今年お出しした年賀状です。
迎春 二〇一四年一月
昨年末は例年にも増して喪中はがきが多く届いた。そういう年齢になってきたんだなと寂しいような、元気な様子を知らせてもらって嬉しいような、そして少々“メンドクサク”て憂鬱なような年賀状の季節が、今年もやってきた。
昨年秋には、複数の元郵便局(現JP)関係者の方々から「年賀状を買うなら私から買って」と営業をかけられた。
10月頃、最寄の郵便局から年賀状の申込用紙がポスティングされていてすでに申し込んだ後だったので、申し訳ないながらお断りせざるをえなかった。郵便局に受け取りにいくと大歓待された。
社会問題としても“瞬間的に”話題になったが(日本の常で、時期を過ぎると何事も無かったかのように、もう忘れ去られている)、小泉民営化後、年賀はがきの販売ノルマが厳しくなったようだ。追い詰められた人が自腹を切って買い取る“自爆”なる行為も横行しているようだ。世界各地で“自爆テロ”が流行する昨今、こうした行為を“自爆”と呼んでいるのも興味深い現象ではある。
日本では、年初に挨拶を交わすという文化は平安の昔からあったようで、それを年賀状で簡略に済ませるという習慣は明治時代に始まったらしい。遠方などで会って挨拶するのも難しい、当時の社会状況下では、手軽に近況を知らせあう風習として有用な方法であっただろう。中国や韓国・朝鮮でも年賀状のような風習があるらしい。やはり同じ文化圏なのだなあ、何でもっと仲良く出来ないのだろう。もっとも、太平洋戦争中占領した日本がむりやりひろめたのかもしれないけれど。
私も幼少の頃、相手の近況を思いながら、イモ版や色鉛筆を使って心を込めた手書きの年賀状を交し合うのは楽しい年中行事ではあった。しかし、社会人になると、次第に印刷しただけの儀礼的なものが増え、会社社会は言わずもがな、家庭でさえ届く年賀状の多さを競い合うような変な風潮を感じたこともあった。
年賀状のやり取りは紙資源を大量に消費する。民営化されたJPでは先のごとく(元)職員の尻を叩いてノルマ達成の販売競争をさせている。届く年賀状のほぼ95%は、宛名まで印刷で済ませた裏表無味乾燥な“メンドクサイ”オーラを輝き放つ“印刷物”である。
もっとも、すでに会社などの利害関係を伴う組織員で無くなった今でさえ、例え“印刷物”ではあっても交し合える仲というのは、それはそれで利害抜きの人間同士の付き合いとしてありがたいことではあるが。
近年ではインターネットやスマートフォン(“ガラ携”)など、簡単便利で紙資源を必要としない通信手段がいくらでもある。相手がブログや流行のSNSをやっていれば、気になる人の近況をリアルタイムで知ることも出来る。
お互い「メンドクサイ」と思いつつも“印刷物”を送りあう個人的社会的労力と経費のムダ、資源の浪費を止める意味でも、年始の挨拶も可能ならば出来る限りそうした手段に移行しても良いのではないかと思う。それが“時代の流れ”というものだ。実際、子供達は年賀状のやり取りなんてもはや全くと言っていいほどやっていない。
ということで、私、来年から“印刷物”の交換は、それしか近況交換の手段がない方以外とは取りやめていくことにいたします。