いろいろと、ブログ巡りをしていて、チョット、"ふ~ん"だった事…"そんなに?紳助さん"
同時に、こんな事も思ったよ…今回、渡り廊下走り隊をプロデュースしたのが、原 由子さんだったら?広瀬香美さんだったら?岡本真夜さんだったら?宇多田ヒカルさんだったら?槙原敬之さんだったら?…みんな、どうだったのかなぁ?って。 それでも、"受け入れモヤモヤ"なのかなぁ?って。
また、みんなが、納得いっていないのは、"フォーマットを変更すること"なのか?それとも、"島田紳助さん、そのもの"なのか?どっちだろう?本当は、どっちなんだろう?"う~ん"。
僕は、というと、渡り廊下走り隊の5人が、いろんな才能に触れ、(それに)挑戦し、少しずつ、音楽性を育んでいく事が、何より大切だと思っているので、今回の事は、基本的に賛成なのです。
モーツァルトばかり、演奏するよりも、(時には)ブラームスに挑戦する事で、飛躍的に伸びる部分がある。マーラーやストラビンスキーに取り組む事で、モーツァルトの奥深さを再認識する事もある。
アイドルも、歌を歌っている以上、音楽家だと考えて、そういうのは、表現者として、非常に正しく、かつ、必要なステップだと思うのです。
そして、いつかは、他ジャンルも含めて、そういうのを、個人レベルにまで、引き上げ、そこでの経験や成長した個人を全て、グループにフィードバック出来るようになってもらいたい…そう、今のSMAPのように。
ぶっちゃけ、大きなビジョンを持っておいてほしいのね。とりあえず、渡り廊下走り隊の5人にとっては、単独でのコンサートかな? だから、今回の事は、その第一歩だと考えたい。そのための"受け入れる"…結構、大事だと思うんだよなぁ。
ところで、紳助さんって、実は、アイドルに対して、軽く、トラウマのようになっている事がある。
それは、本人が、言っていた事なんだけど…紳助さんが、若い頃の話。
"こんな、ふっとい足の子、アイドルで、売れるわけがない!"…
(この言葉は、そのアイドル本人に、直接、言った事なのか?紳助さんの心の中のエピソードとして、喋った事なのか?その肝心なところを忘れてしまったんだけど…)
でも、そのアイドルは、売れた。正確に言うと、メチャクチャ、売れた。
その後、紳助さんは、次のような言葉を残している。
"俺は、お笑いだったら、100%わかる!こいつが(こいつらが)売れるか?売れないか? でも、アイドルは、全く、わからへん…まったくやで!"
"春は ルンルンル~ン!"…そのアイドルとは、西田ひかる。しばらく経ってから、紳助さんは、彼女に謝ったそう…、で、それを機に、彼女とも、共演するようになり、(楽になった?)その頃から、ずっと、やりたかった音楽プロデュースの方にも、力を入れるようになってきたんだ(第1弾は、島谷ひとみ)。
ただ、「アイドル」とは、どこか、距離をおいてた時期が長く…最近、やっとのヘキサゴン…さらに、渡り廊下走り隊。実は、紳助さんにとって、初めての本格的アイドルのプロデュースだったりする。
そういう過去があるゆえ、今回のプロデュースには、紳助さん自身、相当、悩んだと思う。でも、引き受けた。だから、僕は、(こちらが)思っているより、はるかに、本気だと思っている。間違いなく、ド本気なはずだ。
では、何故、島田紳助という人が、渡り廊下走り隊のファンに、そんなに、受け入れられにくい感じになっているのか? 僕なりに考えてみた。
例えば、「新選組リアン」について…人は、もう気付いているのだと思う…"おかしい"って。
元々、「新選組リアン」は、"世界に誇れる町ー京都"の観光人気を復活させるため、京都市長の全面協力を取り付け、京都を心から愛するイケメン学生で結成された「平成の新選組プロジェクト」の一環…「地域密着型アイドル」だった。
"京都の治安を守り、まず、学生としての本分を、しっかりと果たし…" しかし、そのような、最初のコンセプトは、もはや、影もカタチもなく…というか、彼らは、そもそも、京都に住んでいるのか? 5人中4人が、留年の身という事は、紛れもない事実なんだし、それに、もう、そんな事は、何もなかったかのようになっており、さらに、この事を紳助さんに、ツッこむ者も、誰1人としていない。それが、紳助さんの芸能界での地位と言ってしまえば、それまでなのかも知れないけど、その不公平な感じが、みんなのアンテナに引っかかっているじゃないだろうか?
もっと言えば、「行列」に、リアン! 「深イイ話」に、リアン! あっちも、リアン! こっちも、リアン! まさかの、そっちも、リアン!…というチョット、私物的というか,"節操の無さ"というか,ある意味、ゴリ押し的にも映る違和感のようなものに、渡り廊下走り隊を、(試しに)当てはめてみた時の気持ち悪さというか…とにかく、そういうものを、みんな、ビンビンに感じとっているんじゃないか?そんな風に思ってしまったのです。
他にも、例えば、普段のトークから受ける印象についてもあると思う。さんまさんが、相手に、"負けた感じ"で、1つ1つのトークを終わらせているのに対し、紳助さんは、基本的に、相手に、"勝って"、トークを終わらせている。相手を"制して"、トークを完了させている…と言った方がいいのかな?とにかく、相手を、一度、シャットアウトしておいて、自分の間合いを確保し、自分のペースに持ち込んでおいてから、改めて、"紳助節"を聞かせるというトーク術。
だから、どうしても、共演者も、(自分にとっての)イエスマン的な人を置きがちになる。似たタイプ(トークのパターンとして)に、鶴瓶さんがいるが、2人は、全然違う。つまり、鶴瓶さんは、スキだらけ、(それに対し)紳助さんは、寸分のスキも、狂いもない。どこまでも、戦略的で、勝つ勝負しか、絶対にしない。全てが、無駄のない言葉の誘導で、実際に、文字におこしてみないと、"のりかえた"事すら、気付かない。
たぶん、渡り廊下走り隊のファンの人は、5人が、何かにのみ込まれていく姿を、直感的に、想像してしまうから、"No"なのかなぁ~と推測したりするんだよね。
そして、そういうのは、紳助さんの最新刊「自己プロデュース力」(ワニブックス)なんかを読むと…初めて、彼の著書に触れた人でも、きっと、わかってもらえると思う…つまり、2つの感情が、同時に来るんだ。
1つ目は、"紳助さんって、頭いいなぁ,キレキレだなぁ,すごいなぁ"…。
そして、(同時に来る)2つ目は、1つ目の度合いが、あまりにすごく、少し"引いてしまう"っていう感情。これは、紳助さんの努力の賜物なんだけど、才能が、あまりに過ぎていて、正直、言い方悪いけど、怖くなる。
今までに、彼の著書を何十冊も(というか、すべて)読んでいて、冷静に見ているつもりの僕でも、渡り廊下走り隊ぐらいだったら、結局、いいように使われまくるんじゃないか?消費されきるんじゃないか?簡単に、丸めこまれるんじゃないか?という危機感に、脳が支配されていくことを覚えてしまうんだよね。
きっと、ファンの人も、同時に、"凄っ!"と"怖っ!"を味わったりする…かな?
だから、最近だと、東京03のこと,傷害事件のこと,恫喝のこと,つば吐きのこと,髪の毛をつかんで壁に…,アンタッチャブル柴田のこと(?)…、いろいろと、完全には、明らかになっていない事すべて、(その二面性を警戒して)渡り廊下走り隊を、そばに置きたくない…という気持ちが働いたりするんじゃないのかなぁ?
"弁が立ちすぎる"という事から生まれた"胡散臭さ"のようなものが、逆に、それを、リアルな方向に引っ張っていっているんだろうな…そんな気がする。
[結論]
渡り廊下走り隊のファンにとっては、"頑張っている人を応援する詩を書かせたら、天下一品!"の「カシアス島田」は、ほしいけど、「島田紳助」は、いらない…これが、本音だと思う。
[おまけ]
まさか、そんな事は、ないとは思うが、僕が、チョッピリ、おそれていること…。
紳助さんは、昔とは違う,実際にプロデュースといっても、作詞家としての参加にとどまるはず,なにより、「秋元 康」という"おもし"があるから、大丈夫…。
でも、一応、念のため…準備しておいた方がいいと思う。デヒュー当時の西田ひかるに、ある意味、似ている、なっちゃん。そのなっちゃんが、標的になった時、はるごん,まゆゆ,らぶたん,あやりんの4人…どうか、全力で、なっちゃんを守ってほしい。
なっちゃんは、トーク…出来る方だけど、「島田紳助」を受け止め、それを、上手く処理する…といった力は、まだ、ないから。
正直、僕は、心配性だと思う。だけど、紳助さんが、関西で、やっている番組「クイズ紳助くん!」に、毎回、登場してくるアイドルに対する、彼の接し方を見るたび、一応…念のため…と思ってしまう僕がいる。
気に入った子には、"キレイやなぁ、ホンマ" "カワイイ カワイイ" そして、答えを間違っても、"ええんやで"…。
そうじゃない子には、"早よ書け!" "1,2,3、早よ出した、はい!早よ出せ出せ!" "どんくさい"…。(でも、そのあと、セット裏で、フォローしている画が、見えてしまうんだよなぁ…)。 最近は、少し、変わってきたけど、でも、これが、僕が、心配している理由のホントのトコロかもしれない。
渡り廊下走り隊&島田紳助(カシアス島田)…僕の好きな紳助さんが出てほしい…と、本気で願う。
同時に、こんな事も思ったよ…今回、渡り廊下走り隊をプロデュースしたのが、原 由子さんだったら?広瀬香美さんだったら?岡本真夜さんだったら?宇多田ヒカルさんだったら?槙原敬之さんだったら?…みんな、どうだったのかなぁ?って。 それでも、"受け入れモヤモヤ"なのかなぁ?って。
また、みんなが、納得いっていないのは、"フォーマットを変更すること"なのか?それとも、"島田紳助さん、そのもの"なのか?どっちだろう?本当は、どっちなんだろう?"う~ん"。
僕は、というと、渡り廊下走り隊の5人が、いろんな才能に触れ、(それに)挑戦し、少しずつ、音楽性を育んでいく事が、何より大切だと思っているので、今回の事は、基本的に賛成なのです。
モーツァルトばかり、演奏するよりも、(時には)ブラームスに挑戦する事で、飛躍的に伸びる部分がある。マーラーやストラビンスキーに取り組む事で、モーツァルトの奥深さを再認識する事もある。
アイドルも、歌を歌っている以上、音楽家だと考えて、そういうのは、表現者として、非常に正しく、かつ、必要なステップだと思うのです。
そして、いつかは、他ジャンルも含めて、そういうのを、個人レベルにまで、引き上げ、そこでの経験や成長した個人を全て、グループにフィードバック出来るようになってもらいたい…そう、今のSMAPのように。
ぶっちゃけ、大きなビジョンを持っておいてほしいのね。とりあえず、渡り廊下走り隊の5人にとっては、単独でのコンサートかな? だから、今回の事は、その第一歩だと考えたい。そのための"受け入れる"…結構、大事だと思うんだよなぁ。
ところで、紳助さんって、実は、アイドルに対して、軽く、トラウマのようになっている事がある。
それは、本人が、言っていた事なんだけど…紳助さんが、若い頃の話。
"こんな、ふっとい足の子、アイドルで、売れるわけがない!"…
(この言葉は、そのアイドル本人に、直接、言った事なのか?紳助さんの心の中のエピソードとして、喋った事なのか?その肝心なところを忘れてしまったんだけど…)
でも、そのアイドルは、売れた。正確に言うと、メチャクチャ、売れた。
その後、紳助さんは、次のような言葉を残している。
"俺は、お笑いだったら、100%わかる!こいつが(こいつらが)売れるか?売れないか? でも、アイドルは、全く、わからへん…まったくやで!"
"春は ルンルンル~ン!"…そのアイドルとは、西田ひかる。しばらく経ってから、紳助さんは、彼女に謝ったそう…、で、それを機に、彼女とも、共演するようになり、(楽になった?)その頃から、ずっと、やりたかった音楽プロデュースの方にも、力を入れるようになってきたんだ(第1弾は、島谷ひとみ)。
ただ、「アイドル」とは、どこか、距離をおいてた時期が長く…最近、やっとのヘキサゴン…さらに、渡り廊下走り隊。実は、紳助さんにとって、初めての本格的アイドルのプロデュースだったりする。
そういう過去があるゆえ、今回のプロデュースには、紳助さん自身、相当、悩んだと思う。でも、引き受けた。だから、僕は、(こちらが)思っているより、はるかに、本気だと思っている。間違いなく、ド本気なはずだ。
では、何故、島田紳助という人が、渡り廊下走り隊のファンに、そんなに、受け入れられにくい感じになっているのか? 僕なりに考えてみた。
例えば、「新選組リアン」について…人は、もう気付いているのだと思う…"おかしい"って。
元々、「新選組リアン」は、"世界に誇れる町ー京都"の観光人気を復活させるため、京都市長の全面協力を取り付け、京都を心から愛するイケメン学生で結成された「平成の新選組プロジェクト」の一環…「地域密着型アイドル」だった。
"京都の治安を守り、まず、学生としての本分を、しっかりと果たし…" しかし、そのような、最初のコンセプトは、もはや、影もカタチもなく…というか、彼らは、そもそも、京都に住んでいるのか? 5人中4人が、留年の身という事は、紛れもない事実なんだし、それに、もう、そんな事は、何もなかったかのようになっており、さらに、この事を紳助さんに、ツッこむ者も、誰1人としていない。それが、紳助さんの芸能界での地位と言ってしまえば、それまでなのかも知れないけど、その不公平な感じが、みんなのアンテナに引っかかっているじゃないだろうか?
もっと言えば、「行列」に、リアン! 「深イイ話」に、リアン! あっちも、リアン! こっちも、リアン! まさかの、そっちも、リアン!…というチョット、私物的というか,"節操の無さ"というか,ある意味、ゴリ押し的にも映る違和感のようなものに、渡り廊下走り隊を、(試しに)当てはめてみた時の気持ち悪さというか…とにかく、そういうものを、みんな、ビンビンに感じとっているんじゃないか?そんな風に思ってしまったのです。
他にも、例えば、普段のトークから受ける印象についてもあると思う。さんまさんが、相手に、"負けた感じ"で、1つ1つのトークを終わらせているのに対し、紳助さんは、基本的に、相手に、"勝って"、トークを終わらせている。相手を"制して"、トークを完了させている…と言った方がいいのかな?とにかく、相手を、一度、シャットアウトしておいて、自分の間合いを確保し、自分のペースに持ち込んでおいてから、改めて、"紳助節"を聞かせるというトーク術。
だから、どうしても、共演者も、(自分にとっての)イエスマン的な人を置きがちになる。似たタイプ(トークのパターンとして)に、鶴瓶さんがいるが、2人は、全然違う。つまり、鶴瓶さんは、スキだらけ、(それに対し)紳助さんは、寸分のスキも、狂いもない。どこまでも、戦略的で、勝つ勝負しか、絶対にしない。全てが、無駄のない言葉の誘導で、実際に、文字におこしてみないと、"のりかえた"事すら、気付かない。
たぶん、渡り廊下走り隊のファンの人は、5人が、何かにのみ込まれていく姿を、直感的に、想像してしまうから、"No"なのかなぁ~と推測したりするんだよね。
そして、そういうのは、紳助さんの最新刊「自己プロデュース力」(ワニブックス)なんかを読むと…初めて、彼の著書に触れた人でも、きっと、わかってもらえると思う…つまり、2つの感情が、同時に来るんだ。
1つ目は、"紳助さんって、頭いいなぁ,キレキレだなぁ,すごいなぁ"…。
そして、(同時に来る)2つ目は、1つ目の度合いが、あまりにすごく、少し"引いてしまう"っていう感情。これは、紳助さんの努力の賜物なんだけど、才能が、あまりに過ぎていて、正直、言い方悪いけど、怖くなる。
今までに、彼の著書を何十冊も(というか、すべて)読んでいて、冷静に見ているつもりの僕でも、渡り廊下走り隊ぐらいだったら、結局、いいように使われまくるんじゃないか?消費されきるんじゃないか?簡単に、丸めこまれるんじゃないか?という危機感に、脳が支配されていくことを覚えてしまうんだよね。
きっと、ファンの人も、同時に、"凄っ!"と"怖っ!"を味わったりする…かな?
だから、最近だと、東京03のこと,傷害事件のこと,恫喝のこと,つば吐きのこと,髪の毛をつかんで壁に…,アンタッチャブル柴田のこと(?)…、いろいろと、完全には、明らかになっていない事すべて、(その二面性を警戒して)渡り廊下走り隊を、そばに置きたくない…という気持ちが働いたりするんじゃないのかなぁ?
"弁が立ちすぎる"という事から生まれた"胡散臭さ"のようなものが、逆に、それを、リアルな方向に引っ張っていっているんだろうな…そんな気がする。
[結論]
渡り廊下走り隊のファンにとっては、"頑張っている人を応援する詩を書かせたら、天下一品!"の「カシアス島田」は、ほしいけど、「島田紳助」は、いらない…これが、本音だと思う。
[おまけ]
まさか、そんな事は、ないとは思うが、僕が、チョッピリ、おそれていること…。
紳助さんは、昔とは違う,実際にプロデュースといっても、作詞家としての参加にとどまるはず,なにより、「秋元 康」という"おもし"があるから、大丈夫…。
でも、一応、念のため…準備しておいた方がいいと思う。デヒュー当時の西田ひかるに、ある意味、似ている、なっちゃん。そのなっちゃんが、標的になった時、はるごん,まゆゆ,らぶたん,あやりんの4人…どうか、全力で、なっちゃんを守ってほしい。
なっちゃんは、トーク…出来る方だけど、「島田紳助」を受け止め、それを、上手く処理する…といった力は、まだ、ないから。
正直、僕は、心配性だと思う。だけど、紳助さんが、関西で、やっている番組「クイズ紳助くん!」に、毎回、登場してくるアイドルに対する、彼の接し方を見るたび、一応…念のため…と思ってしまう僕がいる。
気に入った子には、"キレイやなぁ、ホンマ" "カワイイ カワイイ" そして、答えを間違っても、"ええんやで"…。
そうじゃない子には、"早よ書け!" "1,2,3、早よ出した、はい!早よ出せ出せ!" "どんくさい"…。(でも、そのあと、セット裏で、フォローしている画が、見えてしまうんだよなぁ…)。 最近は、少し、変わってきたけど、でも、これが、僕が、心配している理由のホントのトコロかもしれない。
渡り廊下走り隊&島田紳助(カシアス島田)…僕の好きな紳助さんが出てほしい…と、本気で願う。