W大学の集中講義。朝早く、高速をつかっていくも、途中で考え事をしていて、尼崎・伊丹方面までいってしまった。引き返して、吹田から近畿道に乗った。
集中講義をおえ、Y先生と久しぶりに話す。来年度から、「授業が減ってパラダイスだ」といっていました。各国の障害児教育の比較研究のようなものを、研究会を作ってやりたいねというような話になりました。Y先生は、フランスのことをやっていて、チャットでフランスの養護学校の先生ともやりとりをしているようだ。若いってすばらしい!
『あつおのぼうけん』(作・田島征彦・吉村敬子)は、「主任手当を京都の子どもと教育に生かす会」によって、国際障害者年を記念して企画され創られた絵本。
あつおは、海が一目で見える養護学校の小学部4年生。車いすで生活している。家が遠いので学校の寄宿舎で友達と一緒に暮らしている。「冒険の日」は好きなところへ行ける機会、その日に一人で冒険へ-そこで漁師のおっちゃんやその息子と仲良くなる。そして、あつおの勇気が発揮される時が…。
やっぱり、この『あつおのぼうけん』は、与謝の海養護学校の寄宿舎での生活のことをイメージして創られたんだろうなと思う。どうなんでしょう
集中講義をおえ、Y先生と久しぶりに話す。来年度から、「授業が減ってパラダイスだ」といっていました。各国の障害児教育の比較研究のようなものを、研究会を作ってやりたいねというような話になりました。Y先生は、フランスのことをやっていて、チャットでフランスの養護学校の先生ともやりとりをしているようだ。若いってすばらしい!
『あつおのぼうけん』(作・田島征彦・吉村敬子)は、「主任手当を京都の子どもと教育に生かす会」によって、国際障害者年を記念して企画され創られた絵本。
あつおは、海が一目で見える養護学校の小学部4年生。車いすで生活している。家が遠いので学校の寄宿舎で友達と一緒に暮らしている。「冒険の日」は好きなところへ行ける機会、その日に一人で冒険へ-そこで漁師のおっちゃんやその息子と仲良くなる。そして、あつおの勇気が発揮される時が…。
やっぱり、この『あつおのぼうけん』は、与謝の海養護学校の寄宿舎での生活のことをイメージして創られたんだろうなと思う。どうなんでしょう
ではありません。田島征彦は、当時船井郡八木町に住んでおられたから、絵本のをおねがいにいきました。けちょんけちょんに断られて、それでも粘って、作成された思いでがあります。けちょんけちょんに、ぼろかすにいわれた当事者ですが、田島征彦は軌道にのった時の記憶があるらしく、今、某養護学校(特別支援学校)の校長をしている人が頼みにきたと誤解されているようです。
絵本に関わったのは、当時丹波養護学校の教師です。ご参考まで。
障害のある子どもが出てくる絵本をいろいろ読んだり、探しています。
「あつおのぼうけん」は、図書館司書の関係の講義で紹介されていました。
文は、「わたしいややねん」と書いた吉村敬子さんだと思いますが、吉村さんとにはどんなお話をされたのでしょうか?
つくられるまでのエピソードなどもご存じならお教え下さい。
私は、吉村さんとははなしをしていませんのでお許しください。
田島征彦は、「あつおのぼうけん」の後書きや他の本でもこの絵本を創った経過を書かれていますが、一番最初のはなしを忘れられているようですので、当事者として補足しておきますのでお許しください。
国際障害者年の時、私たち京教組障害児教育部は、国際障害者年は10年計画で国際婦人年や国際青年年や国際児童年などと連動し関連づけながら国内の障害者の制作を確定していくものだと考えていました。
しかし、日本ではその年その年で区切られて、イベントで終わるのが常でした。
障害児の親御さんからも「今年が過ぎれば、みんな私らのことを忘れるんや」という声も多く出ていました。
教育は、10年後、100年後を見通してすすめるものだと言うことから、私たちは、国際障害者年を何とか1年で終わらせないようにしようと相談したうちのひとつが、絵本でした。
絵本を提案したのは私です。なぜか。絵本は、文字移行期前に子どもの世界を広げるものであることや文字が読めない子どもたちにとって絵本は重要なコミュニケーションである等々考えたからです。
また、ご存じかも知りませんが、京都精華大学のマンガ学科をつくった、ヨシトミヤスオさんは、病気で寝たきりで、小学校にも行けずに寝たまま絵やマンガを書いていて顔中炭だらけになってお母さんがびっくりしたことがあった。何とか、小学校、中学校を出て、鴨沂高校に入学したとき、遠足があった。自分は遠足なんてとても行けないと思っていたら、友人からごく自然に行こうよ、と誘われた。山道、川に添えられた一本の丸木きの橋。友人は、代わる代わる自分を負ぶってくれて、飯ごう炊さんをした。
そして、また代わる代わる負ぶってくれて帰路にについた。ごく自然に。
というはなしをされていたのを思い出して、それまでの絵本は、障害者の理解とか、いじめとか、残酷なはなしはカットされている。
何とか、国際障害者年にその絵本を創って、新1年生に入学おめでとうのことばと共に配布出来ないだろうか、と考えた分けです。
そこで、絵本作家を捜している時に、丹波養護学校から出ている役員のT先生から、京都府船井郡八木町(当時)に、田島征彦さんが住んでおられる。田島征彦さんに頼んでみよう、と言うはなしがあり、私と同行して田島征彦さんにおねがいに行きました。
話をしていたら田島さんは、突然怒り出して、「絵本は100年以上残るもの。そんな簡単に作れるか」と言われました。その時、田島さんの奥さんが話に入ってくださり、私たちももう一度、100年以上残る絵本、ということばについて再学習しようと言うことになり、何度も絵本を読み合わせをしました。でも、創ることの企画は諦めず、田島さんへのアプローチを続けました。
そして、その後時間が経ち、田島さんから引き受けていいという返事をT先生がもらってきました。
『あつおのぼうけん』の構想を練るため神戸にいた灰谷健次郎さんのヨットを借りて、灰谷さん、田島さん、吉村さんと丹波養護学校のT先生と当時、丹波養護学校亀岡分校となるまえの丹波養護学校みのり学級(重度心身障害児施設内学級)のA先生などと共に船旅などをして京都の障害児のことや教育のこと等々を交流したりしながら構想を練り、『あつおのぼうけん』が出来ました。
しかし最大の問題が出てきました。それは、この本が「主任手当を京都の子どもと教育に生かす会」によって、国際障害者年を記念して企画され創られた、と言うことで府教委から小学校の新入生全員に配布することは、認められない、と各地教委や各市町村教育委員会に指示が出されました。
このことで、私は、府教委や各市町村教委、校長との話し合いに忙殺されました。
結局、配布出来ない学校と配布出来た学校のばらつきが出てきましたが、配布出来ない学校の場合は、先生方が新入生の家を訪ねて受け取って貰いました。
学校図書館にも絶対置かせて貰えなヵったのですが、本が出版社ルートにのると置けるところも出てきました。
ずいぶん昔の話ですが、100年残る絵本のことで田島さんから叱られたこと。絵本を受け取った新1年生の顔。戦争は障害者の敵でお互いが理解し合う社会の形成という国際障害者年の精神のひとつを生かされたのではないか。ということだけは今でも脳裏に焼き付いています。
長文になってすみません。
この違いの意味は、tama先生に聞いてください。おねがいします。
ちょうど、昨日、T養護学校の寄宿舎の先生とお会いする機会がありました。その時に、話題が「あつおのぼうけん」のことになりました。当時、1979年の養護学校教育義務制の時に接リスされたT養護学校の校区に、田島さんがすんでいたこと、そして田島さんのお子さんが行っていた学校とも共同の取り組みを模索していたことの中で、この話が出てきたとのことでした。T養護学校の夏祭りに、田島さんも来てくれて、高等部の生徒達とも話をしていたようです。その中の一人は、「あつお」のモデルとなったようです。
吉村敬子さんは、脳性マヒで、大阪の方でしたが、1979年に京都の聖母女子短大にいた今江祥智の児童文学の講義を受講し、そこで、絵本を書きはじめたようです。このことについては、今江「絵本の新世紀」(だったとおもいます)に、紹介があります。「わたしいややねん」は、当時、大阪から吉村さんを介助して京都の講義をいっしょにうけていた方が絵を描いてくれたものです。
「この子らに世の光を」から「この子らを世の光に」、そして「光の中に子どもたちがいる」へと発展してきたともいえるかな。
安さん、いっしょに考えてみましょう。