ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

米田治泰さんのコレクションについて

2019年10月30日 17時52分36秒 | その他
ビザンツ関係の学会のレポートに故米田貞一郎さんの息子さんの収集していた資料のその後が書かれていた。2016年末から2017年のはじめに急遽整理をしていたものの、その後が気になっていた。大阪市立大学にコレクションが所蔵され、その概略が書かれている。ほっとした。



小幡欣治『評伝 菊田一夫』(岩波書店、2008年)

2019年10月30日 11時08分27秒 | 

小幡欣治『評伝 菊田一夫』を読み終わった。
少年菊田はどん底生活、台湾に連れて行かれたり、売り飛ばされたり、その貧困な生活をくぐって、奉公人の生活で、宝塚をみにいくような女性に初恋とあこがれ。
そおから、芝居の脚本、作家として這い上がっていく。はじめは、「アチャラかもの」から。戦中は、「戦意高揚もの」まで。
敗戦後、「戦犯文士」の自意識から、ラジオドラマ、演劇などを手がける。気になるところを、摘記しておく。すぐ忘れてしまうので。

戦後のラジオの時代 p.160-161
「食うために、菊田一夫はラジオを書き始めたが、それでもこの時期『東京哀詩』と『堕胎医』という舞台劇を発表して、賃貸した演劇界に戦争惨禍の現代劇として一石を投じた功績は忘れられてはならないだろう。前者は、戦後間もないガード下が舞台で、戦災孤児、夜の女、やくざ者など、底辺に生きる人間たちの姿が生々しく描かれている。戦後風景の糸コマを切り取ったドラマとして菊田は冷めた目で書いている。わずかに最後の景で、浮浪児たちが夢の中で死んだ父母に出会ったり、楽しい食事をしたりする場面に、菊田一夫のリリシズムが胸を熱くさせる。」「後者は・・・戦地から帰ってきた若い医師が、夫から性病を移され妊婦に診察を頼まれる。後略」
p.163
「多忙をきわめていた菊田一夫に、NHKから呼び出しがかかったのは、昭和22年の春だった。/出かけていくと、4回にあるCIE(民間情報教育局)ラジオ課のオフィスに連れて行かれて、放送班長のH・ハギンズ少佐から戦災浮浪児救済のドラマを書けと言われた」。これを契機にかかれたのが『鐘の鳴る丘』。放送は、昭和22年7月22日にはじまった。
「菊田一夫はこの貴各区を聞いたとき、放送時間は別にして、自分以外に浮浪児救済のドラマを×作家はいないと、みじめだった幼年期を重ね合わせてた。さらにまた、「戦意高揚劇」をいっぱい書いて、浮浪児たちの親や兄たちを線条へ送り出し、戦死させてしまった古都への反省もあった。『鐘の鳴る丘』を書くことは、戦犯作家菊田一夫の贖罪でもあった。」(165-166)

東宝時代と芸術座 ここでの宮城まり子を扱った作品も興味深い。
『まり子自叙伝』(菊田一夫)。自叙伝とあるように、当時「ガード下の靴磨き」やごく芥子はいらんかね」などを詩って人気のあった宮城まり子の半生記を舞台化したものである。どさ回りの売れない芸人まり子が、苦労の末に世に出る成功譚で、・・・これが当たって、三ヶ月のロングランとなり、彼女は女優として認められた。」

その他、八千草薫の出ていた芝居についても記述がある。