これまで、『忘れられた子等』『手をつなぐ子等』を中心に、田村が社会に発信してきた教育小説・児童文学、それらの映画などについて触れてきた。『忘れられた子等』『石に咲く花』『手をつなぐ子等』は、その前提となったのが、滋野小学校時代の「特別学級」の実践やそこでの実践記録、論究がもととなっている。戦前における田村の書いたものの全体像は明らかなものではないが、しかし、特に滋野小学校時代を中心とした田村の論考や実践記録などについてわかっている範囲内で示しておく必要がある。
滋野小学校以前の代用教員の時代から書きためた田村の短歌が自宅から見つかったものについては、吉永先生が拾い出して「田村一二記念館報」第1号(年)に紹介されている。短歌や俳句の形式をとって、青年教師田村の感性を示しており、若き田村の視線や経験が見られて興味深い。
滋野小学校時代に本格的に知的障害児教育を担っていくことになったのであるが、その端緒となったのが草稿「精神薄弱児の図画」(1934年9月)が発見されている。しかし、これは公表されたものではなく、手稿ということである。その後、昭和11年に『精神薄弱児の生活指導』(謄写版刷り、京都市立滋野尋常小学校、1936年)を出している。
ところで、知的障害児教育における田村の活動は、京都市特別児童教育研究会を中心に行われていた。この研究会は、滋野小学校の校長であり、田村を「ペテン」にかけた斎藤千栄治が会長となり、崇仁小学校の高宮文雄と田村、そして養正小学校の田中寿賀男などが幹事として運営していた。朝日新聞厚生事業団の後援を得て、「精神薄弱児展覧会」へも京都市特別児童研究会は積極的に参加していた。そのパンフレットには、京都市特別児童研究会調べで「精神薄弱児教育に関する文献」が載せられている。その中に、3冊、京都市滋野小学校の発行の文献が挙げられている。『精神薄弱児と労作教育』『精神薄弱児の作業を主としたる教育』『個性教育(研究報告)』である。このうち、『精神薄弱児の作業を主としたる教育』は実物を確認しているが、その他の2冊の資料は未見であるが、本当に実在しているのかはわからない。『精神薄弱児の作業を主としたる教育』は、田村が特別学級担任になる以前の担任による実践報告であり、田村はかかわっていない(『忘れられた子等』の中で前担任が、谷村に資料を手渡す場面があるのだがこれらの資料だったのであろう)。
それ以前に、滋野小学校からは斎藤千栄治の執筆による『異常児童教育の振興』が、1927(昭和2)年6月に出されているということだが、これも現在、所在がわからない。50年前に卒業論文で京都市の特別学級の歴史に取り組んだ、大嶋の論文の中にその片鱗を見ることが出来る。『異常児童教育の振興』を下敷きに書いている部分を摘記して以下に示してみる(大嶋正徳「京都市に於ける精薄児教育の成立過程」(昭和41年度京都教育大学卒業論文))。
『異常児童特別教育の振興』(滋野尋常小学校編、昭和2年6月、高宮ヲコト蔵)
設置の理由(43,44)
人道主義の面からだけではなく、その理由として、児童の具体的現実の生活に目を向け、学級内・卒業後の実態をとりあげ「彼等の精神生活及物質生活の向上を計ることは、教育者は勿論社会が当然なさねばならぬ義務」*であるから、特別施設を至急作ることを主張し具体的計画案を提起する**。
*斉藤千栄治「異常児特別教育の急務」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.6
**同「本市に於ける今後の施設に関する意見」同上書、pp.11-20(大島コメント:斉藤はこの中で非常に綿密な計画で養護学校の具体的構想を明らかにしている)
特別学級設置の意義(p.45)
*斉藤千栄治「異常児特別教育の急務 1.教育の機会均等」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.4(大島コメント:斉藤はこの中で限界を持ちながらも教育の機会均等の実現と言う観点から精薄児教育の必要性を主張している)
教育内容
具体的に実践を行った滋野小学校では教育方針を次のようにかかげる。*
1.簡易なる職業指導をなすこと。
2.日常生活の訓練殊に団体的社会的取扱により彼等の現在及将来の生活に必須欠くべからざる実用的の教授をなすこと。
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.11
滋野小学校に於ける職業指導は児童を手工類型と社会類型に分け個性に合った指導を目指した。手工類型の男子には木工による玩具製作の指導、女子にはミシンの使用と染色の指導を行い商品として売ることを目標とした。社会類型の児童には「被使用人としての養成」と清潔法の実習ならびに用達の使い歩きを指導して卒業後の彼らの生活の保障と余り親の厄介者にならない生活を送ることを目指した。* p.77
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.13
生活訓練(指導)では「偏奇なる感情の陶冶と社会的調和性の育成を目指し、そのため労作作業として動物園を作り小鳥、養鶏、養兎、養魚などの飼育、植物園、教室内外の掃除などの実習を行った。* p.77
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14
こうして斉藤千栄治は実践に基き「教育書籍や講義のみでは効果が甚だ薄い、活きた教育はかかる労作作業によりて初めて其の効果を確実」なものにすると、精薄児教育にとって労作教育の必要性を強調する。*77-78
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14
教科指導の面では、地理、歴史、理科の全科を郷土科の名目の下に統合し指導し、実物を用い直観に訴える指導を中心として主として実験を行った。更に算術では模擬店を開き売買の実習も行った。*p.78
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14
しかしこれらの直感教授も「徹底的の練習主義により、例え程度が低く量が少くとも教授したることは最も確実に把握せしむることに勤めて居る」*というように教師中心的な詰め込み教育であった。P.78
*斉藤千栄治「教育方針」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14
「低能児は先天的或は後天的の原因によって知能の発育が遅れ、授業をする上に於て普通の児童とは到底一緒にできない児童をいう」*
*斉藤千栄治『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.1
注目しなければならないのは、昭和2年斉藤千栄治は「異常児童特別教育の振興」の中で「低能児と劣等児或は其他の異常児と混合したる学級を作ることは甚だよろしくない」*とし、①1学校に1学級以上の低能児或は其他の異常児学級を置き学区に関係せず同種の異常児を収容すること、②劣等児の促進学級を各小学校に一学級以上を併置すること」**、更に学級では充分に教育が出来ないから独立の養護学校を作ることを具体案を示しながら主張した***。
*斉藤千栄治「学級編成」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.14
**斉藤千栄治「学級編成」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.15
***斉藤千栄治「独立の学校設置」『異常児童特別教育の振興』(昭和2年6月)、p.17-20