行きとして描かれる。そのあらすじは、次のようなものである(Wikipediaより)

舞台は自然豊かなフロリダ州の田舎。バックスター家の気弱な少年ジョディは父親ペニーと母親オリーと暮らしていた。ある日、父親が狩猟中にガラガラヘビに噛まれ、とっさに付近にいた雌鹿を殺し、肝臓で毒を吸い出した。雌鹿に連れ添っていた子鹿を父ペニーから与えられたジョディはこれを飼い始める。子鹿は白い尾にちなんでフラッグ(旗)と名付けられる。ジョディはフラッグを可愛がるが、成長するにしたがってフラッグは作物を食い荒らすようになる。森に放してもフラッグは柵を飛び越え、戻ってきてしまう。たまりかねた母親はフラッグを銃で撃ち、傷を負わせるも死なせるには至らなかった。そしてジョディは自らフラッグを撃ち殺す。悲しみにくれたジョディは家出し、カヌーで川を下るも壊れて難破し、郵便船に助けられる。やがて家出から戻ってきたジョディの心は少年から大人へ成長していた。

『仔鹿と少年』の目次は次の通り。

1.水車/2.趾欠け(ゆびかけ)/3.鶴の踊り/4.牝鹿/5.ガラガラ蛇/6.仔鹿/7.蜜蜂/8.浣熊/9.あらし/10.野営/11.狼狩り/12.クリスマス/あとがき

装幀・挿絵 池内岳彦

あとがきには、伊丹万作のすすめと激励があったこと、新居格の許可があったことなどがかかれている。新居格は、戦前においてパールバックの『大地』を訳出し(1935年)、モダニズムの評論をおこなったことで有名、政治思想はアナキズムといわれているが、賀川豊彦のいとこにあたる人物。伊丹万作や新居格から田村が受けた影響もあるのではないかと思う。この件は、絵画「裸婦」の出展に関連して、唯物論の本などを隠したというような話が『ちえおくれと歩く男』の中にあったようなところが気になるが・・・。

あとがきの最後には、「装幀並びに挿絵は中学二年生である伊丹さんの遺児、岳彦君にやって貰った。訳文の自由な使用を許して下さった新居格氏と共に岳彦君にも深い感謝を捧げたい」とある。

池内岳彦(本名・池内義弘)は、伊丹万作が本当はつけたかった名前から「岳彦」として呼ばれ、自分でも使っていたが、伊丹十三のこと。伊丹十三は、商業デザイナー、俳優、エッセイスト、TVマン、雑誌編集長、映画監督として縦横に活躍した才人であった。

 


南郷太郎『仔鹿と少年』(1948年、大雅堂)

2018年12月03日 14時43分52秒 | 田村一二

 国会図書館で『仔鹿と少年』を検索すると、いくつかのものがヒットする。
 まず、マイクロフィルムの資料として、『仔鹿と少年』(南郷太郎著,池内岳彦 絵  大雅堂  1948)が、 国立国会図書館デジタルコレクション となっており、国会図書館以外も京都・大阪・東京の公立図書館が所蔵しているようである、同一書であるが、児童書総合目録として、ロ-リングズ・マ-ジョリ-・キナン原作]、南郷太郎著というのもでてくる。
 また、「ブランゲ文庫児童書マイクロフィルム所蔵タイトルリスト(読み物) 2010/1/19現在」の中にもこの『仔鹿と少年』がリスト化されていることがわかる。
 この「ブランゲ文庫」というのは、戦後間もない米国の占領下において、GHQが日本の出版物の検閲をするために収集した図書をベースとしたものであり、後に、アメリカのメリーランド大学に寄贈され、寄贈者の名前をとって「ブランゲ文庫」として長年保存されてきたものだった。2014年、国会図書館でデータのデジタル化と目録の公開があったものだった。実は、この「ブランゲ文庫」には、小松左京の三高時代、京都大学在学中に執筆したマンガ、デビュー作などもあり、小松左京のファンの間では注目されていた文庫であった。このブログで書いた小松左京『やぶれかぶれ青春期・大阪万博奮闘記』新潮文庫には、小松の息子小松実盛「『青春期』に書かれなかったことー漫画家としての小松左京」(pp.205-231)があり、「幻の漫画」とそれにまつわる小松の行状が記されている。

 この「ブランゲ文庫」は、1945年から1949年までの日本で出版された印刷物のほとんどを所蔵するものらしく、国会図書館の解説には次のようにある。
「プランゲ文庫に収蔵された図書約73,000冊のうち、児童書は約8,000冊で、絵本、読み物、漫画、ぬりえ、かるた等多様な資料が含まれている。国内機関では所蔵していない資料も数多く、占領下の検閲の実態を示すと共に、この時期の児童文学・児童文化や出版状況を知る貴重な歴史的資料でもある。」

この児童書の一つが南郷太郎の『仔鹿と少年』だった。