アルカイダの仕業とされる、2001.9.11のいわゆるニューヨーク「同時多発テロ」、「テロとの戦い」を口実とした報復のイラク戦争(2003~)で160人以上の「敵」を射殺しレジェンドといわれたスナイパー、クリス・カイルの自伝をもとにした映画である。監督はクリント・イーストウッド。ウェスタン俳優、監督としては私の好きな一人ではある。
クリント・イーストウッドは共和党支持者でありながら「イラク戦争」には反対していたことはよく知られている。
一方最近の中東情勢。アルカイダNo.2だったザルカウィ(奇しくも本作品の標的としても登場する)を指導者とする最近のISの勢力拡大と数々の「テロ」。タイムリーというのは不謹慎ではあるが、イラク介入には反対の立場をとっていたイーストウッドがこの作品で何を伝えたかったのか、さらには中東イスラム圏と「イスラム国」に対する「アメリカ国」の姿を垣間見ることもできるかもしれない。これは是非観なければと公開早々観に行ってきた。
クリス・カイルは少年の頃、父親から「守られる羊や攻撃する狼にはなるな。羊を守る牧羊犬になれ」と教えられて育つ。
9・11を目の当たりにした彼は報復を決意して海軍に志願する。配属されたのはシールという特殊部隊。敵地への先陣突入を任務とする海兵隊などの実戦部隊のオペレーションに同行し、これを妨害する敵兵や敵に協力する住民などを排除し、前線部隊の任務遂行を側面から支援するのが任務である。戦場で直接援護するのは一般人の「羊」ではなく兵士である「狼」ではあるが、ともかく彼は父の教えどおり「シープドッグ」となったわけである。
4回のイラク派遣で160人以上を射殺し数々の「戦果」を上げた彼は“レジェンド”と称されるようになった。しかし、守るべき海兵隊員など味方を守りきれなかったり、シールズの同僚を亡くしたり、同じく海軍に志願した弟をも失ってしまう。
心を病んだ彼は、除隊後カウンセリングを受ける。カウンセラーが「敵地で多数の人間を射殺したことに心の痛みを感じますか」とたずねる。彼の答は「NO」、「テロリストとその協力者を射殺したことに痛みはない。悔やまれるのは味方を助けられなかったことだ」。
余談だが、時がたち平常心を取り戻した彼は、体や心に傷を負った退役軍人のケア・サポートの仕事を始めた。その後間もなく彼は、担当した「患者」の一人によって殺害されてしまう。その経緯は映画には描かれていない。映画の巻末クレジットには、「彼には残された小さな子供がいる。そのことを配慮して彼が亡くなった経緯については映像化されなかった」との解説が流される。
2014年、この作品が欧米で公開されるやイーストウッド監督作品として最高の興収(300億円以上)をあげ、特にアメリカでは映画関係者はもちろん、オバマ大統領夫人まで巻き込んで賛否両論論議を呼び社会現象となっており、アカデミー作品賞候補にも上っているという。
さて、この映画でイーストウッドが伝えたかったメッセージとは何だったのだろうか?
彼は、公開に先立つインタビューでこう話している。「私は戦争に対する政治的見解をこの作品で表明するつもりはない。ただ事実を伝えたかったのだ」
表面的には戦争の理不尽さ、最前線で戦う兵士が負わされる心の傷、兵士本人だけではなくその家族や国民にまで及ぶ負の影響などなど、血しぶき肉片が飛ぶタランティーノばりの銃撃映像とともに鮮烈に描写されている、とも言える。確かに、イーストウッドの言うようにリアルな戦場の銃撃戦の姿とはこのようなものだろう。
しかし、ウェスタンファンの私としては、この作品にジョン・ウェインを頂点とする“正統保守派の典型的西部劇=開拓時代から脈々と受け継がれているアメリカ合衆国の伝統的精神”といったものを見てとった。
正統保守派西部劇に描かれるインディアンは人格も個性も持たされない、合衆国に敵対する“悪”の象徴として描かれるのみである。対して主人公の開拓民やカウボーイ、ガンマンには、当然とはいえ、様々な感情もある人間としてのドラマが描かれる。
私には、殺されても殺されてもただ闇雲に突撃してくるインディアンの姿が、この映画に登場する“アルカイダ”と思われる兵士たちやその他の武装勢力、民間人協力者、進駐米軍に反感の行動を示す住民たちと重なって見えた。
西部劇でも主人公を際立たせる演出として、主人公と対決するソコソコ強いインディアンが登場することがある。本作でも同様に、クリス・カイルに対抗する凄腕オリンピアンのシリア人スナイパー(ジョニー・デップ似のイケメンなところがニクイ)が登場するのだが、単なる冷酷なスナイパーとしてしか描かれていない(ゴルゴ13?)。メダリストだった彼が何故、そのようなスナイパーとならざるを得なかったのか、その背景は分からない。
対戦車手りゅう弾を抱いて米軍戦車に挑むイスラム教徒(であることはその服装から推察できる)の母親は何故そのような自爆テロ的行動に出ざるをえなかったのか。クリスに射殺された母親から手りゅう弾を託された幼い息子も、母から託された目的を遂行する前にクリスに射殺されてしまう。まるで“里山を荒らす害獣”のようにハンターに駆除される、ただそれだけの存在。
高性能銃、戦車、軍用ヘリ、輸送機、爆撃機、圧倒的に優位な米軍事力。最後に控えるのは泣く子も黙らせる核兵器。「テロリスト」には必ず報復し、完膚なきまでにたたきのめす。弱肉強食、自己責任、自己中心的な正当防衛論理、そんな合衆国の「正義」に国民は陶酔し、熱狂する。アメリカンスナイパーはそんなアメリカ国民の精神構造を具現化した映画に他ならない。
ベトナムやアフガン、イラクのような泥沼化に、アメリカ国民は戸惑い、9・11のように自分たちの領域が直接侵されるとうろたえ狂気を帯びて凶暴化する。アメリカは強くなくてはならない、絶対王者でなければならないのだ。
イーストウッドがイラク介入に反対したのは、イラク国民、イスラム圏住民の平安に思いを寄せたからではない。米国民が、ありえないような事態にうろたえ、混乱、狂気することを恐れたからに他ならない。泥沼化によるアメリカ国民の厭戦気分の醸成、さらには「窮鼠猫を咬む」的なアルカイダやイスラム国のような命知らず集団の発生とアメリカ本国への波及という、強いアメリカを内から脅かしかねない殉教ジハードを恐れてのことだろう。
命を惜しまないものほど怖いものは無い。追い込まれた人間の精神と行動など想定もできない。「夕陽のガンマン」などかつてのイーストウッド主演に代表される古き良きウェスタンは、撃たれる方も派手にアクションするものの血しぶき肉片が飛び散るわけでもなく、日本の時代劇の斬られ役にも通ずる、観客了解済みの予定調和エンターテイメント、芸としてのガンファイト、まさに娯楽(映画)であった。
イーストウッドはそんな単純娯楽としてのウェスタンのガンファイトに対し、「許されざるもの」で殺す側の人間心理を描き出すことに挑戦し、「暗い」という批判も受けつつ西部劇の新境地を開いた。
しかし、殺される側の事情については取り上げていない。今や巨匠となったイーストウッドではあるが、殺される側に思いを馳せた作品は残念ながら未だ無い。ましてや中東の事情と難民に寄り添ったとあっては、かつてのレッドパージを想起するまでもなく、アメリカそのものを敵に回しかねない。いかなイーストウッドでもそこまでしての挑戦など思いもよらなかったのだろう。
ウェスタンが廃れて久しいのは一ファンとしてはさびしい限りである。テロリスト(ガンマン)は何故にテロリストとなったのか?そして撃たれ殺される側の思いは。そこを掘り下げない限り新しいウェスタンの可能性は生まれてこない。
日本でも自衛隊を海外の紛争地へ派遣できるように法改正しようという動きがある。「テロとの戦い」、「友軍の支援(集団的自衛権)」に日本もお義理を果たし、あわよくば「強いアメリカ」に倣って「強い日本」をというわけである。
そんなことどもをまともに考えることもせず、難民支援や難民「報道」をビジネスにしようなどという愚か者が大勢に迷惑を掛ける事件が、年末年始にかけて起きた。中東は歴史的に宗教面でも社会制度面でも部族社会が基本の複雑な対立構造が存在し、それを利用して漁夫の利を得ようとする大国の思惑と介入が事態をますますややこしくし、そのトバッチリで多くの罪も無い一般難民が生み出されていることなど、わざわざ危険地に赴いてこれ見よがしの映像など撮って見せてくれなくとも十分に分かる。それくらいの理解力と想像力は持っている。
とまれこの映画は、中東の戦闘地域とリアルな銃撃戦というのはさもありなんという、ソコソコのリアリティだけは見せてくれる。それ以上でも以下でも無い。ただ、DOLBY SURROUND7.1の臨場感あふれる音響効果だけは一聞の価値はあるかもしれない。