彦根市石寺地区で開催された「まちづくり勉強会」でのマツタケ山作りワークショップにまつたけ十字軍として参加させていただきました。
滋賀県立大地域再生モデル研究チームと石寺地域住民の方々との共同町おこしの取り組みの一環として、かつてはまつたけがたくさん採れた地区のマツタケ山を再生するためのワークショップにお招きいただきました。
驚いたのは、10~20年生と思われるアカマツを中心にかなりの数がマツクイムシにやられずに残っていたことです。
周知のとおり西日本の山はマツクイムシの猛威にさらされて松枯れの進行が著しく、環境異変とあいまっていずれマツタケも絶滅危惧種と化すのでは?と心配されています。
地域の方にうかがったところでは、「この山も50年代以降、薪燃料調達などいわゆる里山としての利用が行われなくなり、荒れ始めてやはりマツクイムシにやられ松枯れも激しかった。20年ほど前から県の補助金で除間伐とアカマツ苗の植林が行われるようになった。」とのことでした。
確かに、写真手前の区域などに下草に隠れるように、すぐ植林と分かる等高線に沿って等間隔に植えられたアカマツ苗が並んでいました。しかし、植林後の手入れが十分でなく、アカマツ苗が下草に覆われて日当たりが悪くなり成長不十分で弱っていそうな幼松も見られました。
アカマツが成木となったらマツタケ発生に適するように、地面が乾き過ぎないように適度に下草や潅木を残す調整も必要でしょうが、苗が小さいうちはとにかく下草刈りをこまめに行って幼苗に十分に陽が当たりすくすくと成長してくれるような管理が求められるでしょう。
後方の若いアカマツ林もほぼ等高線に沿って生えており、以前植林された苗が成長したものと思われます。こちらの領域は、地面の富栄養化で競争力の強い常緑樹などの繁殖でアカマツが駆逐されてしまわないように、また、マツタケ胞子を受け入れられるように定期的な除間伐と地掻きが必要でしょう。
それにしても、一度除間伐と植林で更新されたにしろ、これだけのアカマツがマツクイムシにやられずに残っているのは驚きでした。
要因として、①マツクイムシには樹勢の衰えた老木がやられやすいが、この山は植林後間もなく若い木が多い、②他の山塊とは離れた独立峰(といっても標高高々260mほど)となっていてムシが入り込みにくい、③琵琶湖近くで湖から吹き上げる風で比較的気温が低く保たれる、などが考えられるかもしれませんがはっきりしたことは分かりません。できれば調査で要因を明きらかにしてもらえれば他での参考にもなるでしょう。
また、標高わずか260m、周径2~3km前後の独立峰であるにもかかわらず途中の沢ではさらさらと水が流れ、アカマツ林の地面はけっこう湿潤状態でした。前数日雨模様であったことを考慮しても保水力の高い山だと感じました。日当たりもよく整備次第ではかなり良いマツタケ山になりそうでした。
さて、ワークショップでお腹をすかした後は待望の昼ごはん。
まつたけご飯に、まつたけのお吸い物、地鶏すき焼き。今年のマツタケは凶作。私の今シーズンのまつたけ食はこれが最初で最後となりました。
昼食後の交流会では特産のジャンボ富有柿の皮むき大会。
県立大のまちづくり調査研究の一環で地域の古民家の蔵収蔵古民具を調査されており、見学させていただきました。古民家といっても大正時代のものとのことで、想像していた明治、江戸の茅葺き屋根と土蔵ほど古いものではなかったのですが、そこはそれ、大正デモクラシーと日本近代化の時代の空気の一端に触れることができて興味深いものでした。それらの中から特に興味を惹かれたものをご紹介します。
<蓑>
藁を編んで作られたどうってことない蓑ですが、興味深いのは表面に茶色のビニール?がコーティングしてあること。ビニール(塩化ビニル)の工業化は戦後ですから、戦前のものならビニールコーティングは無いでしょうし、戦後も間もなく雨合羽に取って替わられたでしょうから、戦後の一時期、蓑から雨合羽への過渡期の製品であったと推測され、販売期間はごくわずかの期間だったにちがいありません。現存する物は数少ない、貴重な資料と思われます。
特に、表面に印刷されたトレードマークが出色です。蓑をしょったカエル。カエルに蓑が必要かどうかは分かりませんが、何ともユーモラスでなかなか洒落たデザインです。戦時中の軍国主義下では絶対に無い、時代なりに平和で自由で明るかったからこそのデザインですね。
<自転車の空気入れ>
(蓑を撮ったところでカメラの電池がなくなってしまい写真が撮れませんでした)
長さ約60cm、ポンプ管の直径約7cmと、現代のそれより少し短くて太めです。ハンドルやポンプの形状自体は現代の物とそう変わりません。色はカーキ色。変色していることも考えられますが。自転車は見当たりませんでしたが、古いリアカーがあったのでそのタイヤ用だったのかもしれません
驚きはその軽いこと。金属製に比べればはるかに軽く、現代のプラスチック製空気入れと変わらないくらい軽い。当時は、現代のプラスチック製空気入れの素材であるポリエチレンやポリプロピレンはまだ無かったと思われます。触った感じや完成された円筒形から竹や木ではないでしょう。考えられるのは、当時万年筆などの素材であったエボナイトとか、ベークライト、キューピー人形のセルロイド?(はないか)。いずれにしても、これも当時の暮らしをうかがい知る貴重な資料です。
<鋤>(これも写真が撮れなくて残念)
長さ150cm前後、先の長い角スコップのような形状でスコップ部分が湾曲しているのが大きな特徴です。抵抗を少なくする工夫かスコップの中を3筋切り抜いてあるものなどが数種類ありました。
案内していただいた県立大の先生のお話によると、スコップ部分が湾曲しているのは、他にない近江北部の鋤の特徴だそうです。南へ下るほど湾曲が少なくなり大津あたりでは真っ直ぐな鋤が使われていたとのこと。何故なのか聞きそびれましたが、湾曲している物の方が土中に食い込みやすく田起こしがしやすいそうで、北部の田んぼほど土が固く起こす力の強い鋤が求められたのかもしれません。