WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

あれ?

2008年05月26日 | 今日の出来事


左は最近(5月)買ったもの、右は今年1月に買ったチーズ。
(なんでそんな古いのが残っていたのかはさておき)なんか違和感が..。

横から見ると..、

こっそり薄くしてるし..!!

薄い方(左)は20g、前(右)は25gだった。
告知無しにこんなことしていいの?

「輸入飼料高騰で畜産業がピンチ。利益率の低いバター生産に原乳が回らずバターが品薄になり、利益率の高いチーズ生産に原乳が回っている」とは聞いていたように思うが、こっそりこんなことをしてチーズでもっと儲けようってのか。農政の無策、ひたひたと迫り来る食糧危機を、いやでも痛感させられるできごとではあった。


チップマルチ

2008年05月23日 | すぐれもの

 畑作では雑草防止と保温・保水目的で“マルチ”を施すことがよくある。代表的なものに敷き藁、籾殻、最近では手軽さでビニールマルチ(ポリマルチ)も多いが石油製品だし見栄えも良くないし、後始末をちゃんとしないと汚く見苦しい。使用後は自然に帰る?紙マルチならましかもしれないが少々値が張る。

 マツタケ山作りでは除間伐材が大量に出る。材として使えるものはまだ良いが、小径木や潅木では薪くらいにしかならない。まつたけ十字軍会員のNさんが、どこかから破砕機を手に入れてきて除間伐材を木材チップにしている。燃料にしたり、ぬかるみの舗装材に利用しているが、マルチとして使えないかと思って、トマトとカボチャを植えた畝でテストしている。今のところ大変具合がよく大いに使えそうだ。

 写真のように、カバーし切れていない畝側部には雑草が生えてきているが、チップで覆われた畝上部はほとんど雑草が生えてこない。桧の混ざるチップは、虫によっては防虫効果もあるかもしれない。
 晴天続きでもチップの下の土は適度に湿っていた。植えつけたのが霜の下りる時期を過ぎてからなので分からないが保温・防霜効果もありそうだ。しかも通気性、調湿性に優れた木材チップは、ビニールマルチのように蒸れ過ぎて根腐れなどの心配もない。秋になって用済みになれば、紙マルチのようにそのまま鋤き込んで一冬置けば肥料にもなるだろう。来年の植え付け時まで効果と様子を追ってみるつもりだがかなり期待できそう。


後期高齢者○○制度は医療だけじゃすまなさそうだ

2008年05月21日 | 今日の出来事
 ご存知「枯葉マーク」 、もとい「もみじマーク」である。
道交法の改正で、75歳以上の“後期高齢者”ドライバーは6月からこいつを必ず車に付けなければならなくなるらしい。いつのまにそんな法律ができていたのか、知らなかった。まあ、後期高齢者医療保険と同じ頃に同じ発想で可決成立していたのだろう。付けずに走ると4,000円の罰金だそうだ。お年寄りの皆さん、ご存知でした?毛原の元気なおじいちゃん達も軽トラに枯葉マーク付けて田んぼへ行かないと罰金取られるのだろうか?
 今、自民党総務会では、「6月からこれを施行すれば火に油を注ぐようなものだ」と戦々恐々なんだとか。
 以前、老人福祉に金をかけるのは「枯木に水をやるようなもの」と言った総理大臣がいた。
 後期高齢者医療制度では、「終末期医療相談料」なんて診療報酬があって、医者は、年寄りや死にかけの人に「どうやって死にたいか≒どうやって殺して欲しいか」相談に乗ってやるだけで2,000円もらえるそうな。将来、ほんとに相談に乗るだけで終わる制度のままなのかどうかは分からない。ブラックユーモアですな。
 金を搾り取れなくなった75歳前後以上の年寄りは、卵を産まなくなったニワトリと同じ、社会的邪魔者、ゴミだという発想が、資本主義とアメリカのしもべ=自民党政権には連綿としてあるということだ。そのうち年寄りは「枯葉マーク」、もとい「もみじマーク」入りの身分証明書や保険証、免許証を持たないと町も歩けなくなるかもしれない。

漫談説法

2008年05月20日 | すぐれもの

不覚にも買ってしまったお守り

 『鈴虫寺、もう行ったことのある方は読まんでよろし、わかるね。』
ちょっと、和尚の語りを真似てみました。

 遊びに来ている姪っこが「鈴虫寺」に行きたいというので連れて行った。私は2度目だが、和尚の鈴虫説法(漫談)はますます磨きがかかって、ヘタな吉本芸人なんかよりよほど面白い。500円なら安いもんだ。私は基本的に宗教は大大大っ嫌いなのだが、これはアリかな?と思わされてしまう。まだ行ったことのない方にはぜひおすすめしたい。
 ただし、『行くなら、平日の雨の日にしてちょうだいね。土曜休日は階段超えて駐車場まで人が並ぶの。5時になっても門閉められへん、せっかく来てくれはったん追い返すわけにいかん、わしサービス残業や』(和尚談)


実をとるのか景色をとるのか -里山の勢力図の変化-

2008年05月19日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 最近、やけに山が黄色いなあと思っていたら、一昨日の京都新聞に東山などでシイが増えていると報じていた。黄色のモコモコはシイの開花のようだ。シイにはツブラジイ、スダジイの実のように渋みが無く食べてもウマイものはあるのだが。
 松枯れで松が減り、ナラの仲間などの落葉樹もナラ枯れで減少し、シイやカシも燃料などに利用しなくなった結果、シイやカシといった常緑広葉樹がどんどん勢力を拡大しているのだろう。常緑広葉樹が増えると、山は針葉樹林のように年中緑が濃くなり、四季の変化が見られなくなる。四季の景観の移り変わりを観光の一つの売りにしている京都にとっては困ったことではあるのだろう。年毎に葉っぱが入れ替わる落葉樹の方が二酸化炭素固定の量は常緑樹より大きいかもしれない。また落葉樹の多い山では、夏は繁った葉が日陰を作ってくれ、冬には葉が落ちて森に日が差しこんで暖められるという利点もあるかもしれない。

 ただし、これが全国的な傾向かというとそうでもないようだ。
週末、姪の結婚式に参列するため名神~中央高速道を利用したのだが、沿線の里山で目立つのは京都のようなシイ等の常緑広葉樹の勢力増加ではなかった。先日、花を天ぷらにした北米原産の帰化植物ニセアカシアの白い花がやけに目立つのだ。ニセアカシアは、痩せ地でも繁殖力旺盛で、成長も早く数年で20mを越えるほどにもなるという。実際結構な大木が目立った。ただ、ミツバチがニセアカシアの花を好むといい、ハチミツ増産にはよいのかもしれない。環境への影響は不明である。このままニセアカシアが増え続けるとどうなるのだろう。今後、どのような森や山を作り残していくべきなのか、よくよく考えねばならない。


「楽天」が面白い

2008年05月16日 | 今日の出来事

 今日も新井が4打点を挙げて快勝。とにかく打線がよくつながっている。葛木、桜井、坂に加えて、バルディリスなんてオフにはノーマークだった掘り出し者まで現れた。巨人はバカみたいに大砲打つ野球しかできないチームに成り下がったが、肝心の大砲が次々壊れたり不発になって、今日はアベ君がなれない小細工をやろうとして見事に失敗。あまりに哀れでかわいそうになってきた。

 しかし、セリーグの野球は贔屓チームが勝つか負けるかの興味以外、あまり面白い野球をやってくれない。どのチームの野球もチームごとにそれなりに個性はあるが単純で規格品、次は何をやってくるのだろうというワクワク感があまりない。だから阪神ファンの私は阪神のゲーム以外見ても面白くない。

 今日の楽天vs西武、かつての近鉄命で近鉄が消えるときに涙した岩隈君がすっかり楽天野村野球の一員になっていた。投球術にいっそう磨きがかかってきている気がした。これもノムさんの指導か。チームとしてもスクイズはずしにダブルスチールといろんな野球の戦術、駆け引きの面白さを見せてくれた。かつて阪神時代のノムさんは、「ピッチャー新庄」なんて仰天采配で楽しませてくれたこともある。あのどうしようもなかったお荷物チームを、ここまでおもしろい野球のできるチームに作り上げたノムさんは、いろいろあってもやはり名監督なのだと思う。しかし、残念なことにパリーグのスタンドは寂しい。TV放送も少ない。セリーグは巨人ファンを筆頭に阪神ファンも含めて「勝つこと」しか楽しめないファンが多いようだが、それだけ球場来場者も多くTV視聴率も取れる。
 私としては勝負もさることながら、ゲームとしての野球そのものの面白さを楽しめるパリーグのような野球をやって欲しいし、もっと放送もして欲しいと思う。とりわけ今楽天の野球が面白い。


やっぱり大学病院は大学病院

2008年05月16日 | まつたけ

 今日午後、退院してから2回目のマッタケ山整備に山へ入った。
前回は施業地まで登るのに息も絶え絶えであった。たった10日間の入院だったが、ほとんど流動食、粥食、運動はせいぜいトイレや売店へ歩くくらいだと、年のせいもあるだろうが、あっという間に体力は落ちるものだとあらためて思い知らされた。
 今日は退院してから3週間、それなりに体力も回復したと見えて、しんどかったがまあ、前回よりさらに上の施業地まで一気に登れた。

 さて、今日午前中は、口腔外科で撮ったX線写真とCTで判明した「扁桃腺の石灰化」を診てもらいに京大耳鼻咽喉科を受診してきた。この耳鼻科の医者、これまで私が大学病院の医者に抱いていた偏見どおりの医者だった。
 診察室に入ると苦笑いしながらめんどくさそうに開口一番、「口腔外科からの紹介だが何を診て欲しいのですか」ときたもんだ。「X線写真で扁桃腺の石灰化が見られたので念のため耳鼻科で見てもらってください、と言われました」と説明すると、「ああそう」とパソコン画面にX線とCTの画像を出しチョチョイと耳、鼻、喉を診て(扁桃腺なのになんで耳と鼻診るのかわからん?)、「別になんでもないですね。今日はこれで結構です。」

 さすが京大病院、IT化も進んでいて患者のカルテもX線写真や検査結果もすべてネットワークでパソコン画面で見られるのだ。5年ほど前、府立医大を受診したときは、X線写真のでかいフィルムや検査の用紙を持たされて院内を右往左往したものだった。
 しかし、患者情報はなんでもネットワークで見られるということは、紹介文やカルテもパソコン画面で見られるはずだ。現にX線やCTの写真はパソコン画面に出してご覧になっていた。

 まるで、「こんなしょうもないことで偉い私のところに受診してくるな」と言わんばかりの態度。これではせっかくのK先生の親切な配慮も立つ瀬がないではないか。名医かなんか知らないが「二度とアンタには診て欲しくない」と思った。


生きることって

2008年05月14日 | すごい人たち

 ここしばらくお口の手術ネタが続いていますが、こうしたことがあると周りでもそうした話題になりやすく、私の入院・手術など足元にも及ばない壮絶な体験談が普段以上に耳に入ってきます。

 入院中同室だったSさんは、京大病院での腎臓移植第1号で胃も切っているそうで、毎日様々な免疫抑制剤がおやつ代わり。それでも入院中に抜け出してはパチンコをしに行くような陽気さ。私がジャイアンツをケチョンケチョンにけなしていたらジャイアンツのことを良くご存知なので、「どちらのファンで?」とたずねると「巨人」との答にひっくり返りそうになりました。
 向かいのベッドのHさんは、甲状腺・喉頭ガンで喉の周りをほぼ全摘、小腸を取ってきて喉を作り、首を動かせず4ヶ月は管で栄養を摂る状態で首が固まってしまい、リハビリが大変だったそうな。私が同室のときはすでにスタスタと自分で歩いてトイレや風呂、売店にも行かれてました。たぶん、再発の恐怖はあるだろうに。
 Nさんは、職場で倒れ意識不明になって救急車で運ばれ、脳腫瘍で手術。一命を取り留めたが再発し、再手術するか迷っているとのことでした。
 「田舎暮らし」なかまのSさんは、急性骨髄性白血病。ちょうど渡辺謙さんが発病されたのと同時期で、渡辺さんの闘病に励まされ、2例目の自家骨髄移植と、頭が剥げ副作用にのた打ち回るほどの化学療法の末、今では奇跡的に?健康を回復されたとのこと。今では、そんなことがあったとは思いもよらないほどの元気さだ。
 同じ仲間のKさんは自己免疫疾患の難病で長い入院生活の末、自宅療養を続けながら闘病中だ。今ではたまに現場にも遊びに来られ、薬のせいで少しふっくらされてはいるが明るく元気そうだ。
 また、Uさんは軽トラ運転中に大量の血を吐いて病院に担ぎ込まれ、胃ガンで胃の全摘、転移抑制治療を続け、食事を摂るのもままならないながらもどこにそんなパワーがあるのかと思うくらい、あちこち走り回って木に登ったりチェンソー振り回したり蕎麦を打ったりしておられる。

まったくみんな凄い人たちだ。 

 ポンペイウスさんが「人間として生きることの意味」記事で、「臓器移植してまでの延命や難病にお金をかけること」への疑問をコメントされていますが、私も過剰な延命「医療」には否定的でした。しかし、こうした方々のお話を見聞きすると少し考えを改めないといけないかな、とも思っています。


山菜料理の盲点

2008年05月14日 | ビンボー技

ニセアカシア(ハリエンジュ) ---実はこの植物も原産国はアメリカ---

 5月11日、大江町毛原の棚田体験ツアー恒例のクイズコーナーは、天ぷらにした山菜の名前当てクイズだった。世はまさに山菜ブームだ。私の場合は、食糧不足になったときのために今から食べられる野草木類の知識を増やしておこうというのと、ビンボーなのでできるだけタダの野菜を調達したいというのが動機なのだが。

 知り合いの野生児の一人、ツトムチャン=例の、長靴で槍ヶ岳に登ったお方=から「ニセアカシア(ハリエンジュ)の花は天ぷらにするとウマイ」と聞き早速試してみた。結果は、ウマイ・マズイという以前にあまり味がなかった。花が開いているものではわずかに香りが感じられたが。

 山菜の調理法では天ぷらがダントツだ。確かに山菜の天ぷらはウマイ、というか天ぷらにすれば山菜に限らず大抵のものはおいしく食べられる。フライと並んで調理法としても簡単で短時間に大量に処理でき、イベントや団体料理の定番だ。

 ところが、はたと思ったのだがこの「てんぷら」という料理、当然ながら食用油と小麦粉(素揚げという方法もなくはないが)が必須だ。食用油や小麦粉と言えば低自給率・外国頼みの代表食材だ。食糧危機になったら真っ先に無くなるだろう。これではいくら山菜があってもなんにもならない。山菜の佃煮もほぼ100%外国依存の醤油が無くなるので作れない。味噌が無くなるので味噌汁も“ぬた”(味噌和え)も作れない。依存外国からの食糧供給が止まると、山菜も塩茹でで食べるくらいしかできなくなるだろう。まるで戦時中だ。

 考えてみると、日本食は調理の大部分を大豆と小麦粉に依存している。何をさておき、まずはこの2つの自給率を上げることが急務だ。味噌、醤油、食用油も自家製造できるようにしておいたほうが良いかもしれない。


REM睡眠

2008年05月14日 | 今日の出来事
 ある研究によると、「REM睡眠の間に記憶の整理、定着が行われる。REM睡眠が少ないと記憶が悪くなる」そうな。
 つまり、とりあえずテストでいい点を取るためには、テスト直前の昼間集中的に詰め込んで、夜はちゃんと寝てREM睡眠で記憶を整理・定着するのがよい、同じ一夜漬けでも徹夜はあまり効果がない、ということだ。そう言えば、テストの前日集中的に一夜漬けをして夜ちゃんと寝ればそれなりの成績を取れたもんだ。3日もすればほとんど消去されてしまったけれど..

保険 ♪アヒルンルン~

2008年05月13日 | このごろ思うこと

 昨日、口腔内腫瘍摘出手術の術後経過診療で病院へ行ってきた。術前のインフォームドコンセントの“契約書?”では「口腔内腫瘍摘出手術」と堂々と書かれていたのだが、病理検査の結果は幸い良性のものでいわゆる“癌”ではなかった。おかげさまで術後の傷の回復も順調で、めでたく「死ーね」、もとい「シーネ」も取れた。「シーネ」をセットした状態での食事は食べにくいし食後の“掃除”もめんどくさい。久しぶりの自由な食事は快適でおいしかった。

 私の担当医はK先生という若い女医さんで、主治医の先生の下で研修中のようなのだが、患者とのコミュニケーションをとることに注力されているのが伝わってくる将来有望なドクターだ(別に美人だから贔屓してるわけではない。まあ、診てもらいに行くのが楽しみなのは確かだが)。
 診療が終わって会計の順番を待っていると、K先生がわざわざやってきて、「診断のためのX線写真で今回の腫瘍とは別に「扁桃腺の石灰化」というのが見つかったので、念のために耳鼻科を受診された方がよいと思います。予約を取れる日時を調べて相談の電話を差し上げますので。」と話された。
 「京大病院なんて大病院のこと、てっきり病院の事務かせいぜい看護師さんからでも電話があるのだろう」と思っていたら、なんと先生から直々に電話があり都合の合う日を話すと、「では私の方で予約をとっておきますので」と言ってくれた。正直言って予想外、医者、特に大病院の医者なんてお高くとまっているものと思っていたが、「私に気があるの?(んな訳無い)」と思ってしまいたいくらい親切。私はどちらかと言えば医者と病院(とりわけ大学病院)は大嫌いだがちょっと考えを変えようかな。

 さて、子供達が小さいうちは、私に万が一のことがあった場合を考えて「死亡、重度障害」中心の保険を掛けていた。しかし、年をとると今回のように次から次にあちこち“ガタ”が出てくるだろうし、家のローンもナントカ終わって、子供達もあと一人を残して成人したので生命保険ももう必要ない。病気・入院・手術中心の保険に変えようと問い合わせた。ただし、「いいな、いいな」や「アヒル」の世話にはならないつもりだが。
 保険屋ってのはどこも一緒と思い知らされた。「いいな、いいな」や「アヒル」のTVCMでは小さく「1.最近3ヶ月以内に医者から入院、手術を勧められたことがある。 2.過去2年以内に入院、手術したことがある ヤツはダメ」と書かれているが、どこも同じだった。結局、ついこの間入院・手術を受けてしまった私は、(結果癌ではなく大したことはなかったのだけれど)病気・入院・手術中心の保険には、変えることも新規に入ることも、あと2年間はできなくなってしまったのだ。

 要するに、保険屋の綿密なデータ解析の結果では、「1.最近3ヶ月に医者から入院、手術を勧められたことがあったり、 2.過去2年以内に入院、手術したことがある ヤツ」は再発、再罹患する確率が高い、保険屋が儲からないオイシくない客、ということなのだろう。アメリカの民間健康保険も似たような足切りがあるやに聞く。

 大ブーイングの「後期高齢者医療保険」でも、一応公的保険なのでさすがにこんな足切りはまだない(保険料払えないと保険証取り上げにはなるが)。しかし、医療費増大を口実に公的健康保険の保険料増や給付減が進んでいくと、いずれ民間の保険で補完せざるを得なくなってくるだろう。というより、「いいな、いいな」や「アヒル」達の目的はそこにあるのは間違いない。「最後の年金持ち逃げ世代?」=「団塊世代」の金をふんだくってやろうというわけだ。
 では、団塊以降=65歳からそれも減額された年金しかもらえない世代=は?。彼らが月々3,000円ぽっちで「50、80喜んで」入れてもらえる保険などその頃にはなくなっているだろう。「保障が欲しいなら若いうちに保険に入って延々と保険料を払い続けなさい」ということだ。


人間として生きることの意味

2008年05月08日 | このごろ思うこと

 よく「人間らしい(生活)」とか言うけれど、「人間」って何ゆえ人間であると思いますか?私は、人間の人間たるゆえんとは、その人が居たからこそ、この世にあるものが出現出来た、逆に言えばその人が居なければその何かは絶対にこの世に出現しえなかった、唯一かけがえのない存在、そういうものだと考えています。
てなことを入院してほんの少しですが「死」も意識して、「人間として生きることの意味ってなんだろう?」と徒然なるままに考えたのでした。(カワイイ看護婦(師)さんの後追いかけていただけではないのです)

 では、その人が居なければ絶対にこの世に出現しえないものってなんでしょうか?
例えば、お金や地位や名誉や、発明・発見、これらのものは別にその人でなくても誰かが具現化できうるものたちです。エジソンがいなくても誰かが電球を発明したでしょうし、ビル・ゲイツがいなくてもコンピューターは動いていたでしょう。村上さんでなくても誰かが上手いことやってたくさんのお金を稼いだでしょう。田村(谷)さんでなくても確実に誰かが金メダルを取れるわけです。
 もちろん、これらを実現させるには才能と努力は必要でしょう。私や貴方にも出来るというものではありません。しかし、誰かが確実に実現させることのできるものです。

 その人でなければ絶対にこの世に生み出せないもの、それは創作=芸術です。ピカソでなければピカソの絵は絶対に描かれることはなかったし、ウタダヒカルさんでなければ「オートマチック」は絶対にこの世に存在はしなかったし、村上春樹さんがいなければ「ノルウェイの森」は絶対になかった。科学はすでにこの世にあるものを知識として増やすだけのことですし、スポーツは人間の体の構造的限界を超えることは絶対に出来ません。
 何もこれらほど世に知られたものでなくてもいいわけです。私は趣味でチェンソーカービングというのをやっています。とても芸術作品とはいきませんが、その作品は私がいたからこそこの世に出現しえたということが大事なのであって、私がいなければ、私でなければ絶対にこの世には出現しえなかったということです。そういうものを私は残したいと思っていますし、それこそ一個の人間であることの最大の証、意味だと思っています。そして、この世にただ一つのものを残せたと自分が満足し納得できたとき、人間は「死」を恐れなくなると思います。

 アメリカの金持ちで、病気になり死を恐れるあまり治療法が見つかるまで、金にあかせて自分自身を冷凍保存する人たちがいるそうです。そうした人たちは、誰でも(「誰でも」というとちょっと語弊があるかもしれません、「誰かが」というのがより正確な言い方でしょう)残すことの出来るお金は残せたが、その人がいなかったら存在しえなかったものを残せなかったのでしょう。

 さて、そうした意味でもっと価値の高いものがあります。あたりまえのようですが、それは人間そのもの、とりわけ子供です。一人の人間は、その父親と母親とがそろわないと絶対にこの世には出現しえません。さらに一人の人間でも作れる芸術作品と違って、人間そのものは一人だけでは作れない、必ず特定の二人が必要です。さらに、その両親それぞれを作るのにそれぞれにまた二人の人間がいなければならない、2のn乗が延々と続くわけです。そういう意味で最も価値が高いと思います。(遠い将来、雌雄同体の人間が現れたり、無性生殖や人間の完全人工合成が出来るようになれば話は別ですが、そのときには生命や人間に対する価値観が現在とは全く異なってくるでしょう)
 だから私は、批判を恐れずに言いますが、DINKSなどといって子供を作らない人間(=価値0)より子供を作ってちゃんと育て上げた人間はそれだけで価値あり、偉いと思います。逆に、どのような事情・情状があろうと、人間とりわけ子供を殺してしまった人間は、殺した人(とりわけ子供)の何かを生み出す可能性と満足して死ぬ権利を奪った、負の価値を生み出してしまったという意味で人間ではなくなったことになります。もし私が「裁判員」になったらそのような人間には躊躇なく「死刑」票を入れます。

 今、「後期高齢者医療制度」なるものが大問題になっています。
医療に年齢差別を持ち込むことは良くないとは思いますが、そもそも保険やなんかで至れり尽くせり、できるだけ死期を遅らせること自体がほんとうに良いことなのか、疑問です。
 むしろ自分がいたからこそ生み出せたものをこの世に残し、満足し納得して「死」を受け入れられる「生」を送ることの方がずっと重要なことのように思えます。医療費が増えるのは、当たり前ですが「死にたくない」、あるいは周りの都合で「死なせたくない」からです(最近、死にたい人も増えているようですけど)。「死にたくない」のは、この世にまだ満足できるものを残していなくて未練があるからです。みんなが貧しく残したくても何も残せない人が多かった時代にはこの未練を神や仏で誤魔化してきました。
 現代は、金持ちの富だけを集めても、みんなが健康で生きている間にやりたいことをでき、30歳だろうが90歳だろうが満足して死ねるための社会を作ることが出来る時代です。そしてそれこそが医療費削減の最も本質的な策だと思います。
 例えば、個人が生きていくのに必要以上な5000万円以上の資産は国が接収し、その財源で週休3日自由取得制度、40歳定年制、定年先行取得制度(30歳~40歳まで定年を先行取得すると最終定年は50歳に延長)、現役年収の平均並み年金を保証する、その上で余れば医療などに回してもよい。
 医学、医療、医薬品にこれ以上ムダにお金をかけるのをやめ、病気・自然死を生き物の宿命として受け入れる。医学・医療なんてプラスのものは何も生み出さない。病気や怪我のマイナスを0に戻すだけ、あるいは近づけるだけの、本質的に金食い虫の学問なんですから。
 「死ぬからこそ生き物」なのだ」という名言もあります。当然、死亡率は上がり、平均寿命は低下し、総人口は減少するでしょう。しかし、自分だけは長生きしたいと欲を張らず、平均50歳くらいでどんどん次世代にバトンタッチしていけばよいのです。人類がこの地球の中だけでできるだけ永く存在し続けるためにはそれしかないでしょう。


ラップ

2008年05月08日 | ビンボー技
 ラップが巻き付いて出せなくなることがたまにある。セロテープなどで貼り出す方法は誰でも知っている。そこで新しくラップを開けた際、先端を引き出すために貼ってあるテープ(画像の青いヤツ)を、取り出し後も箱に貼っておくなどして取っておくといざというとき便利である。粘着力が手ごろで紙の箱に貼っておいても必要なときすぐ剥がせる。それだけ

田舎の食糧事情

2008年05月08日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 いよいよ地球規模での食糧危機が現実のものとなりつつある。日本でも遅ればせながら、食糧自給率向上の大合唱が始まっている。
 それでも、「いざとなったら都会はダメでも田舎へ行けばまだ大丈夫」なんて思っている人もいるのではないだろうか。私もなんとなくそう思っていた。大変な事態になる前に、田舎へ移住するか田舎との二重生活で自給自足をすればナントカなる、と勝手に都合よく思っていた。

 先日、田舎でBBQをしたのだが、「田舎には野菜なんか腐るほどあるだろう、田舎暮らしの知人からおすそ分けしてもらおう」と肉類だけ買っていった。ところが見事に当てが外れた。野菜は、すでにとうが立って“えぐみ”の出てきたオバサン(オジサン)?タケノコしかなかったのだ。聞けば、「今は野菜の端境期で食べられるものはない」とのこと。
 もちろん、今や日本ではどんなド田舎でも、金さえあれば車を走らせてスーパーで野菜(ただし地物ではない)はじめあらゆる食料を調達できる環境にはなっている。しかしそれでは、いつ食糧が店頭から消えるか分からない危ない都会となんら変わらない。
 農協の「野菜カレンダー」を見ると、ゴールデンウィーク頃が収穫期の野菜はキャベツ、タマネギ、ホウレンソウ、インゲン、小松菜、サニーレタス、...、と結構あるはずなのだが、今回BBQをした田舎は米作中心で、野菜はあまり作っていないようなのだ。都会人が遊び半分でやっている家庭菜園と同じで、ネギなどの常備野菜以外は、少量なら大半の野菜は作るよりスーパーで買った方が手間もかからないし安い。
 以前、大江のスーパーで長崎の人参を売っているのを不合理に思ったものだが、米農家は米だけをつくり、野菜農家は野菜だけを作り、農業はあくまで副業で勤めに出て金を稼ぎその他の食糧はスーパーで買う、効率重視の工業社会的分業が農業の世界にもできあがっている。野菜専業農家がハウスで多くの石油燃料を消費して出荷調整しているおかげ?で、スーパーへ行けば年中野菜が手に入る。しかし、巷間言われているように石油燃料もいずれ逼迫してくるだろう。

 価格が高かったり必要度が低ければ買わなければよいという、市場任せにできる工業製品と違って、食糧は生きるために一定量は絶対に必要なものである。現在のような分業農業によって食糧供給を安定的に持続させるためには、政治的な生産者・消費者双方への価格保証制度は不可欠だ。しかし、「価格保証なんかすれば農家は制度に甘えるし、また新たな利権構造を生む」という声もあるだろう。それも一理ある。
 そこで、生活の最小単位である世帯ごとに市場と関係なく食糧自給できる制度として、「平成の農地改革」をしてはどうだろうか。せめて自分達の食べる分くらいは自給したいと考える人達がいても肝心の農地を持っていない一方で、多くの遊休地を抱えながら貸し出しこそすれ手放そうとしない不在地主がいる。不在地主のほとんどは、土地の奪い合い・私有化の歴史の過程でたまたま先祖が自分のものとした土地をタナボタで引き継いだ人たちだ。
 そんな土地私有者から、生活のために必要最小限の50~100坪程度の土地を残して余剰の土地を全て国が接収し、一人当たり100坪程度を日本全国各世帯に人数に応じて食糧自給生産用地として再配分し貸し出すのだ。10年ごとくらいに世帯人数の見直しと農地の再配分を行う。
 「何をバカみたいなことを」と思われるかもしれない。しかし、そのくらいの改革を敢行しなければ根本的な解決はできないだろう。「官僚、役人」に農政の責任を押し付けて逃げ切ろうとする姑息な政治家もいる。確かに腐りきった「官僚、役人」は多いかもしれない。がしかし、そんな連中が発生するのも土地の私有・相続制度によるウマミ・利権構造があればこそだ。