ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

長崎…再度

2011年02月05日 21時44分19秒 | その他
来週の準備もしないといけないのだが…心身ともにムリ!
結局、一日、ゴロゴロする。その中で、嬉しいことが一つ…東京のNさんからのメール。

以前、長崎での原爆と障害について、その映像を探して、いろんな人に話したり、お願いしたり、ご意見を頂いたりしたことがあった。その中の一人が長崎出身の東京のNさん。そのNさんが、放送の映像を探していたものが届けられたことをメールしてくれた。

「もう、ほとんどあきらめていたのですが、相談したNHKの方から、1枚のDVDが届きました。えっ、ホント?!と思って開けたら、そう、『彼は生きた ~小頭症被爆者47年の生涯』という、まさにあの番組でした」「今日中にやらなければならない仕事に追われていたけれど、がまんできずに見てしまいました」「最後に、戦争はしてほしくない、二度と自分のような人をつくらないでほしいと言っていました。泣いてばかりいられません。この事実を、若い人に伝えなければ…と思った次第です」

 僕のところにも、全通研長崎支部から聴覚障害関係のビデオやDVD、書籍が届いたことを返信の中で伝えました。また、探していた、城山小学校の原爆学級の番組は、卒業生から、NHKのティーチャーズライブラリーで貸し出ししてくれるシステムがあるとのことを教えられました(平和教育)。まだ、頼んでいないのだが、なんとか手にはいるだろうと思っている。

 強く思って努力をすれば、時間はかかってもいろいろな人が援助してくれるんやなと思った。懲りずに、若い人に伝えていかなければと思っている。
 ただ、最近のまじめな若い人たちの中で、特攻の青春を美しいと感じたり、それに対していまの時代や大人は…といったとらえ方をする人たちも多くなっているのではと感じることもある。


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4 コメント

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聞こえないことが当たり前ということ ()
2011-02-05 22:56:20
 先日は長崎のDVD(「原爆は聞こえなかった」というタイトルでしたでしょうか)を貸していただき、ありがとうございました。(やはり聴視覚からの情報は分かりやすく感じました!…もっと文献をと思うのですが…。)
 原爆が落とされた長崎で、聴覚障害者が“聞こえない”ということによって、当時も現在も困難な状況に置かれていた(いる)ことはもちろん、聴者(健常者)がろう者(障害者)の存在を軽視しているという事実もまだまだ続いているということが(「被爆手帳の情報が届いていない人(ろう者)がいるということは想定していなかった」というような場面などから)改めて理解できました。
 ただ、ろう者は、例えば「被爆手帳というものが存在する」ということは言葉(音声言語)以外の方法でも伝達されたのではないかと思うのですが(新聞など)、そのような視覚的な情報から手帳が存在するということを知ることができなかったのか、また、「困っている」と誰か(聴者?)に訴えることで手帳の存在を知ることができなかったのか(言葉が的確ではないのですが“(何か無いのかと)知ろうとしなかったのか”)という疑問も湧いてきてしまいました。
 通っている手話サークルで、ろうの人とお茶をしていた時のこと。あるろうの人が椅子にかけていたコートから数枚のお金(コイン)が落ちた時、私たち(聴者)はすぐに「あ!お金が落ちたよ!」と反応するけど、聞こえないろうの人は、お金が落ちた音が聞こえないから「おぉ!あらあら」と言われて気付くということがありました。
そう言えば、たいていの聴者(少なくとも自分)は、お金が落ちる音には敏感かもしれないと、少し自嘲しながらも「聴者はお金が落ちる音に敏感かもしれない」ということをろうの人に言ったら、「へぇ!そうなの?!」とても驚いていて、やはり「当たり前は当たり前じゃないんだな」と感じていた矢先でもあったので、そのようなこと(「知ろうとしなかったのか?」といった疑問)を思うこともまた浅はかなことなのかとも思いながら、コメントを書いてみました。
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薫さんの学習に敬意 (今だ日本は戦後でない)
2011-02-06 02:01:50
 ろう者は、例えば「被爆手帳というものが存在する」ということは言葉(音声言語)以外の方法でも伝達されたのではないかと思うのですが(新聞など)、そのような視覚的な情報から手帳が存在するということを知ることができなかったのか、また、「困っている」と誰か(聴者?)に訴えることで手帳の存在を知ることができなかったのか(言葉が的確ではないのですが“(何か無いのかと)知ろうとしなかったのか”)という疑問も湧いてきてしまいました。

 そう思われるでしょうね。現在から考えれば。でも、戦後から今までの歴史やその時期のことを考えてもそうではないのが、哀しすぎることが未曾有にあるのです。
 私の好きな漫才師喜味こいしが、先日なくなられたときのテレビを見ていて、戦後長くこいしは自分の被爆体験やその直後の惨状についての実見談を、「生き残った者の後ろめたさ」もあって自分から語ることはほとんどなかった(被爆者手帳も未取得である)。しかし、いとし死去によるコンビ解消後の2005年、被爆60年を機にNHK総合の番組に出演し娘の喜味家たまごとともに広島平和記念公園を訪れ、自らの体験を語っていた、と報道されていました。長崎に幾度も行きましたが、こいしさんと同じような人と出会いました。
 いろいろ考え、深く、さらに深く、考察されていることに敬意を表します。
 疑問に思われることは、「浅はかなこと」では決してありません。人間同士わかり合おうとすること自体が人間愛なのだ、と私は思いましたが。 
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地獄から立ち上がる笑顔 (大がかりな戦争の犠牲)
2011-02-07 00:49:55
 アメリカのマンハッタン計画は、亡命ユダヤ人を中心として科学者、技術者を総動員した国家計画です。計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。広島には、リトルボーイ(高濃縮ウランを用いた)長崎には、ファットマン(プルトニウムを用いた)原子爆弾が投下されました。
 1945年8月9日に長崎県長崎市の北部(現在の松山町・旧盲聾学校があった)の上空550mで原子爆弾が投下されました。
  原子爆弾は、それぞれ原材料が異なり、長崎市は起伏に富んだ地形で、起伏が無い広島市に投下されました。
 だから、広島の被爆者の状況と長崎の被爆者の状況がそれぞれ異なっていて、ろうあ者の証言にもその特徴が出てきます。
 ただ、アメリカの計画はすでに第二次世界大戦時には、対日支配の政策が決められていたことが明るみに出ています。
亡命ユダヤ人を中心として科学者、技術者たちは、原子爆弾がドイツに投下されるものとして製造に関わっていたもののドイツの敗北が早くなったため原子爆弾投下に反対し、その後不可解な死に方をしています。
 原爆投下の背景には、日本の敗戦は決定的であったことを充分承知しながら、アメリカは、マンハッタン計画で使われた膨大な予算の消化と成果を示すためやウランとプルトニウムの違い、原子爆弾と地形との関係等々を考えて、広島と長崎に投下したことは今日では明らかにされています。
 その実験のために多くの人々が殺されたのです。
 長崎のろうあ被爆者は、被爆した地点(先に述べた起伏に富んだ地形)での状況やそれぞれの学習(読み書きできる、ろう学校に行っていた、行けなかった。)等々の状況でそれぞれ被爆後の状況が違ってきます。
 特に、被爆後、日本政府やアメリカは被爆者を救済しないばかりか、次の朝鮮戦争などの冷戦にむけた取り組みをすすめます。
 そのため被爆した人々の多くは、さらに悲惨な状況に追い込まれることになります。
 この大がかりな戦争の犠牲者の中に、聞こえない人々も居るのだということも明らかにするため長崎では、ろうあ協会と全通研長崎支部が系統的に取り組みました。広島では、残念ながら個人が取り組みましたが被爆したろうあ者の手話表現が解らないため、親族のろうあ者を通して取り組まれたため被爆したろうあ者の本当の気持ちは把握できていないばかりか、少なくない脚色がされています。
 広島、長崎両方の取り組みに関わった関係で、私は一番よく知っています。
 さて、被爆手帳の件ですが、これも行政が積極的に被爆者にその取得を働きかけなかったこと。被爆したことの証明が必要だったことなどなどで、ろうあ者の被爆手帳取得は大幅に遅れました。
 だが、手話の出来る人や手話通訳者と手を組むことで被爆手帳取得が得られるようになってきました。だが、証人がいるということは、巨大な壁でした。
 被爆してほとんどの人がしんだ、生きていてもその後被爆で死んだ、等々のこともあります。この大変な困難をろうあ協会と全通研長崎支部が今も系統的に取り組んでいます。そのひとつは、NHKのドキメントとして放映されました。
 本人たちの責任ではまったくないのに、絡み合った糸をひとつひとつていねいに解きほぐしながら、永い地味な時間を通してひとつひとつ長崎の取り組みはすすんでいます。
 被爆手帳は、爆心地から何㎞ろいう一律的な線引きのため山間部を通り抜けて被爆した人には、被爆手帳が支給されない等々の問題も多くあります。
 でも、みんなが忘れ去っているときに長崎の取り組みの中から、ろうあ者が被爆手帳を取得できたというひとつの事実だけでも人間が人間としての取り組みの成果だと思います。
 教育の分野で言えば、学校教育だけが教育だけではなく、産まれてから死ぬまで教育、学ぶ機会が保障されなければならないという証でしょう。
 長崎では、多くの人々の善意に支えられて取り組みがすすめられていますが、国や行政は見向きもしないのは戦争が終わってないことの証のひとつでしょう。
 今、長崎では、韓国から長崎にやってきたろうあ者の被爆体験が記録されています。平和をもとめる取り組みは、国籍をこえるのもです。同じ人間として。
 
 
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悲惨な状況が展示物から除かれたが (ホルマリン漬けの胎児)
2011-02-07 01:05:16
 今から40年ほど前に、長崎文化会館(原爆記念館)に言ったとき、被爆したお母さんが死産した「胎児のホルマリン漬けされたガラス容器」がたくさん展示されていました。
 無脳児や奇形児と書かれたその容器を見て、立ちすくんでしまったことがありました。
 胎内被曝の様子が、リアルすぎて今でも脳裏に焼き付いています。
 ベトちゃんドクちゃんで、ベトナム戦争の枯れ葉剤の影響で被害を受けた子どもたちのことは知られていても、胎内被曝や被爆二世や被爆三世の悲惨さは、ほとんど知らされていません。
 
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