8月5日朝日新聞夕刊6面文化欄「私の収穫」というコラム、タイトルは、ずばり、「AKB48」。
タイトル:私の収穫 AKB48 写真家・作家 藤原新也
本文要約:
本紙新年インタビューで、身体性の復権という文脈で、ツイッターとAKB48の名をあげた。
マンセル・モースの「贈与論」によると、贈り物の競い合いの最終段階で高価値となるものは身体とある。モノの飽和状態に達した現代においても、情報交換の最終ステージでは、身体(ナマ)が価値となる。
AKB48が「会いに行けるアイドル」をキャッチに結成された5年前は、音楽ダウンロード、映像のデジタルが本格化した年である。
そういった時代に、純ナマ(リアル)情報の発信を試みたのは、今日的なポトラッチ社会を見据えてのことか。
当初のAKB48劇場はひどい時には観客がステージのメンバーより少ない7,8名で閑古鳥が鳴いていたらしい。
それでも少女たちは、いつかこの劇場をいっぱいにしてやると歯を食いしばってがんばった。
この芸能の本道である“たたき上げ“の道程や精神も妙にリアルで汗臭く、
私のようなリアル世界で育ったものには、“泣けてくる”話なのである。
感想:
文中に出てくる「ポトラッチ社会」を知らなかったので、ネットで調べてみた。
マンセル・モースの「贈与論」で論じられている社会学の概念という解説が分かりやすかった。ここには、
人間の生の真の目的は非合理的な非生 産的な消費(消尽)にあると。生産、蓄積、生産的消費という合 理的な経済のサイクルにとどまっている「従来の経済学」から 脱却する必要がある
と書かれていて、握手会・選抜総選挙のために、CDを何百枚も買ったり、ガチャに数万円も、数十万円も、数百万円も投入することがこれにあたる(のであろう)。
著者の藤原新也は、アイドル研究の専門家ではないが、山口百恵、松田聖子の時代から、時々アイドルについて論じている。
同氏の1月3日の新聞記事は、
こちらの記事 で本ブログでも紹介した。
同氏は、汗臭い、リアルな芸能が好きなのだが、AKB48のシアターで公演を見た時に、アイドルの汗が見えることに、「過去のアイドルとは、ここが違う」と感じたのを思い出す。
繰り返し、シアターで観戦していると、「汗」が当たり前になって、新鮮ではなくなっているが、
AKB48とはあまり関係のない論者に指摘されたり、
「シアターの女神」の歌詞に、「汗をかいた女神」と出てくるのを聞いたりすると、
AKB48は、汗 が特徴なのだと、あらためて認識する。
KC
追記:上記の記事を書いたのは、8月5日だった。8月6日には、同じコラム欄に、AKB48の話題が二日連続出ており、
前世代(藤原氏の世代)の「純ナマのリアル」ではなく、AKB48は「リアルを演技している」空間であると論じていた。