ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

九鬼周造の「いき」と「野暮」(粕谷一希『粕谷一希随想集Ⅱ 歴史散策』藤原書店、2014年)

2019年10月08日 21時59分43秒 | 
以前、京都学派に関する武田篤司『物語「京都学派」』(中公文庫)を読んだことの中で、木村素衛について次のように記した。

糸賀一雄没50周年。その源流をたどると木村素衛、そしていわゆる「京都学派」にいく。そんな関係で、「京都学派」について、よんでいる。(中略)東大の井上哲次郎との関係で、自ら考えることを追求した西田・田辺たちの京都帝国大学の哲学科。その広がりの中で、いろいろな人たちの開かれた学びができあがっていく姿をとらえている。東大のケーベルの弟子、波多野精一の哲学史・宗教哲学では、糸賀が最後の卒業生となった人その晩年が「波多野精一「バラの情熱、白百合の清楚」」。糸賀が代用教員時代に慕った木村素衛は、「木村素衛の「玉砕」」として西田の亡くなった後の死を書いている。「数理哲学はいきな学問」(木村)「教育学はやぼな学問」(高坂)「いや、俗な学問さ」(木村)と・・・。俗のなかにずっぽりとつかりながら、教育学の構築を行おうとしたのだが。

この木村と高坂のやりとり、「いき」と「やぼ」について、九鬼周造の『「いき」の構造』(1930年、岩波書店)からとってきているやりとりであることに気づかされた。
九鬼は、「いき」とはなにかを、垢抜けて(洗練)、張りのある(緊張)、色っぽさ(媚態)と定義し、幾何学的に概念関係を図示している。すなわち、「いき」と「野暮」に対角線に描き、もう一つの対角線に「甘味」と「渋味」を描き、その四角形を、「上品」と「下品」、「派手」と「地味」の四角形を対応させる、四角柱をつくって説明している。

これを紹介しているのが、中央公論社の編集者で評論家となった粕谷一希「九鬼周造」『粕谷一希随想集Ⅱ 歴史散策』(藤原書店、2014年)である。『「いき」の構造』自体を上梓したことの九鬼にとっての意味を想っていることも興味深い。九鬼は「江戸っ子」ではあったが、西田幾多郎によって京都帝國大學文学部哲学科に招聘されることになる。

こうした九鬼の「いき」と「野暮」の対比的な概念を前提としての木村と高坂のやりとりなのだが、しかし、木村は教育学を「俗」と表現し、「いき」「野暮」と次元の違いを指摘した。考えてみると、「いき」「野暮」は理論の成熟度を示すのかもしれないが、教育学は「俗」としてみると、それは実践性の次元を指しているのかもしれない。しかし「俗」の反対語は「僧」「雅」とかだが・・・。

阿部智里『発現』NHK出版、2019年

2019年10月08日 09時29分16秒 | 
阿部智里『発現』を、図書館で手にとった。そこに取材先にあげられた満蒙開拓平和記念館の名前があり、借りてみた。
統合失調症に関連するのか、トラウマの遺伝(?)ということか、戦争を引きずって、3代に「発現」する少女と彼岸花。それが何を物語っているのか?
ミステリーなのか、ホラーなのか?推理小説なのか、歴史小説なのか?
もとものは、戦争、満蒙開拓義勇軍や満州の聞き取りをベースにできた小説なのだろう。
NHK出版が出すという所も、その意味ではうなずける。