WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

「森を育てる技術」 -TPPの熱気?が冷めないうちに考えたいこと-

2011年03月05日 | 面白かった本

著者:内田健一  川辺書林  2007

 「太陽光線を(植物が光合成に)使って、食料(森)を作る」
  (人類繁栄の基礎の基礎は工業でも金融でもない。太陽光と植物による光合成だ)
 欧米諸国では、ほとんどの国で農林業が国の主要産業として機能している。
 (・・・第一次産業従事者のアイデンティティーが十分に確立されている・・・)     
 (日本では、肉体労働者の社会的地位がきわめて低く、雇用が不安定で収入が低い上に、仕事は苛酷で危険が伴うことが半ば当然とされている)
 実践的な森林作業者(補助金にぶら下がる山主やお役人的森林組合のことではない)の社会的な地位や収入の向上が進まなくては、日本の森林の荒廃をくい止め、実り豊かな健康な森をつくることはできないだろう。・・・社会システムの確立が必要なのだ。
 日本にはかなりの数の森林ボランティアがいるけれど、荒廃した日本の森林をすっかり再生、復活させるためには、質量ともにあまりに無力である。
(本書第11章より)
   (薄字部分はブログ筆者注)

わたし的には、久々に出会った良書である。

 環境・エコブームの昨今、里山整備、森林ボランティアもあちこちで取り組まれている。その動機も、単に「アウトドアを楽しむ」ことから荒れる日本の森林、里山を憂えるものまで様々だ。
 日本の森林・里山の現状と行く末に問題意識を持った取り組みでも、その切り口や内容、手法も様々で、ときには相反するような場合もままある。中にはリーダーの独善的思い込みや社会的・金銭的利益への思惑のもとに行われるのではないかと疑いたくなるケースもある。
 要するに「なんとかしなければ」の思いはあってもバラバラ、混沌とした状態で未だこれといった成果が得られていないのが現状ではないだろうか。

 私自身、縁あって「まつたけ山づくり」を通しての里山再生を目的とした取り組みに参加させてもらっている。まつたけ山作りでは、人による山の放置や鹿などの影響によって勝手に(自然に?)増えてきたソヨゴ、ヒノキなどの常緑高木や、落葉によって地面を富栄養化させる落葉樹はどちらかというと邪魔者扱いされる。

 林業を生業とする人たちと協力して行われる市民ボランティアでは、市民は、言葉は悪いが、枝打ち下刈りの手伝いか森林組合や山主の下働きとしか見えない場合が多い。売るための“商品”を作るのだからシロートに大事な仕事は任せられないのは、ある意味当然だ。
中には、行政や企業イメージ戦略の一環の補助金目当ての「森林体験教室」など首を傾げたくなる場合も多い。

 市民レベルの里山作りでもっとも多いパターンは、広葉樹中心のいわゆる「雑木林」に仕立てるやり方だ。自分達のアウトドア“遊び”を楽しむことが主目的の場合が多い。それはそれで悪くはないし何もしないよりはマシかもしれないが、日本の森林・里山が抱える問題の解決にはほとんど貢献しないだろう。

 そんな現状を見るにつけ、プロ、アマ(市民)の相互補完も含めて何かもっと総合的・政治・社会的な視点で森林・里山問題をとらえ直す必要があるのではないかと思っていた。そんなときに出会ったのが本書である。

 実は、タイトルどおり本書の大半は400ページ余におよぶ森づくりの技術書である。それも著者の実務体験に基づく、プロにも役立つであろうかなり実践的なノウハウが含まれている。他者のやり方を批判したり結構辛らつな部分もあるが、それぞれの主張に著者の実体験に基づく理由付けが述べられているので説得力は高い。市民ボランティアにとっても、いやむしろそれぞれの技術に体験的裏づけが語られているからこそ、市民ボランティアにこそ役に立つものであるといえる。
 一方で、私が里山ボランティアに関わるようになって考えるようになった問題意識と解決方向が、冒頭に一部引用したように、最終章わずか15ページほどに的確ににまとめられている。


「宇宙は何でできているのか」

2011年01月10日 | 面白かった本

個人的な大疑問、 「宇宙と人類の存在する意味」のヒントを得たくて京都大学の市民講座「宇宙と物質の謎に迫る」を聴講したが、残念ながら肩透かしであったことは以前に書いた。

“宇宙本”、“世界観本”、“物理本”は結構読んだがなかなか良いヒントを与えてくれるものにめぐり合わない。
そんな中でこの本は「物質と宇宙の物理学」についての現段階での到達点を、新書と言う制限の中でも、一般市民にも分かりやすく解説している点では抜きん出て秀逸であった。

著者は東大出身だが、一般市民を小馬鹿にした京大の連中と違って、なんとか一般市民に寄り添って理解してもらおうとする熱意が感じられた。もともと自由闊達で市民よりなのは京大の方だと思っていたが、こと物理学の分野に関してはそんな伝統は変わってしまったようだ。

壮大な宇宙と極微の素粒子の両世界からのアプローチが、この大疑問の解明にとって重要なことがよく理解できた。
引力、電磁気力など物質間にはたらく力の相互作用はなぜ、どのようにして起こるのか、エネルギーと質量との変換等価性、反物質、統一理論に向けての混沌とした現状についてもよく理解できた。


ナマの京都(グレゴリ青山)

2007年09月20日 | 面白かった本
京都市外在住のマンガ家でイラストレーターの著者独特の感性で紹介する京都本である。
 京のいけず、いやぁかなんわぁ京言葉、京都の庶民なら誰もが一度は行ったことがある餃子の王将、おあげさん、おぶ、さば寿司、岩田呉服店、西村のエーセーボーロ、河波忠兵衛、山田木材経営団地、ぼんさんが屁をこいた、怪談みぞろヶ池..etc。

 が、紹介したいのはナマの京都もさることながら、「京のデッカイおあげさん」なのである。うちでやってるのと全く同じ利用法が紹介されていたのだ!

 京の“おあげさん”はデカイ。これをスーパーの10%引き特売などで大量に買いだめ冷凍しておく。うちの冷凍庫には常に10枚前後は用意してある。そのまま解凍して醤油とみりんで焼くと簡単ヘルシーステーキ、味噌汁の実に、小松菜などと煮物に、丼ものの具に、おいなりさん、チャーハンの増量に、肉の代わりに使えて安くてヘルシー、とにかく重宝することこの上ないスーパー食材なのだ。

 そのありがたいおあげさんも、「エコ・バイオエタノール」のとばっちりで値上げされるかもしれない。値上げどころか、自給率数%と心もとない大豆を売ってもらえなくなったら、おあげさん自体が超高級食材になってしまいかねない。いったいエコって何? 
 

ここまで来た!まつたけ栽培

2007年09月04日 | 面白かった本

 近年、里山の荒廃が言われ、里山再生が様々な視点から取り組まれている。京都でも山が荒れ、マツタケが採れなくなって久しい。今や高級ブランドの丹波マツタケは1kgが10万円もするそうだ。
 下図は京都の年間マツタケ生産量の変遷であるが、1955年(昭和30年)から激減しているのが分かる(著者の吉村先生ご提供)。
     
マツタケの人工栽培はいまだに実現していない。

 著者は岩手県岩泉マツタケ研究所で15年間マツタケの林地栽培に取り組み、みごと生産量を3倍にまで増やした。岩泉マツタケはマツタケとしてのブランド価値を確立し販売価額では4倍にまでなったという。本書は著者のマツタケ研究の到達点と林地栽培のノウハウをまとめたものだが、その言わんとするところはそれだけにとどまらない。
 まつたけは日本独自の食文化、里山文化と里山の多様な生態系に密接に結びついており、まつたけ生産がそれらの盛衰の指標にもなりうることを、歴史をひも解きながら語る日本文化の書でもある。著者はまつたけ増産を通してその文化や生物多様性を守り再生しようと訴え、「まつたけ十字軍運動」を立ち上げた。2年を経た今その運動は京都から全国へも広がりを見せようとしている。


「日本焼肉物語」 -焼肉の日に-

2007年08月29日 | 面白かった本

 昨日は日本中が皆既月食で盛り上がった。

 そんなこととは関係なく、今日は「焼肉の日」(8月29日)である。いろいろな政治的、経済的思惑でやたら「~の日」が氾濫するようになってしまった日本では、皆既月食と違って「焼肉の日」もいまひとつ盛り上がらない。知らない人も多いだろう。
 「のどもと過ぎれば...」の日本人の国民性で、今は忘れ去られた感のあるBSE騒動で青息吐息(かどうか知らんが)の「焼肉屋さん」がかわいそうだから今日は「焼肉」へのエールをこめて「焼肉」薀蓄本の紹介を。

 本書は「焼肉」と「焼肉屋」の誕生物語である。
 日本で最初に「焼肉」を提供した店は東京の「明月館」と東京で創業した翌年大阪千日前へ移転した「食堂園」であった。ただし当時は「焼肉」専門の「焼肉店」ではなく、「焼肉」は朝鮮料理屋の数ある朝鮮料理メニューの一つであった。

 「焼肉」専門店が現れて「焼肉屋」と呼ばれるようになったのはそんなに古いことではなく、1980年代のことだそうな。本書によると日韓条約成立後、韓国系在日(民団)の勢力増大に伴って「焼肉」を出す料理屋は「朝鮮料理屋」か「韓国料理屋」かでもめ、妥協の産物として「焼肉」専門の朝鮮(韓国)料理屋を「焼肉屋」と称することになったとか。こんなところにも朝鮮半島分断統治の歴史的悲劇の影響が及んでいたのである。
 そもそもタレにつけて食べる「焼肉」は、朝鮮料理の「プルゴギ」を在日が日本人向けにアレンジした日本独特の料理で、本場「プルゴギ」はもともとタレなどつけずに食べる「焼肉」である。今ではタレにつけて食べる日本式「焼肉」が逆輸入されて当地の韓国料理屋でも出されるようになっている。
 ではバーベキューはどうなんだろう?在日の発明した日本式「焼肉」を今度は日本人が逆々輸入?して、さらに野外家庭料理として発展させたものであろうか。侵略にまつわる悲劇はいただけないが、このようなキャッチボールを通してそれぞれの国の食文化というものも変化し発展していくのだろう。


「夕日の丘」

2007年08月19日 | 面白かった本
 雑誌である。業界誌といったほうが当たっている。何の業界かはもうお分かりだろう。まだ分からないという方のために、本号の目次はこんな具合である。

特集 全国の市の花と木
私たちのふるさとが日本一シリーズ
.......-略-
美人と麗人のちがい
.......-略-
山城温泉が北陸随一になったのは
頼朝はなぜ鎌倉に幕府をひらいたのか
.......-略-
落ちてもともと受けたバスガイド
お嫁にいっちゃった皆さん
また言っちゃったコーナー

 もうお分かりだろう。弘済文庫も顔負けの雑学と内輪情報のオンパレードである。
本の入手先は姪っこ。モーニング娘。ばりのキュートな子でかなりの人気ガイドだった。ファンレターも結構もらったそうだ。
 この業界、一般人には身近なようで意外にベールに包まれた、あらぬ妄想を膨らませられる、ある意味芸能界以上に興味をそそられる「禁断の園」なのだ。

 お客が観光中、ガイドさんと運転手さんはどうしているのだろう?ロマンスが芽生えたりするのだろうか、などという下衆のかんぐりから、車酔いはしないの?立ちっぱなしで足が太くならないの?といった余計なお世話から、一人前になるまでどんな訓練を受けるのか?、あちこちの観光地へいけていいな、お勧め穴場は?などなど聞きたいことはたくさんある。この雑誌は、そんなこんなの疑問にも答えてくれる上に、目次にあるようないろいろなジャンルの雑学も知ることができる。ガイドさんの携行に便利なように小さいが、数ある業界紙誌の中でも一般人にとってもピリリと面白い本なのだ。

さて、そんな記事の中の「また言っちゃったコーナー」から観光土産の内輪話記事を一つ。
旅行会社の観光旅行で連れて行かれる土産物屋は観光業者とつるんでいる、と言うのはまあ周知の事実だが、以下はとある海沿いの観光地の土産物屋でのこぼれ話。

『...店頭で焼いて試食させている干物は、...一等品の荷崩れした切れ端。一等品だから切れ端にしても、脂がのっていてその風味は太鼓判もの、ところが客が買っていく(買わされている?)のは、三等品とか四等品の安物...』

『...客は「やっぱり日本海の魚介類は新鮮で、値段も安い」と笑顔を見せ、大型バスの横腹の大きなトランクに、これでもかというほど発泡スチロール箱をつめ込んでいる。わざわざ○○まで行って「築地の魚」を買わされなくても...』

「そんなことは知ってるよ」と訳知り顔をするのも結構だが、こうした不正もそんなふうに斜めに見て真剣に怒らない風土が、不二家やミートホープ、白い恋人など多発する食品偽装をも許すことにつながっているのではないだろうか。

どこかに○いってしまった○ものたち(クラフト・エヴィング商會)

2007年07月26日 | 面白かった本
 硝子蝙蝠、記憶粉、迷走思考修復機、万物結晶器、月光光線銃、深夜眼鏡、水密桃調査猿、全記憶再生装置、流星シラップソーダ...、なんじゃこりゃ。明治から昭和初期にかけて考案、発売されいつの間にか消えていってしまったものたち。一体どんなものだったのか、実用性はあったのだろうか(まあ無かったから消えたんでしょうが(^^ゞ)...、心にひっかかった方は読んでみることをお勧めします。ただし、絶対に最初から読み進めること。間違っても巻末(平成のどこかにいってしまったものたち)を先に読んではいけません。この本のせっかくの味わいが台無しになってしまいます。

クラインの壺 (岡嶋二人)

2007年07月25日 | 面白かった本
 「今私がいるこの世界は果たして本当に実在する現実なのだろうか」誰もが一度はフッと頭をよぎったことのある疑問ではないだろうか。
 バーチャルゲーム機のモニターを頼まれた青年は、現実とバーチャル2つの世界を行ったり来たりするうちに一体どちらの自分が実在なのか分からなくなり、やがて自我の崩壊の危機にさらされる。

 クラインの壺とはメビウスの環の三次元バージョンで、中と外の境界が無い壺、出口が入口でもあり言い換えれば出口も入り口も無く入ったが最後永久に出ることができない、そもそも外の世界があるのかどうかも分からない壺なのだ。イメージとしては壺の口がぐるっと曲がって胴体につながっている図がよく描かれている。

 現実とバーチャルとの往来(どちらが現実かも分からないのだが)をモチーフとする作品はその後数多く発表されている。小説発表から10数年後、似たような発想の映画マトリックスが公開された。一世を風靡した鈴木光司の「リング」。シリーズは「らせん」「ループ」と続き「定子の呪い」は実はバーチャル世界の出来事だった、という「夢落ち」ならぬ「バーチャル落ち」というような拍子抜けの展開を見せる。鈴木が「リング」で展開してみせた新しいホラーの世界とその筆力に感服した私は、著者がこの不条理をどう収束させるのか大いに期待してシリーズを読み進めたのだが「ループ」の「バーチャル落ち」にはがっかりさせられたものだ。 
 「クラインの壺」は現実とバーチャルの交錯物というジャンルを最初に確立しただけでなく、あえて落ちをつけずに自我の崩壊という究極の心理ホラーの手法をも同時に世に問うた記念碑的作品であった。

 そもそも現実なるものは実在するのだろうか、3つ以上の複数のバーチャル世界を生きる自我は現実ではない想念としてでも存在しうるのだろうか。存在するのならこれこそ多次元の世界かもしれない。
 
 新しい宇宙論の一つに「無限の複数世界が並行して存在しており時間とはその間を次々に移動することなのだ」という説がある。しかし、無数の世界を意思に関係なく移動させられる存在というのは、確かに時間を説明できても「自我」であると言えるだろうか。あるいは意思を持って移動する世界を選べるというのだろうか。そもそも宇宙は、物質は、人間は何のために存在するのだろうか。「宇宙がそれ自身だけで存在していても意味が無い。宇宙はそれ自身を認識されてこそ存在する意味がある。おのれ自身を認識させるために宇宙はその意思によって何億年もの年月をかけて人間を生み出したのだ。すなわち宇宙には意思がある」とする説もある。宇宙と人間の存在する意味、人間の意識は実際には無いものを仮想する単なる想念なのか、それともこの世界では単なるバーチャルな想念であっても別の世界には現実として存在するものなのか。そこのところを解き明かしてくれる力量のある小説家よ出でよ。似て非なるものに多重人格ものがあるがそんなものは私でも思いつく。