WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

西部劇と保安官国家アメリカ

2007年11月23日 | 映画(西部劇など)

 私は西部劇が好きである。勧善懲悪、単純明快、ある種日本の時代劇にも共通する予定調和的安心感もさることながら、大平原の暮らしとカウボーイのかっこよさに単純に憧れていた。その原点はテレビ番組、中でも「ララミー牧場」だった。

 殺された父の後を継いで牧場を営むスリム(ジョン・スミス)とアンディ(ロバート・クロフォード)のシャーマン兄弟、彼らを助けるジョーンズおじさん(ホギー・カーマイケル)、その牧場へふらっとやってきて住みついた流れ者カウボーイのジェス・ハーパー(ロバート・フラー)、しばらくはならず者との牧場を守る戦いがメインであった。ジェスの早撃ちガンファイトには胸躍らされたものだった。経緯は忘れたがその後、ジョーンズおじさんがいなくなって代わりにデイジーおばさんが加わってからはファミリードラマのような展開になった。

 番組冒頭、西部の大草原映像をバックにながれるテーマソング「♪ララミー ララミー 白い雲が 飛んでゆく ここは西部の 大草原 ならず者は 寄せつけぬ ...」。ドラマ終了後には、淀川長治さんの映画解説とあの有名な「サヨナラ、サヨナラ」のニギニギ挨拶。

 昭和30年代、テレビではアメリカから輸入された西部劇がテレビ映画や劇場映画でたくさん放送されていた。「ライフルマン」にライフルマン=ルーカス(チャック・コナーズ)の子供役で出ていたジョニー・クロフォードはロバート・クロフォード(アンディ)の弟であったことは後で知った。
 そして「ローハイド」。カウボーイの一人、ロディを演じていたのがクリント・イーストウッドだった。子供心にはララミー牧場のジェスやライフルマンのルーカスほどのインパクトは無かったらしく、ロディ=イーストウッドというのも後で知ることになる。

 と、前振りが長くなったが、イーストウッド監督・主演の「最後の」西部劇映画「許されざるもの」にみる「保安官国家アメリカ」が今回のテーマである。

 「許されざるもの」は1992年の公開、イーストウッド自身が「最後の西部劇」と言ったというほど力を入れた作品で、私は、「ダーティハリー」なんかよりよほど味わうところの多い名作だと思っている。実際、西部劇映画で唯一、アカデミー作品賞、監督賞をダブル受賞している。イーストウッドがこんな西部劇を作ってしまったものだから、以降、単純なエンターテイメントとしてのB級西部劇は作れなくなってしまった。

 昔は酒の勢いを借りて殺人、列車強盗など悪の限りを尽くしたマニー(イーストウッド)は、今は亡き妻に出会って改心してからは酒も絶ち、牧場を営みながら子供2人とつましく暮らしていた。しかし、昔の悪行の思い出は今も彼を苦しめる。      
  ある町で、娼婦がカウボーイに顔と体を傷つけられ、娼婦仲間がカウボーイに賞金をかけた。マニーの昔のうわさを聞いた若いキッドが、賞金目当てにマニー(イーストウッド)を誘いに来る。子供達の将来のために金が欲しいマニーは、悪党時代の仲間ネッドも誘い3人で町にやってくる。マニーが若いカウボーイを撃ち殺し、娼婦を傷つけた張本人はトイレで排便しているところをキッドに殺されてしまう。「5人殺したことがある」と強がっていたキッドは、初めての殺人の重さにすっかり参ってしまう。
 町の保安官ビルは、無法者を許さない強者だが自身の冷酷さは自覚していない。殺人に嫌気がさして途中で降りたネッドを捕らえ、仲間の名を吐かせようと拷問して殺してしまう。怒ったマニーは酒をあおり、保安官ビルとその仲間を撃ち殺しにやってくる。その復讐劇はよくある西部劇そのものだが、その後のアニーの苦しみを暗示して終わる。

 初期の西部劇は、インディアンとの壮絶な戦いや、ありえないようなガンファイトで見せる作品が多かった。そこにはアメリカという国の成立の歴史が反映されているように思える。よく言えば開拓と独立の歴史である。しかし裏を返せば、銃で先住民を抑圧し、無法者を制圧し、女王の国から独立を勝ち取った、銃頼みの歴史であったのだ。だから西部劇では、インディアンは闇雲に突っ込んできては面白いように銃の餌食になるし、正義の味方のガンマンは、無法者に対し超人的ガンファイトでさらりと殺人をやってのけるし、女王の権威で属国にしようとする宗主国UKに銃で対抗して独立戦争に勝利する。

 「許されざるもの」は、保安官ビルの銃という力によってもたらされる秩序の欺瞞性を暴き、人として殺し殺されることの意味を、マニーの苦悩やキッドの戸惑い、賞金をかけられた若いカウボーイを通して問い、娼婦、カウボーイ、ネッド、そして最後はマニーに殺されるビルを通して復讐の連鎖の不条理さを訴え、控えめながらも問題提起した、単なるエンターテイメントではない最初で最後の異色西部劇であった。

 前にも書いたが、アメリカ映画では西部劇に限らず、銃で命を奪うことへの想いなど清々しいくらい皆無で、とにかく銃を撃ち殺しまくる。こうしたメンタリティーは、アメリカの世界戦略と政策にも色濃く反映している。まさに、アメリカこそが正義であり、銃の力で世界に秩序をもたらす「保安官」たらんとしているのだ。イーストウッドはこの映画を通して、そんなアメリカに異議申し立てをした。彼は共和党員でありながら、2003年のイラク侵略戦争開戦にも反対を唱えている。世が世なら「赤狩り」にあっていたかもしれない。


バイオハザードⅢのミラ と 雲南の少女ルオマ

2007年11月07日 | 映画(西部劇など)
 映画「バイオハザードⅢ」を見に行ってきた。映画自体もさることながら、ミラ・ジョボビッチの力のある目と脚見たさに。もっとも、映画のプロモーションでTVインタビューに答えていた妊娠4ヶ月の太ったミラは別人のようだったが。
 映画そのものは、ゾンビ、サスペリア、マッドマックスなどをない混ぜにした、マッドサイエンティスト&スプラッターものでグロいB級テイストだった。これではせっかくのミラの目と脚の魅力も半減以下だ。アメリカ映画もだいぶ行き詰っているのかな、と感じさせられた。
 次の“Ⅳ”でもう一儲けを、と引っ張るストーリーは見え見えで、「バイオハザードⅣ」では、お互いにエスパー的怪物に「進化」した、<アリス(ミラ)生みの親のサイエンティスト>VS<アリスとそのクローン達>の最終決戦となるであろう余韻を残して終わる。アラスカに逃げた生き残り達がどう絡むのかも“Ⅳ”へ引っ張る伏線となっている。
 それにしてもアメリカ映画というのは、どうしてこうも銃をガンガン撃ちまくるのか。銃社会を固定化しようと企むアメリカの闇勢力の意図を感じざるを得ない、一種の「サブリミナル映画」なのだろう。

 あまりのグロテイストに閉口して、口直しに「雲南の少女 ルオマの初恋」という、中国版純愛映画も見てきた。ストーリーそのものは他愛もない典型的な「純愛映画」で、まあ口直しにはちょうど良かった。
 ただ、映画の舞台となっている山間の民、ハニ族の村の棚田風景は圧巻だった。日本の棚田とはスケールが違う。主演の少女もハニ族とのことだったが、笑顔がとてもかわいいなかなか魅力的な少女で、民族衣装が良く似合っていた。「バイオハザードⅢ」のアリスとは好対照で、それだけでも見るべきところのある映画だった。