以前書いた中島京子の『夢見る帝国図書館』を読み終えた。喜和子さんの敗戦ののちのことがうすらぼんやりとわかりかけてきた。バラック暮らしで、そこで復員兵の2人の男性と暮らし、その一人が『としょかんのこじ』の作者となり、「帝国図書館」の物語を書いているというような・・・記憶は、書き換えられ、美化されたり、また、意図的に削除されたりもしているが、それを裏付けたり、辿ったりするのは、推理小説のようでもあり。合間に、「夢見る帝国図書館」の話題が挟み込まれている。
この鋏み込むというやり方ではなく、このコラムみたいなものをつなげて、第一部として通し、そして、喜和子さんの物語を第二部として通すというやり方もあるのではないかと思ったりした。
とはいえ、敗戦直後の「駅の子」の話が出てきたり、戦後憲法と女性の権利の実現に寄与する話題が登場したり、帝国図書館とそれが見つめてきた人たちの物語が重なって、戦前・戦中・戦後の歴史を考えさせられる小説だった。どう使おうか?
古尾野先生のことは・・・大陸から引き揚げてきて、大阪に着いて駅の周辺ではぐれた経験 「日が暮れてくると、ますます人が増え、厚化粧の女たちやら、物乞いやら、得体のしれない物売りやら、それこそ駅の子と呼ばれた家のない子どもたちやら、そこをねぐらにしたり、客を待ったりしている連中が集まってきて、ひどいにおいが立ちこめて、なにがなにやら判らない」(360頁)古尾野先生は、少し苦しそうに二回ほどしわぶいた。「だって、あの当時いっぱいいたからね。駅の子と呼ばれた戦災孤児がさ。あの子どもたちくらい、ひどいめにあったのはないんだから。大人のはじめた戦争で親も家もなくしてね」(362頁)
それから「夢見る帝国図書館24 ピアニストの娘、帝国図書館にあらわる」はベアテ・シロタの「女性の権利」をGHQ憲法草案に入れる話。「わたしはこの国で五歳から一五歳まで育ったから、すくなくともほかのアメリカ人よりは、この国のことをよく知っている。この国の女の子が十歳にもなるやならずで女郎部屋にいられていることも、女達には財産権もなにもないことも
、子どもが生まれないといういう理由で離婚されてもなにも言えないことも、「女子ども」とまとめて呼ばれて成人男子とあっきらかに差部悦去れていることも、高等教育など受けさせなくていい存在だと思われていることも、おや名決めた結婚に従い、いつも男たちの後ろをうつむきながらあついていることも。わたしは知っている・・・・・・わたしが憲法草案をかくなら、・・・この国の女は男とまったく平等だと書く」(377-382頁)