小幡欣治『評伝 菊田一夫』(岩波書店、2008年)を読んでいる。これは、図書館で偶然見つけて、「君の名は」などの戦後のラジオドラマの脚本を書いてきた菊池のことも気になったので手にとり、「戦犯文士」の項を読んで、借りてきたのだった。その借りてきた理由となった箇所のところまで読み進んだ。次のような所。
菊田の「敗戦日記」が、昭和39年8月号「オール読物」に公表された。その部分が、引用されている(「戦犯文士」の項、p.136~)
敗戦の詔書の発表の前日8月14日
情報局より℡。至急来いとのこと。/午後3時、情報局s氏の許へ行く。/「終戦が決定し巻いた。今夜7時のニュースに詔勅が出る筈です。出れば直ちに帝都には限界令が布かれるでしょう。・・・」(p.140)
「八月六日の日記である。
広島に原爆。園井恵子被爆。
とある。
たしかに、この日原爆が投下された。だが、政府(大本営)が翌日発表した名称は「新型爆弾」であって、原子爆弾という名前が一般に流布するようになるのは十三日頃からである(『夢声戦争日記』昭和二十年下)。山田風太郎の『戦中派不戦日記』(講談社文庫
では、十一日。「敵が今回広島に使用せる爆弾を指せるなり。原子爆弾なりと伝えらる。ウラニュームを応用せるものか」
まして原爆(傍点あり)という呼び方が使われるようになるのは、もっとあとである。
また、園井恵子被爆の報が徳川夢声の耳に入ったのは、八月二十日である(『夢声戦争日記』)。後略
つまり菊田一夫の『敗戦日記』というのは、日記の形式取ってはいるが、メモなどを元にして、あとから書かれたものあと判る。」
(146-147)
要するに、「原子爆弾」という呼び方は、八月十一日には識者の耳に入り、十三日頃には一般に流布するようになっていたのである。
だから、八月十五日には、「詔勅」には「新ニ残虐ナル爆弾」と書かれ、「新爆弾」と新聞報道がなされたのだが、「新爆弾」「新型爆弾」は、この時には「原子爆弾」という名称が流布されていた。
翻って、田村一二の敗戦の日の記録「石山学園日誌」に「原子爆弾」と記されていたのは、当然あり得ることだということがわかる。それにしても、徳川夢声やその他様々な人たちの公開されている日記での記述をよく調べておかないといけないと痛感。
菊田の「敗戦日記」が、昭和39年8月号「オール読物」に公表された。その部分が、引用されている(「戦犯文士」の項、p.136~)
敗戦の詔書の発表の前日8月14日
情報局より℡。至急来いとのこと。/午後3時、情報局s氏の許へ行く。/「終戦が決定し巻いた。今夜7時のニュースに詔勅が出る筈です。出れば直ちに帝都には限界令が布かれるでしょう。・・・」(p.140)
「八月六日の日記である。
広島に原爆。園井恵子被爆。
とある。
たしかに、この日原爆が投下された。だが、政府(大本営)が翌日発表した名称は「新型爆弾」であって、原子爆弾という名前が一般に流布するようになるのは十三日頃からである(『夢声戦争日記』昭和二十年下)。山田風太郎の『戦中派不戦日記』(講談社文庫
では、十一日。「敵が今回広島に使用せる爆弾を指せるなり。原子爆弾なりと伝えらる。ウラニュームを応用せるものか」
まして原爆(傍点あり)という呼び方が使われるようになるのは、もっとあとである。
また、園井恵子被爆の報が徳川夢声の耳に入ったのは、八月二十日である(『夢声戦争日記』)。後略
つまり菊田一夫の『敗戦日記』というのは、日記の形式取ってはいるが、メモなどを元にして、あとから書かれたものあと判る。」
(146-147)
要するに、「原子爆弾」という呼び方は、八月十一日には識者の耳に入り、十三日頃には一般に流布するようになっていたのである。
だから、八月十五日には、「詔勅」には「新ニ残虐ナル爆弾」と書かれ、「新爆弾」と新聞報道がなされたのだが、「新爆弾」「新型爆弾」は、この時には「原子爆弾」という名称が流布されていた。
翻って、田村一二の敗戦の日の記録「石山学園日誌」に「原子爆弾」と記されていたのは、当然あり得ることだということがわかる。それにしても、徳川夢声やその他様々な人たちの公開されている日記での記述をよく調べておかないといけないと痛感。