家庭内暴力を描いた映画。それ以上でもそれ以下でもない。
テレビやゲームソフトに出て来る暴力シーンは、どれほど子供に影響を与えるものなのだろう。子供の周囲からありとあらゆる暴力シーンを取り除いている北欧においても、暴力的な事件というのがなくなってはいない。人間というのは、自分が実行したいかどうかは別としても、どうしても暴力への傾倒があるように思える。
地球上の生命体のすべてが利己的な遺伝子によってプログラムされている以上、人間は「自己の生存率を他者よりも高めること」という原則に従って生きながらざるを得ない。それゆえ、生きていくうえで、本能的な他人に対する支配、暴力的な衝動、残酷さへの憧れが人間の行動を促すことになる。特に、生きるのが難しい時代、それがゆえに多様な価値観が許されなかった時代では、家族と言う最小のユニットにおいて、支配権をめぐった争いが起こるのは避けられないことなのだろう。昭和の時代。特に、戦前から戦後間もなくの他人との競争がすべてを支配していた時代では、家庭内暴力は当たり前の世界であった。日本に限らず、世界の国に目を向けても、貧困に苦しむ地域においては家庭内暴力が顕著な影を落としているのは明らかなことだ。
家庭内暴力について語るときに心から起こる最初の疑問の一つ、それは「なぜ被害者たちはとどまるのか」ということだ。支配は少しづつ始まる。父親、あるいは母親といった支配者は、被支配者が自らの価値を疑い、様々な形をとり増幅していく日常の暴力に耐えて、あらゆる批判的感覚を失うように仕向ける。この映画で北野たけしが演じる金俊平は、家族に対し、洗脳、乱暴さと優しさの交替、恐怖を植え付けるための、最初は密かな、次いでより直接的な脅迫を続ける。そして、妻の英姫はついには内面が完全に壊されて、ストックホルム症候群(人質に取られた被害者の拉致犯に寄せる共感)に似た感情を持つに至る。
昭和の時代に生きた男の価値観。金俊平は、家庭の経済や安全が保たれているのは、自分のおかげだと思いこんでいる。これからもその安全を守るのは、男であり、一家の大黒柱である自分自身だと思うことが家族への愛情だと信じている。そして性行為によって自分の支配関係を確認する。自分の望むスタイルを強要し、それを嫌がる相手に対しては、自分に対する愛情が無いと決め付ける。英姫が性行為を受け入れることで、金俊平は、自分のした行為すべてが許されたと錯覚している。いわずもがな、愛することは、相手に良いことを望むことであって、相手を破壊することでは決してない。
多くの女性は、暴力を描くこの作品に対し生理的な嫌悪を抱くかもしれない。もっとも、最近の若い女性は、男性のように振舞っているから、暴力的なシーンには多少なりとも耐性を持っていそうだ。支配者は、男性に限らず女性もまたそうなる可能性がある。暴力は常に親密さ、相手を壊すために利用される断裂と相手の弱さを知ることから生まれるからだ。
北野たけしは凄みがあった。というのも、テレビで見るコメディアンという拭いがたい印象により、映画での乱暴さと、ふだん見る優しさの交替が起こるからだ。スクリーンの前の我々は、金俊平がいつかは愛すべきコメディアンにもどってギャグで自分を笑わしてくれるとあらぬ錯覚をしてしまう。まるで、ストックホルム症候群のトラップにかかってしまったように。彼以外の配役ではこうはいかないだろう。まさに、観客の潜在意識に訴えた配役の妙だ。
年老いた金俊平が選んだ最後の地は祖国北朝鮮だった。全財産を祖国に寄付し、母親から奪略した我が息子と二人きりで余生を送る。祖国の慎ましい小屋で、輝かしいあの日あの船から見た大阪を思い返しながら生きていく姿に胸がつぶれる思いがする。昭和の時代を経験した人間として、実は自分も家庭内暴力の被害者であったことをぼんやりと思い出した。